年上公安部のある深夜のフロアは、照明が一段階落とされ、静まり返っていた。
洗面所から微かに水音がする。
その音に惹かれるように、降谷は足を止めた。
中にいるのは風見だった。
鏡に向かい、黙って顔を洗っている。
濡れた髪が額に張り付き、シャツはくたびれて皺だらけ。
ネクタイはポケットに突っ込まれていて、袖口も少し汚れていた。
無精ひげが、顎から頬にかけて薄く伸びていた。
いつもなら剃り残しなど見せない彼が、今日だけは何も整えていない。
その姿は、傍目にはただの“疲れた男”にしか見えないだろう。
長時間の現場対応に追われ、余裕を失ったひとりの捜査官――
けれど降谷には、違って見えた。
シャツ越しに浮かぶ肩の厚み。
袖の奥から覗く腕の筋。
濡れた前髪の隙間からのぞく目元の影。
そして、剃られなかった無精ひげ。
だらしないなんて思えなかった。
むしろ、それらすべてが――
普段は隠されている、“男”としての風見をあらわにしていて。
(ずるいな、そんな姿)
知らず知らず、喉が渇くような感覚が湧き上がってくる。
「…どうしたんです?ぼうっとして」
鏡越しの風見に声をかけられて、降谷は一瞬、目を逸らすのを忘れていた。
気づけば、無言のまま歩み寄っていた。
手が勝手に伸びる。
風見の背中にそっと腕を回し、静かに抱きしめた。
「降谷さん?」
「はじめて、君が年上だと思ったよ」
声が、低く、ほんのすこし震える。
腕の中の体温がじんわりと伝わってくる。
風見は鏡越しにこちらを見た。
目尻が少しだけ緩む。
「今ですか?」
「今」
そのひと言を合図にするように、風見が静かに振り返る。
軽く押し返される形で、降谷の腕の中にいた彼が向き合う。
近い距離。湿った髪。
そして、目の前に来たその顔――
顎のひげに触れたくなる。
触れてしまえば、何かが変わってしまいそうで、怖い。
でももう、遅い。
風見が、そっと唇を重ねてきた。
深くはない。ただ、何かを確かめるようなやさしいキス。
次の瞬間、降谷の頬をかすめたのは――ひげの感触だった。
ざらりとした感触に、思わず降谷は身をすくめた。
「じょりじょりする……」
口をとがらせると、風見がいたずらっぽく笑う。
そして、わざと頬にすり寄せて、ひげをすりすりと押しつけた。
「ひどいな、それは結構な武器なんだぞ」
「そうですか?気に入ってたように見えましたけど」
その余裕ある言い回しがまたずるい。
降谷は反論せずに、ただ彼を見つめ返す。
喉がまた、きゅっと締め付けられる。
(よれよれの君に色気を感じるのは、僕だけでありますように)
そんな願いごとを、声には出さず、胸の奥でそっと呟いた。
やがて風見が少し身を引いて、洗面台に置かれた濡れたタオルを手に取った。
「戻りましょう」と言って背を向ける彼の後ろ姿が、やけに頼もしく見えた。
降谷は小さく息を吐き、袖口を握りしめる。
(年上って、ずるい)
今日何回目かの「ずるい」を頭に浮かべつつ、彼の背中を追いかけるように歩き出した。
(おわり)