シンプル黒の組織が壊滅して、僕は連絡役の任を解かれた。肩の力が抜けるような安堵と同時に、ひどく静かな日々がやってきた。
家に帰って布団で眠れる。休日には洗濯物を外に干す。ベランダに揺れる洗濯物を見ていると、ああ、普通の暮らしってこういうことだったんだなと気付く。
カレンダーに赤丸をつけて「休み」と書き込むと、変に胸が空いた。こんなにも、自分には時間があったのかと驚く。
それでも――ときどき思い返す。
あの人の隣で過ごした、濃くて長い日々を。
最初の頃の降谷さんは、とても怖かった。
ニコリともしない。指示は端的で的確、こちらの動きもすべて見透かされているようで。自分はただ歯車のひとつにすぎないんだと、何度も思わされた。
それでも、時間を重ねるうちに知ったのだ。
あの人も笑うのだと。
昼食を抜いてコーヒーだけで済ませていた僕に、真顔で説教して、翌日には手作りの弁当を差し出してきたことがある。その時の誇らしげで満足そうな笑顔。
任務の合間に「行くぞ」と連れて行かれたカレー屋では、香辛料のうんちくを延々と聞かされた。やっと到着したカレーを食べるときには「食べる作法」も教えられた。帰りの車の中で「水、飲みたかったら飲んでいいんだぞ」とくつくつ笑う降谷さんはとても楽しそうだった。
夜中に二人でコンビニに寄ったこともあった。アイスを二つ買ってくれて、僕に渡したあと、自分の分をひと口食べて「甘すぎた」と小さくつぶやいた。
僕が「そうでもないですよ」と答えると、降谷さんはほんの少し照れたように笑った。「……ならよかった」と。
その笑顔は、思ったよりずっと柔らかく、はにかむようで。普段の厳しさとは違う顔を、僕だけが見たような気がした。
けれど今はもう、それも昔の話だ。
あの人は警察庁に戻り、これまで以上に大きな相手と闘っているだろう。僕のことなんか忘れて、ずっと上を、これからも歩いていく。
だから願った。どうか、誰かの隣で、笑っていてほしい――と。僕でなくてもいい。ただ、あの人が笑っているのなら、それで。
……そう思っていたのに。
休日の午後、街路樹を抜けた先で、彼は僕の声に振り向いた。
「……お待たせしました」
「すごい待ったぞ」
「えっ、!!?あっ、す、すみませ――」
慌てる僕に、彼は肩を揺らして笑った。
「冗談だ」
眩しそうに目を細めて、それでも口元にははにかんだ笑みが残っている。
その笑顔は、誰かのためじゃなく、まぎれもなく僕に向けられていた。
(おわり)