創薬センター絡みの問題も落ち着き、いつもの日常が戻りつつあった頃。杉浦はうっかりジャケットに入れっぱなしだった盗聴器のインカムを返すため、八神探偵事務所を訪ねていた。
「ごめん、持って帰っちゃってた」
目立たない濃灰色のインカムが机を転がる。
「やっぱり探偵だとこういうのも使うんだね。こういうのってどこで買うの?」
その質問は単なる興味で、本気で欲しいとか遊びで使いたいというわけではなかった。こんなスパイグッズみたいなの仕事で使うってなんかかっこいいよね、といった意図だった。しかし、八神は少し考えた後にこう答えた。
「知り合いにこういうの作るのが得意なヤツがいるんだよ。ハッカーで、やたら器用なヤツ」
「え!?すごい!手作りなの!?」
予想だにしない返答に、杉浦は色めき立ってしまった。精密機器を手作りする器用なハッカー。惹きつけられるには十分な人物像だった。
「そう。いつもお友達価格で作ってくれんだ。”メイドインツクモ”って」
「へー、すごいなぁ…。ツクモさんっていうの?」
すごいヤツだけどめちゃくちゃヲタクで、でも人あたりが良くて、いつでも必ず力になってくれる。八神はツクモのことをこう形容し、出会いから今までの話をしてくれた。ここまでストレートに褒めるということは、本当に良い人なんだろう。しかし何より杉浦が気にかかったのは、自分と年が近い元引きこもりというところだった。もしかすると、自分と同じ時代に同じような境遇にあったのかもしれない。もしかすると、根っこの方では自分と近い人間なのかもしれない。尊敬する八神と仲が良いということも手伝い、まだ顔すら合わせていないのに、何となくそう感じていた。
「ツクモさんに会いたい!」
知れば知るほどツクモへの興味が止まらなくなり、ついに杉浦は会って話をしたい気持ちを抑えきれなくなった。体を動かして活動する自分とは違い、陰でインターネットを駆使して暗躍するハッカーで、情報屋で…しかも優しいときた。話をするだけじゃなく、もはや親しくなりたいとすら思った。
「ああ、多分快く会ってくれると思うよ。面白い話とか好きだし、窃盗団の話とかしてやれば喜ぶかもね」
そうして後日。八神に指定された場所は、喫茶店でもファミレスでもなく神室町のネカフェだった。
ネカフェというと、終電を逃したときなどにたまにお世話になる場所くらいの認識で、待ち合わせ場所になる印象はなかった。話は通してあるから、A3と書いてあるブースに行けば杉浦が来たってわかるはずだよ。とブースの指定までされており、まさか個室で会うのか?と杉浦の内心は少々ざわついていた。しかし気持ちは抑えられず、伝えられた個室の目の前まで来てしまった。耳を澄ますと、キーボードを叩く音が聞こえる。
――居る。
ぴったりと閉じられた薄い扉の向こうに、少し背伸びをすれば覗けてしまうくらい低い扉の向こうに、件の人は居る。長い間逡巡していたが、いつまでも個室の前に突っ立っていたら怪しまれると、意を決して扉を叩いた。その音より、杉浦の心音はずっと大きかった。
「あの…ツクモ、さん?八神さんの友人の、杉浦でーす…」
「あなたが杉浦氏ですかぁ!八神氏から聞いております。お待ちしておりましたぞ~!」
言い終わる前に勢いよく扉が開いた。現れたのは八神に伝えられた通りの男で、されるがまま狭い個室の中に引き込まれてしまった。
「九十九誠一と申します。普段はここで、情報屋をしております」
個室の暗さと、伸びっぱなしの髪の毛と変わったデザインのメガネのせいで顔はよく視認できなかったが、その柔らかな声色だけでいろいろな話をしたい気にさせられた。この神室町に、こんなオアシスのような人間がいるとは。杉浦はフルフラットのシートに座りなおし、モニターの青白い光に照らされた九十九の顔をしっかりと見つめた。
「杉浦文也です。あの、盗聴器!使わせてもらって…すごいと思って。会いたくなって紹介してもらったんだけど、迷惑じゃなかったかな?」
「まさか!ボクも、町を騒がせたあのジェスターとお話ができるとは…ヒヒッ!是非話を聞かせてくだされ」
慌てた杉浦は言いたいことがこんがらがってしまったが、九十九は興味深そうにレンズの奥の目を細らせた。
