Beneath the Quiet Glow ガルグ=マク大修道院の鐘が穏やかに鳴り響く昼下がり。
その日、ベレトは講義室の隅々まで視線を走らせながら、ある違和感に気づいていた。
いつも授業開始ぎりぎりに教室にふらっと滑り込むリンハルト=フォン=ヘヴリングは、今日はとうとう顔を見せなかった。自分の元で理学をもっと学びたいという理由で、黒鷲の学級から転籍してきたリンハルトは、居眠りこそしても、講義の最初からいないというのはこれまでない。少し胸騒ぎを感じながらも、ベレトはやむを得ず授業を続行した。
結局、講義終了後もリンハルトは姿を見せなかった。嫌な予感がさらに膨らみ、ベレトは急ぎリンハルトの部屋へと向かった。
ベレトはドアをノックし、反応を待ったものの、返事はなかった。もうしわけないと思いつつ、そのまま室内へ足を踏み入れると、部屋の中は散らかった本や紙があちこちに散乱していたものの、そこに当の主の姿は見当たらなかった。
机の上には、ついさっきまで読んでいたらしい分厚い文献が開きっぱなしになっている。ページには精細な図案や古語のメモが挟まっており、確かにリンハルトの紋章研究に関する熱意がうかがえる。
ふと視界の端に、紙が落ちているのに気づく。手に取って確認すると、ユーリスの筆跡で地下都市アビスの入り口の場所、入り方などについて記された手紙だった。
(――まさか……アビスへ?)
万が一ということもある。過去には、生徒が誘拐されるという事件も実際にあったのだ。
アビスの地下は外界と隔絶された場所であり、完全に安全だとは限らない。
「……一応確認しておくべきだな。」
ベレトにとっては何度も訪れたことのある馴染みあるアビスだが、生徒をここへ連れてきたことはない。ここは様々な人が集う場所であり、なにがあるかわからないからだ。アビスは、修道院の地下区画にある隠された都市。かつて騒動を起こして地上を離れた者たちや、訳ありの人々がひっそりと暮らしている場所、そんなところへ貴族の令息・令嬢をおいそれとは連れてくるものではない。
地下へ続く薄暗い通路を進むにつれて、空気は急にひんやりし、明かりも心許ない。足音すら吸い込まれるような静けさの中、ベレトは進んでいく。やがて人気の少ない広間へ出ると、聞き覚えのある姿をみとめ声をかけた。
その一角で、教え子の一人であるユーリスは小さな子供たちにお菓子を配っていた。薄暗い空間にもかかわらず、子供たちは無邪気な笑顔を浮かべ、ユーリスから手渡された菓子を大事そうに受け取っている。
「おう、先生どうした? なにか用か?」
気配に気づいたユーリスが顔を上げると、子供たちに「この人に挨拶するように」と声をかけ、子供たちはベレトにそろって頭を下げた。ここアビスには顔役となる存在もいたが、実質取りまとめているのは紛れもなくユーリスだった。薄暗くやや居心地の悪い地下暮らしを、彼は気にするでもなく、まるで自分の庭のように仕切り、場を華やかにしていた。
「ユーリス、すまない。リンハルトを見なかったか?」
ベレトは遠慮がちに尋ねた。授業を欠席してまで地下に来るとは、よほどの用事があるのだろうが、先ほど見かけた地図の指示書には明らかにユーリスの名前も書かれていた。ユーリスは短く息をつき、口の端をわずかに上げる。
「ああー。もう気づいたか。せめて1日、いや2日くらいはごまかせると思ったのに」
「あいにくと、今日の講義に来なかったからな。すぐにでも行方を探すしかないと思った。それに…リンハルトの部屋に、お前の手紙があったんだ」
そう言ってベレトが差し出した紙には、簡潔な文でユーリスの名が記されていた。ユーリスは「あちゃー」というように肩をすくめる。
「隠そうってわけじゃなかったが、あいつもあいつで、気まぐれに動くからな。どうしても手伝ってやる必要があった。まあ、先生の目を盗んでやるつもりはなかったけど……リンハルトが“誰にも悟られずに”ってうるさくてさ。知られたくないなら手紙の始末もしっかりしてくれよ」
