夕暮れの約束 イグナーツは、筆を握る指先に少しだけ力を込めて、ため息を落とした。
「ずっと、風景画ばかり描いてきたんですけど……本当は、人物画や宗教画にも挑戦してみたいんです」
言葉の端々から伝わる熱意に、ベレトはゆるやかに微笑んだ。
「描きたいなら、描けばいい。もし、レアさまの肖像を描きたいなら、口添えをしよう」
ベレトの言葉を聞いた途端に、イグナーツは焦ったように両手を振った。
「いやいやいや! レアさまなんて、いきなりすぎますよ! 巨匠でもそう簡単に描かせてもらえないと聞きました。ボクなんかでは絶対、許されませんって……」
彼の顔は慌ててすっかり赤く染まっていた。けれどベレトは、その姿さえ微笑ましく思えた。ふと視線を下ろすと、目の前にはイグナーツが描きかけているキャンバス。ガルグ=マグの風景——夕暮れに染まる聖廟の塔や、穏やかにうねる森の稜線。それらがとても見事に、キャンバスの中に描かれていた。
ベレトは絵に詳しくはないが、それでも、この作品が見事であることは素人目にもわかる。きっと、あまりにも才能があふれているからこそ、イグナーツ自身が気づいていないのだろう。
「……本当に、きれいな絵だね」
その言葉を聞いた途端、イグナーツはばつが悪そうに視線をそらした。緊張にこわばった指先が、筆の持ち手を小さく震わせる。思わずベレトは、イグナーツが自分の言葉をどう受け取るのか考えた。世辞だと思われてもしかたない。けれど、今ここで言わずにいることは、むしろ彼への侮辱になる気がした。
「もっと自由に描いていい。イグナーツの絵はとても光輝いている」
――まあ…オレがそう言ったところで、説得力はないかもしれない。
ベレトはどこか申し訳なさそうに言葉紡いだ。その言葉に、イグナーツはそっと視線を逸らしながら、かすかに目元を潤ませた。そのまま大きく息を吸い込んで、涙の気配をかき消すように、まだ乾ききっていない絵具に筆先を落として混ぜ合わせた。
そんなイグナーツを見ても、ベレトは何も言わなかった。ただ、黙って隣に腰かけて遠く沈みゆく日輪のほうを眺めていた。深い静寂の中あって、まるで太陽が宵闇へ溶ける直前の短い瞬間を愛しんでいるかのようだった。
イグナーツは、そんなベレトの様子をちらりとうかがった。ふと目にとまったのは、夕日に照らされて仄かに輝く淡い髪色。まるで夕陽そのものが溶け込んだように、淡い緑が橙色の光をやさしく受け止めている。形容しがたいその美しさに、イグナーツは思わず息をのんだ。そんなイツナーツの視線をさほど気にも留めていないような風で、ベレトの横顔はどことなく遠くを見つめて、目を細めていた。
その夕暮れの光に染まるベレトの姿は、あまりに印象深くて、イグナーツは胸の奥が熱くなるのを感じた。彼の淡い髪が宵闇に溶けかけながらもほのかに輝いていて、その横顔に映った橙色の余韻までも、キャンバスに落としこみたい——そんな衝動が、一気に込み上げてきた。
「先生、ちょっといいですか?」
上ずりかけた声に気づいたのか、ベレトはようやく視線をイグナーツに戻す。
「どうした? そろそろ日が沈むし、片付けるのか?」
「いえ…その…」
喉がからからになったようで、イグナーツは言葉を探すように少し息を飲む。そして一呼吸おくと、何かを決心するように唇を結んだ。
「先生、先生さえお嫌でなかったら……先生の絵を、描かせてください」
ほんの一拍、しんとした沈黙が落ちる。最後の光がガルグ=マグを照らし、二人の間に淡いオレンジの影を残す。初めはわけがわからないという顔をしていたベレトだったが、すぐに驚いたように目を見開いた。
「……え? オレ? オレでいいのか?」
なんとも素っ気ない返事だった。それでも、いつもよりは心なしか柔らかい。イグナーツは少し慌てながらも、真剣なまなざしをそらさなかった。
「はい。ずっと風景ばかり描いてきましたけれど、先生は……今の先生の姿が、すごく美しいって思ってしまって。夕陽の色が先生の髪や、目の色に溶け込んで見えるんです。そういう瞬間を、ボク……描いてみたいんです」
