灯り 屋上の扉を押すと、むっとした夜気の上を、細い風が一筋だけ通り抜けた。街はまだ灯っている。赤いサイレンが遠くでひと声。交差点は規則正しく色を変えるけれど、渡る人の歩調はばらばらだ。整っているようで、整っていない。夏の夜は、いつもそうだ。
ポケットから箱を出す。僕が煙草に手を伸ばすのは、こういう時だけだ。火をつけると、短く揺れた炎が僕の輪郭を浮かび上げ、すぐ夜に溶ける。ひと吸い、ひと吐き。火先が赤く呼吸するたび、街は遠のいていく。
「……静かだな」
独り言のつもりだったが、すぐ隣に足音がある。
「下の音がここまで届かないからでしょう。風が、ぜんぶ削いでしまうんだと思います」
風見は柵から少し身を離し、僕と同じ高さで夜景を見ていた。ネクタイはきちんと結ばれ、袖口だけ二度、折られている。彼は傷を人に見せない。そういうところが、厄介で、助かる。
「静かすぎると、落ち着かない」
「あなたは、そうでしょうね」
思わず笑いそうになる。煙を横に流し、灰を落とした。影の輪郭が風に合わせて揺れる。
「今日の件、どう思う?」
「……正しいとは言えません。でも、やらなかったときの方が酷かったと思います」
「そういう計算は僕の役目なんだがな」
軽口みたいに言ったのに、胸の奥は少し重かった。静かな夏の夜は、迷いが出やすい。
統計からこぼれる痛み、記録に残らない暴力。掬っても、次の日にはまた溜まる。
やっていることは波打ち際に線を引くみたいで、拭えば拭うほど、掌に砂が残る。
「……らしくないことを言った」
「いいえ。人間らしいと思います」
横顔の輪郭が、街の灯に薄く切り取られている。
僕は小さく笑って、煙を吐いた。
「買い被るなよ。愚痴も言う」
「愚痴でも弱音でも。吐いてください。自分が隣にいますから」
風が通ると、言葉まで温度を変える。
僕は黙って煙を吸い、熱を肺に転がして吐いた。
「……どこまでもお供します」
風見は視線を落とし、靴先で白線を踏んだ。
「あなたが夜に入るなら、自分は外で灯りを持っています…」
「詩人気取りか」
「寝不足なだけです」
「僕もだ」
ふたりで笑った。風が通り、汗が引く。その瞬間だけ、この世界は正しいと信じられた。
火の赤を見つめる。風に抗いながら、まだ消えない。夜は何も見せてくれない。けれど、すべてを奪いもしない。必要な輪郭だけ、こうして残す。
「今のは、自分しか聞いていませんから」
風見が、いつもの調子で言う。
僕は横目で彼を見る。約束を守る男だ。ここで落ちた言葉は、ここから出ていかない。
「帰るか」
「はい。明日も早いですし」
タバコを灰皿に押し当てる。ジュ、と短い音。赤が黒に変わる。
扉へ向かいながら、もう一度だけ街を見た。交差点が青に変わり、人が渡り始める。誰もこちらを見ない。
けれど背中には、確かな重みがある。
「風見」
「はい」
「……お前は全く頼もしいよ」
足音が二つ、同じ方向へ落ちていく。
(おわり)