「リンハルトは、一体何をしているんだ? アビスに禁書があるかもしれない、なんて話までしてたが」
その問いに、ユーリスは思案顔になり、子供たちを軽く手で遠ざける。子供たちは「またあとでねー」と言い置き、ほほ笑みながら散っていった。
「ここアビスには、古い時代の文書やら、教団が地上で扱いに困った本が眠ってるらしい。俺だって全部を把握してるわけじゃないが、あいつは紋章学の研究とやらのために手当たり次第興味を持っている。こういう奴って、無自覚に厄介ごとに首を突っ込むが、まあ…。好奇心が勝るんだろ」
「はあ……。どうも危険な気がするな。アビスはある程度管理が行き届いているとはいえ、立ち入りを禁じられている場所もあるだろう?」
ベレトがまじめな口調で問い詰めると、ユーリスは「俺だって、その辺はきちんと把握してるつもりだ」と軽く笑う。けれど、その笑みの奥にはどこか鋭い光を宿していた。
「まあ、心配なら、先生が探してやればいい。あいつは今、奥のほうに行ってるだろう。何か見つかるかもしれないけど……。ま、色々調べられると都合が悪い連中もいるだろうしな」
「確かに。……ありがとう、ユーリス」
「礼なんざいらないよ。そうそう、奥へ行くなら子供たちには気をつけろよ。みんなあんたを“優しい先生”だと思ってるから、捕まると簡単には帰れなくなるぜ?」
どこか意地の悪い冗談めかしてユーリスが微笑む。いつもの柔らかい雰囲気とは異なる、地下都市をまとめる“灰狼の頭領”の眼差しだった。子供たちをはじめ、ここに暮らす多くの人々が彼を慕うのも頷ける。
「わかった。リンハルトを見つけたら、すぐに戻ってくる。……ユーリスも、あまり無茶をしないでくれ」
「へいへい。先生こそ、気を付けるんだな」
ユーリスはひらひらと手を振り、再び小さな子供たちのもとへ戻っていく。ベレトはその姿を見送りながら、“灰狼の学級”を率いてアビスを平穏に保つユーリスの手腕と、地下の人々への想いの深さをあらためて感じていた。
そして、改めて地図を握りしめ、リンハルトを追うため奥の通路へ足を進める。暗がりの先で、リンハルトは何を見つけようとしているのか。
(リンハルト、無事だといいが……)
ベレトはアビス内部をしばらく探し回った末、意外にも早くリンハルトの姿を見つけた。
彼がいたのは、女性用の仮眠室らしく、おそらく誰かがリンハルトを女性と勘違いして案内してしまったらしい。片隅の机に突っ伏して、リンハルトは実に心地良さそうに眠っている。
「……無事でよかった」
そう思うと同時に、ベレトは肩の力が抜けていくのを感じた。下手をすれば危険な場所に足を踏み入れる可能性もあったが、どうやら杞憂だったようだ。見る限り、リンハルトは追われることもなく――いや、もしかすると女性部屋にいることで面倒事から逃れられたのかもしれない。
机の上に広げられた本は、フォドラの歴史と紋章の関係をまとめた一般的な書物らしいが、細かい折り目が随所に入っている。ベレトが開いてみると、興味深い部分には走り書きのようなメモもあり、彼の研究熱心ぶりを物語っていた。
「この間まで黒鷲の学級にいたのに、理学をもっと学びたいという理由だけで青獅子に転籍してきたんだよな…」
ベレトは静かな寝息を立てるリンハルトの姿を見つめながら、そっと考えを巡らせた。
もともと彼は貴族社会のしがらみを嫌うような振る舞いが多い。その一方で、貴族の家系に生まれたからこその率直さ――相手が誰であっても臆せず意見を言う態度は、なかなか真似できるものではない。温和な表情の裏には、鋭い観察眼と知識欲が秘められているからこそ、人は彼を「厄介な怠け者」と見るか、「並外れた天才」と見るかで評価が割れるのだろう。
自分のペースを崩さず、昼寝の時間を死守するあたりは、確かに扱いづらいと思う者がいても不思議ではない。しかし、だからといって周囲が彼を放っておくわけではない。彼の才能は明らかだし、どんな学問であれ真剣に取り組めばきっとさらなる飛躍を遂げるはずだ。
