夜のまんなかで降谷さんは完璧な人だと思う。
聡明で、強くて、優しくて。
それを言葉にしたことはないけれど、たぶん誰もがそう感じている。
時折「今晩、食事に来ないか」と誘いがくる。
その言葉に甘えて、僕は彼の家へ向かう。
玄関を開けたとき、すでに炊きたてのごはんの匂いがしていた。
茶碗と味噌汁椀、それから焼き魚と小鉢が二つ。忙しい人だろうに——この短時間で、ここまで整えたのかと思うと、自然と背筋が伸びた。
穏やかであたたかい食卓なのに、降谷さんにはどこか落ち着かない空気がまとわりついている。
笑っているはずなのに、目の奥に色がない。
声は静かで、動きも丁寧なのに、ふとした瞬間に神経が尖っているように見える。
「鯖の味噌煮、新しいレシピなんだ」
「美味しそうですね!!ありがとうございます!いただきます」
「……召し上がれ」
湯気の立ち上る味噌汁が、胃に優しく染み込んでくる。白菜と油揚げ、それに小口切りのねぎ。ごく普通の、どこにでもあるような具材の味噌汁。だけどきっと降谷さんのことだから丁寧に出汁がひいてあるのだろうか。これ以上ない美味さだ。
テレビでは、経済ニュースが流れていた。
円安の影響で輸入価格がどうこうとアナウンサーが話している。
「市民に影響が出るのは、たいてい二ヶ月後ですね」
「その頃には、別のニュースで上書きされてるだろうがな」
降谷さんがそう言って、くっと口角を上げる。
それは笑ったというよりも、笑おうとした、という表情だった。
ハロが僕の足元に寄ってきて、鼻先をちょんと当ててくる。降谷さんはその様子を見て、少しだけ笑った。けれどその笑顔も、どこかぎこちなかった。
日常を取り戻そうとしている。
だけど、まだ戻れていない。
そんなふうに見えた。
たぶん、誰にでも見せる顔ではない。ごく最近になって、降谷さんは僕の前で、ほんの少しだけ、こういう表情を見せるようになった。それが、信頼の表れなのか。それともただ、気を張る余裕もなくなってきただけなのか。僕には、まだわからない。
でも、わからなくても。
僕はその顔を、見なかったふりはできなかった。
その夜、彼が腕枕を求めてきたとき。
僕は特に驚かなかった。
いつものように「……腕」とだけ言って、
いつものように、彼は僕の左腕に頭を乗せた。
まるで、それが決まり事であるかのように。
今日の彼には、ひどいクマができていた。
顔色も悪く、肩も少しこわばっている。
……眠れていないのだろう。夢を見ているのか、それとも現実の続きか。
彼は決して語らない。
僕にできることは限られている。
あなたの役に立ちたいとか、支えになりたいとか、
そんな言葉を口にしたらきっと「余計なお世話だ」と一蹴される。
でも、それでも。
降谷さんが小さく呻いている声で目が覚めた。
いつの間にか額や首筋に汗をかいていて、手足が震えている。
呼吸が荒い。
悪夢に違いない…。
僕は声をかけるべきか迷って、タオルで汗をぽんぽんと拭う。
熱はない。ただ、冷や汗のようにひたひたと流れている。
彼のためにできることなんて、ほんとうに少ししかない。
だから、せめて。
せめて、願う。
どうかこの人が、少しでも安らかでありますように。
この人の心が、少しでも軽くなりますように。
悪夢なら、起こしてしまいたい。
でも、現実も彼にとっては辛いのかもしれない。
僕がここにいることで、少しでも救いになれているのだろうか。
降谷さんをそっと、抱きしめた。
彼の後頭部を支えるようにして、もう片方の手で背中を撫でる。
静かに呼吸が落ち着いてきて、
やがて彼は、僕の腕の中で眠りについた。
僕はこの人の夜を知らない。
どれほどの静けさと痛みが、その奥に広がっているのか。
ただ、こうして抱きしめているあいだだけは、その闇がやわらいでくれたらと思う。
祈るように、願うように。
まるで、夜のまんなかに灯る、小さな光になれたらと。
明日また、完璧な降谷零が、何事もなかったように目を覚ますとしても。
――あなたが、少しでも幸せでありますように。
(おわり)