そこには偽りのない思いだけがある。お世辞も、謙遜も抜きの純粋な願い。ベレトは少し照れくさそうに首をかしげながら、イグナーツを見つめた。
「オレか…」
反芻するその声は低く、どこか独り言のようだった。ベレトは無表情の奥で、なにか考え込むように唇をかすかに動かしている。少しのあいだ、言葉は続かない。イグナーツはそれでも待った。
夕焼けが深く沈むにつれ、修道院の壁も空も、刻一刻と色彩を失っていく。
やがて、ベレトはほんの小さく息をついて、イグナーツの視線を静かに受け止めた。
「……わかった。美しい云々はさておき、オレで良ければ、描いてくれ」
イグナーツは思わず目を丸くする。すぐには返事を期待していなかったのか、口をパクパクさせたあと、次第に安堵の笑みが滲んできた。
「よ、よかった……! ありがとうございます、先生!」
感激に声を震わせるイグナーツを見て、ベレトは少しだけ表情を和らげた。実際、どうポーズをとったらいいのか、勝手がわからないらしく、気まずそうに首を傾げている。けれどそれすらも、イグナーツの目には魅力的に映った。
「で……今すぐ始めるか?」
少し神妙な面持ちでそう尋ねるベレトの様子がおかしくて、イグナーツは思わず声をあげて笑った。
「やだなぁ先生。さすがに今からは無理ですよ! また別の日にお願いします」
明るい笑い声にベレトはきょとんとしたあと、ほっと息をついた。
「そうか……よかった」
助かったような、むしろ嬉しそうにも見えるベレトの姿が面白くて、イグナーツはくすくすと笑いながらキャンバスと筆を片付けた。
「先生ありがとうございます。うまく描けるか分かりませんが、精いっぱい頑張ります」
するとベレトは苦笑まじりに首をかしげながら答えた。
「いやいや……オレも精一杯頑張る」
その言葉にイグナーツは、ふっと笑みを浮かべた。
「普段どおりでいいんですよ。先生らしくいてくれたら、それだけで充分ですから」
◇
それから10年の月日が流れた。今やガルグ=マグ大修道院は戦災を乗り越え、大司教となったベレトのもとで平穏を取り戻している。そんな大修道院で開かれる「美術品の特別展」は、毎年多くの見物客を集める盛大な催しだ。
神聖な聖人の彫刻、荘厳な装飾品、そして様々な技法で描かれた宗教画——どれも見応えのある作品ばかり。そのなかでも、ある一枚の小さなキャンバスがひときわ異彩を放っていた。
人だかりの中心にあるその絵は「大司教猊下が教鞭をとられていた頃、イグナーツ=ヴィクターが 初めて描いた人物画」。そんな特別な謳い文句とともに展示されている。
キャンバスには、至って自然体のベレトが描かれていた。凛々しく椅子に座っているわけではない。祈りを捧げる姿でもない。そこにあるのは——
修道院に住みつく猫へ餌をやり、穏やかな表情を浮かべる大司教の姿だった。
一目見て、その絵の柔らかな雰囲気に惹きつけられる人が続出している。
作品そのものは小ぶりのサイズだが、見る者の心をほぐすあたたかさが満ちていた。キャンバス越しに感じられるのは、人としての素朴さと優しさ。まさに、イグナーツ自身が思い描き続けた“自由な姿”そのものだった。
そんな様子を展示会の片隅にみていたベレトは、作品への反響をそっと聞かされ、少し照れくさそうに目をそらした。
「あの時の絵がこんなことになるなんて……」
その呟きに、遠目で見守っていたイグナーツは静かに微笑んだ。いまや芸術家として評判を集める青年になった彼は、かつての自分の迷いや不安を思い起こし、懐かしくなる。
——もっと自由に描いていい、イグナーツの絵は光輝いている。
あのとき、ベレトがくれた何気ない言葉が、彼の人生をどれだけ支えてくれただろう。
そして今、この絵を見た誰もが微笑みを浮かべる。このキャンバスに映し出されたのは、かつての“恩師”であり、今は“大司教”の等身大の姿。
温かな思いを注ぎ込まれた、イグナーツの初めての人物画。そこには、懐かしい日々がぎゅっと凝縮されているようだった。