「まったく、どうしてこうも危なっかしいところへ……」
そうひとりごちたあと、ベレトはリンハルトの肩に軽く揺すった。さすがにいつまでも眠らせておくわけにもいかない。
「リンハルト。そろそろ起きてもらおうか?」
声をかければ、緑の長髪がふわりと揺れ、リンハルトは伏せていた頭をゆっくりと上げ、まだ眠気の残る瞳でベレトを見つめた。
「……ああ、先生。おはようございます……いや、もう昼ですか?」
「夕方が近いな。そろそろ戻らないと、学級の誰かが心配して探しに来るかもしれないぞ」
リンハルトは伸びをしながら上体を起こすと、少し首を回して痛みを確かめるように肩を落とす。どうやらずいぶん長く眠っていたらしい。
「そう、ですね。ありがとうございます。……仮眠のつもりが本気で寝てました。…というか…先生…もう見つかっちゃいました?」
ベレトはリンハルトの問いにあたりを見回しながらうなずく。
「手がかりを部屋に残していたからね。それよりも、ここが女性部屋だっていう自覚はあったのか?」
「もちろん。ほら、僕って見た目が……女性と間違われるのもしょっちゅうで。勘違いされてもあまり気にしてないんですけどね」
そう言いながらリンハルトは、机の上に散乱していた本やメモを淡々とまとめはじめる。その無頓着ぶりに、ベレトは小さく苦笑を漏らした。普通であれば相当に困る状況だろうが、リンハルトにとっては「寝られる場所があるなら、それでいい」のだろう。
「とはいえ、制服のまま一人でここに来るのは危険だ。なにがあるかわからないからな」
「まあ…そうですね。でも僕こう見えてわりとしっかりしてますよ? 自分の身くらいは守れます」
「オレが隣に座っていても起きなかったじゃないか。」
「ああ、それは……先生ってわかっていたので……。」
リンハルトは目をこすりながら、小さなあくびを噛み殺し、涙の膜がうっすら浮かんだ瞳を、まっすぐベレトに向けた。
「本当は先生に相談してから来ようとは思っていたんです。でも、先生、学級のことで忙しそうだったから遠慮しちゃいました。すみません。」
素直に頭を下げるリンハルトの姿に、ベレトは少しだけ驚きつつも、すぐに納得した。
「そういう理由だったのか。それは悪かったな。次からは遠慮なく声をかけてくれていい。」
ベレトは柔らかく微笑みながら言葉を続けた。
「……とりあえず、無事でよかった。」
そう言うと、そっとリンハルトの頭を優しく撫でた。その仕草には安心と安堵がにじんでいた。リンハルトは少しだけ照れくさそうにしながらも、ふっと笑みを返す。
「ありがとうございます。次は、ちゃんと相談しますね。」
ベレトは軽く頷きながら、柔らかい声で言葉を紡いだ。
「リンハルトは綺麗な顔立ちをしているから。色々なトラブルに巻き込まれそうで心配した。」
その言葉に、リンハルトは一瞬だけ目を大きく見開いた。普段、彼が驚いたり動揺を見せることは少ない。それだけに、その反応はベレトにとって少し意外だった。
しかし、次の瞬間、リンハルトはにこりと微笑んだ。その微笑みには、少しだけ戸惑いと照れが混じっているように見える。
「やだな、先生そういうことサラッと言うんだね。僕からしたら、綺麗な顔の先生がそれを言ったところで説得力ないですよ。」
言いながらリンハルトは、すっと立ち上がってベレトの目の前に立つ。
「それに身長も僕のほうが高い。意外と男らしいんです、僕は。」
“綺麗”という言葉がどこか引っかかったのか、リンハルトの表情は思いのほか真剣だ。二人の視線がわずかに交わり、そしてリンハルトは照れを隠すように目をそらすと、机の上の書物を抱えた。
「まあ、いいですよ。先生、今日のところは戻ります。次に来るときは事前に先生にお伝えしますから、一緒に来てくださいね。」
「もちろん。一人では行かせない。」
ベレトがそう答えるのを聞くと、リンハルトは少しだけ唇の端を緩ませ、足早に部屋を出ていく。
リンハルトの後ろ姿を見送りながら、ベレトはふと考え込んだ。
(結局、彼は何を調べたかったのだろう?)
