噂の風も遠くに消える月が庭園を柔らかく照らし、葉や花がその光を静かに反射している。噴水の水音が心地よいリズムを刻み、夜風がほんのり冷たさを感じさせた。その中でベレトは静かに立ち、夜の気配を楽しむように目を閉じていた。
背後から軽やかな足音が近づいてくる。振り返ると、外套を纏ったディミトリが立っていた。わずかに頬が赤く、どこか急いできた様子だった。
「ここにいたのか、先生。」
彼の低い声が静寂を破る。いつも堂々とした彼も、今夜はどこか落ち着かないように見える。
「どうしたんだ?」
ベレトはいつもの穏やかな口調で問いかけた。ディミトリは短く息を整えながら、一瞬視線を彷徨わせる。それでも次の瞬間にはしっかりと目を合わせてきた。
「いや…その……俺が婚約するって噂、聞いたか?」
その声には、どこか申し訳なさそうな響きがあった。
「ああ、聞いたよ。」
ベレトは眉一つ動かさずに答える。相手を疑う気配は微塵もなく、むしろその声には柔らかな信頼が漂っていた。
「でも、本当だとは思ってない。お前が何かあれば、きっと直接教えてくれると思ってるから。」
ディミトリの肩が僅かに下がる。それは緊張が和らいだ証のようだった。
「……やっぱり先生にはかなわないな。」
彼は小さく息を吐き、続ける。
「噂を否定しに来たんだが、どうやらその必要もなかったみたいだ。」
その言葉には苦笑が混じっていたが、どこか焦りも残っていた。そして、ふと声を低め、少し言いづらそうに口を開く。
「それでも……俺にはお前だけだって、それだけはちゃんと伝えたくて来たんだ。」
その言葉にベレトは一瞬だけ黙り込む。そして、噴水の水音に紛れるように小さく息を吐き、微かに笑った。ディミトリを見上げるその目は少しだけ呆れたようにも見える。
「そんな理由で来るなよ。」
そう言って一拍置き、さらに言葉を続ける。
「……会いたいと思ったから来た、そう言ってほしい。」
ディミトリの目が驚きに見開かれた。彼は何か言おうとするが、思わず視線を逸らし、低く短い笑い声を漏らした。
「……悪い。そうだな、先生の言う通りだ。」
その表情には少し照れが混じっていて、ベレトの微笑みをさらに深める。
「次からはそう言ってくれ。」
柔らかな声の中にも、どこか親しい温かさが滲んでいる。その言葉にディミトリは静かに頷き、わずかに微笑んだ。
「もちろんだ。今日だって会いたくて来たのは間違いない。」
ディミトリはそう言いながら、ベレトをそっと抱き寄せる。驚くように目を丸くしたベレトだったが、すぐに力を抜いてディミトリを受け入れた。そして、彼の頬にそっと口づける。
二人はふと顔を見合わせた。互いの表情を確かめるように一瞬見つめ合った後、どちらからともなく小さく笑い合う。その笑みは、言葉よりも多くの気持ちを伝えていた。