九十九は口調こそ変わっていたが非常に聞き上手で、杉浦はつい饒舌になってしまう。窃盗団として危険な場所に忍び込んだこと、八神たちと協力してアドデック9の秘密を暴いたこと、その中で九十九に興味を持ったこと。そして、その事件の裏で姉が死んだこと、自分が引きこもりだったことも。つい話すつもりのなかったことまで話してしまった。しかしそんな話をされても、九十九はふむふむと相槌を打ち、真剣に耳を傾けていた。いけない、重い話をしてしまった。気づいた杉浦が口をつむぐと、今度は九十九がぽつりぽつりと話をし始めた。
「ご存じとは思いますが、ボクも杉浦氏と同じ引きこもりでした。自室に閉じこもって毎日インターネットと深夜アニメを観漁り、…何のために生きているのかわかりませんでした。そんな時、困り果てた両親からの依頼で八神氏はボクの元にやってきました。…部屋から引きずり出されて、無理矢理社会に迎合させられる。そう思うと本当に恐ろしかったのです」
胡坐の上で組んだ手を組みなおし、うつむいた九十九はため息をついた。したくない話をさせてしまっているかもしれない。杉浦は慌てて九十九君、とその名を呼んだ。しかし九十九はその不安に目敏く気づいたようで、イヒヒと高い笑い声を上げて先ほど杉浦がしたようにしっかりと目を合わせた。
「実際はそんなことありませんでした。ボクの唯一の能力に価値を見出してくれて、無理に社会に適合する必要はない、お前の能力は必ず役に立つはずだと…。時には八神探偵事務所の手伝いもさせてもらいました。……こうして考えると、ボクたちは非常に似てはいませんでしょうか?」
あ、キラキラしている。
ほころんだ九十九の表情に、杉浦はそう思わずにはいられなかった。感じたことがない気持ち。ただの親近感ではない、どう形容するのが正しいのかわからないが、ふわふわ浮ついてしまうような気持ち。
「確かにそうだよね!ねえ、僕もっと九十九君と仲良くなりたい!」
自分に親近感を覚えてくれたのが嬉しく、思わず細く筋張った九十九の手を握ってしまった。
「ヒヒッ!そうですねぇ。ボクも、杉浦氏とはもっと親しくなりたいです」
急に距離を縮めすぎただろうか。自分でしたことにもかかわらず動揺した杉浦は重ねた手を放そうとしたが、九十九も応えるように手を重ねた。それは親愛の握手でもあり、愛着の抱擁でもあるような触れ合いだった。
「今日はありがとう。また来るね」
「勿論ですとも!楽しみにしておりますぞ!」
あまり長居するのもどうかと、連絡先を交換してその日は別れた。九十九はいつ来ても良いと言っていた。普段なら遠慮してなんとなく関係が途切れてしまうことも多かったが、杉浦は必ずまた訪ねると約束した。
帰り道、雑踏のあいだを行く杉浦の歩みは羽が生えたように軽やかだった。別れたばかりなのにまた会いたい。次はどんな話をしよう。九十九が好きだと言っていたアニメを観ておこうか。ネカフェで話すだけでなく、ご飯に誘うのも良いかもしれない。好きな食べ物はなんだろう。知りたいことや一緒にしたいことが山ほど浮かんできた。
「九十九君も、同じだといいな」
ふと口にしてしまうほど、すでに杉浦の頭は九十九のことでいっぱいだった。
厚かましい願いだが、九十九をもっと広く、美しい場所に連れ出したいとも思った。あわよくば、八神がそうしたときよりもずっとずっと素晴らしい場所に。
――八神さんにお礼を言いに行こう。いつもなら憂鬱に感じる人の群れも、今の杉浦には全く気にならなかった。
一方、狭い個室の中で九十九は一人やきもきとしていた。八神から言われてはいたが、あそこまで人懐こく、いわゆる”顔が良い”青年が来るとは思っていなかったからだ。八神の知人でなかったら少々敬遠してしまうような人が、自分を馬鹿にもせず真剣に会話してくれたことに、言いようのない緊張を感じていた。
「……」
先ほど触れられた手が、ドキドキと脈打つ。自分の目をしっかりとのぞき込んでいたあの瞳が頭から離れない。楽しそうに話す声も頭の中でずっと反響している。
九十九はこの感覚を、まるで恋をしているようだと感じた。
あれは単なるスキンシップだ。杉浦は少し距離感が近いタイプなのだろう。九十九はもどかしさに、少し乱暴にキーボードを打った。出来たばかりの清い関係を壊さぬよう、勘違いからお互いを傷つけることがないよう、杉浦とは”良いお友達”でいよう。そう決めた九十九のスマホが、机の上で低く唸った。
ディスプレイに表示されたメッセージの送信者は、頭の中を絶賛支配中の彼。
「――こんなんじゃダメ、なのです……」
今日出会ったばかりなのに、連絡が来るだけでここまで心踊らされてしまうとは。九十九はがしがしと頭を掻いた。
抱く思いが互いに同じだと気づき、二人が運命を共にし始めることを、今はまだ誰も知らない。