興味深げに広げられていた書物や走り書きのメモ。それらが何か重要な目的のためだったのか、それともただの好奇心によるものだったのか。けれど、それを詮索するのは今ではない。
(それは次回、引率したときにでも聞けばいいか)
そう自分の考えをすぐに改めると、ベレトは部屋の隅にいた女性に軽く頭を下げた。
女性が苦笑しながら「気にしないで」と応じてくれたのを見届け、ベレトも部屋を後にした。廊下へ出ると、少し先を歩いていたリンハルトが振り返り、明るい声を投げかけてきた。
「先生、早く行きましょう。もうすぐ夕食の時間ですよ。今夜はガルグ=マク風ミートパイらしいです。楽しみだなあ。」
さっきまでの寝起きの気だるさはどこへやら。リンハルトの声はどこか楽しげで、その軽やかな調子にベレトは思わず微笑んでしまう。
「そういう情報だけは良く知っているな。そうだな。急がないと、あっという間に食堂が混みそうだ。」
リンハルトがふいに立ち止まり、少し口角を上げながら軽く肩をすくめた。
「何言ってるんですか。混雑するのは先生の周りだけですよ。」
その言葉に、ベレトは一瞬驚き、次に微苦笑を浮かべた。
「そんなことはないだろう。」
「いやいや、先生が通るだけでみんなが振り向くじゃないですか。生徒からも住人からも信頼されてて。僕なんかと違って、本当に忙しそうです。」
リンハルトは軽い口調でそう言いながらも、その目にはどこか暖かさが宿っていた。まるでからかい半分でありながら、相手を称える気持ちを隠しきれていないようだった。
「リンハルト。そんな風に言ってくれるのはありがたいけど……君だって、いつも頼りにされているじゃないか。」
「僕は別に頼られるつもりなんてないんですけどね。ただ、自由にやってるだけですよ。」
リンハルトはそう答えながら、少し前を歩き出した。その背中を見送りながら、ベレトは微笑みを浮かべる。
「でも、それが君の魅力なんだろうな。」
「魅力だなんて……先生、またそんな風にサラッと言う。」
彼はその恥じらいを隠すように、足早に歩き出した。背中越しに軽い笑い声を漏らしつつ、その姿勢はどこかぎこちなく、普段の気だるげな振る舞いとは少し違って見えた。
しかし、数歩進んだところで、ふと足を止めた。
「先生、今日は本当にありがとうございました。こうして先生がそばにいてくれると、妙に安心しちゃいますね。」
振り返ったリンハルトの顔は、どこか真剣さを帯びていた。その目は、彼が普段見せる気だるげな表情とは違い、ベレトに向けられる信頼が色濃く映っているように感じられる。
「相談しないで勝手に動いてしまってごめんなさい。でも、紋章の研究は、僕にとってただの興味じゃないんです。今はまだ、どうしたいとか明確な気持ちはないのだけど、ただ、今はこれを深めることで、きっと何か新しい道が開ける気がしていて……だから、先生にも協力してほしいんです。」
「もちろんだ。君が何かを求めて進もうとするなら、いつでも力になる。」
ベレトが静かに答えると、リンハルトはどこか満足げにうなずき、再び歩き出した。
夕刻のアビスは、周囲では住人たちが忙しなく動き、通路を行き交う足音や笑い声がざわめきとなって響いていた。
「それにしても……アビスって不思議な場所ですよね。」
リンハルトがふいに呟く。その目は、通路の奥へ向かい、どこか遠くを見つめているようだった。
「暗くて閉ざされた場所だけど、ここには地上にはない自由がある気がする。何かに縛られることなく、自分のペースで生きている人たちがいて……少し、憧れますね。」
「確かにそうだな。でも君も、自分のペースで進むのが得意だろう?」
ベレトの言葉にリンハルトは小さく笑い、肩をすくめる。
「そうかもしれません。でも、それでも時々、先生みたいに真っ直ぐで、強い人がそばにいると安心するんです。僕に足りないものを補ってくれる気がして。」
「お互い様だよ。君の視点や発想には、いつも感心させられるから。」
そう言葉を交わしながら、二人は歩調を揃えて進んでいく。
二人は歩調を合わせながら、次第に人が増え始めた夕刻のアビスの通路を抜け、地上へと向かっていった。