依存 テランスに憶いを告げられてから、ディオンはテランスよく観察するようになった。肩幅が思いのほか広く、背中も大きい。それなのに腰が細い。目が合えばにこりと笑って「どうされました?」と高確率で言う。靴はいつも左から履く。くしゃみは二度することが多い。匙の持ち方に少し癖がある。などなど…。十年以上も一緒にいたのに初めて気づくことが沢山ある。
男に憶いを寄せられるなど思っても見なかったが、テランスなら不思議と嫌悪感はなく、それ以上に幸福を感じた。更に、今はまだ殆ど寝たきりのためテランスとの距離はいつも以上に近い。が、もっと近くに…できるだけ長い時間を…と、欲するようになった。
足音が聞こえる。テランスの足音だ。こつこつと小気味良いリズムで、床を擦るような音はさせないのが彼の特徴だ。踵から地面に足を落とし、足の裏全体で軽快に蹴る。
「昼飯か…」
ディオンはため息をついた。
「ディオン様、お昼をお持ちしました」
テランスがそば机に盆を置いている背中を見ていると、いつしか両腕が伸びていた。振り向いたテランスがそれに気づき、ディオンの体をゆっくり包み込むと、ふわりとテランスの匂いがした。この匂いと温もりをさらに感じたく、ディオンも強くテランスの体を両腕で包み込んだ。人に包まれる心地よさに暫く浸っていると、
「そろそろ起こしますね」
と、ディオンの体を丁寧にゆっくり起こし、背中にクッションを敷き、テランスは体を引き離した。温もりが離れ、冷たい大気がディオンを包む。
「何を食べますか?」
数週間も殆ど食べ物を口にしていなかったディオンの体は衰弱し、固形物を食べるにはしばらく時間を要するため、器に盛られているものはどれもペースト状の何かだ。以前は液状の何かだったものがペーストになったのだから少しは進歩したが、この食感がたまらなく不快であった。
「全部不味そうだな」
「そんなことはありません。このカボチャとチーズのは美味しかったですよ」
「味見したのか?」
「はい、いつもみています。不味いものはディオン様のお口に運べませんからね」
「どれも同じ食感で気が滅入る」
「もう少しの辛抱です。お体がよくなれば色々食べられます。はい、あーん」
テランスがカボチャとチーズのペーストをディオンの口下に運ぶと、渋々口を開けて二、三噛んで飲み込む。味はともかく、やはり食感が嫌だ。
「オリヴィエが同じようなものを食べていた気がする」
「離乳食ですかね?」
「同じかな?」
「さぁ…それはどうかと…」
テランスが困った顔をする。
食事の味はないにしろ、このやりとりはディオンにとっては掛け替えのない幸福な時間だった。食事が終わると苦い薬を飲まされ、ベッドに寝かされる。先程まで寝ていたのだから眠くない。
「全く眠くないのだが…」
「お眠り下さい。回復が早くなります。それでは、おやすみなさい」
食事を下げ、退室しようとするテランスに
「なぁ、何か物語を話してくれ。そうしたら寝る」
「物語…ですか?」
「神学校時代に同じ部屋だったろう?あの頃にしてくれた、氷の森の妖精の話…あれを聞いたら寝る!」
テランスは優しく微笑み、食器を置いてディオンの枕元に座り、御伽噺を紡いでくれた。昔の声より低いトーン…。ああ、そういえば声もずいぶん変わったなぁ。と、聞き入った。
固形物が食べられるようになると、テランスの温もりが少し遠のいた。嫌々ながらもペースト状の何かを一緒に選び、口に運んでもらったあの心地よさを下げられ、かわりに匙を渡された。それが不満なディオンはテランスとの距離を図るが上手くかわされる。少しでもテランスと一緒にいたいと思った苦肉の策が、食を共にする案だった。主従が別の部屋で食べなくてはいけないと言う決まりはない。
早速今晩から行うと取り決め、二人分の料理が運ばれた。
くだらない話をだらだらと続け、心地よい時間が続く。雰囲気も良く少し砕けたところで、テランスに身を寄せ
「一番は少しでも其方と一緒にいたいのだ」
と、やっとの思いで真実を告げ、顔を近づけた。テランスの瞳が揺らぐのがわかる。それでもぐっと近づけると、テランスは目を逸らし、パンに言及し始めて以降食事の速度は上がり、ディオンより先に平らげて雰囲気を打ち壊した。
ディオンの思いは募る…。
テランスの甲斐甲斐しい世話もあり、兵長と主治医から素振り訓練から初めて良い許しが出た。
「握力もずいぶん戻られましたね。明日から素振りも始められるのではと兵長が申しておりました」
「ああ、早く体を戻して前線に出て、父上を喜ばせたい」
「そう…ですね…」
テランスの顔が突然曇る。まだ、自分が大怪我を負わせてしまった失態に苛まれているのだろう。ディオンとしては二人の絆がより特別なものとなるきっかけとなったちょうど良い機会だ。と、最近ではポジティブにさえ思っていたのだが、あまりにも気落ちし、小さくなっているテランスを不憫に思い、抱いた。
腕の中で何度も詫びるテランスを宥め、慈しみ、額に口づけをしてやりたいほどの衝動に駆られたが、「主人として」の自分も同時に存在し二の足を踏み、つい出てしまった一言でしょぼくれていたテランスの目がかっと見開き、ディオンを強く抱きしめた。
より強く抱き合う二人に期待に胸を躍らせたディオンだったが、
「申し訳ありませんでした!ディオン様が目覚められた日からずっと浮ついておりました。心を入れ替えないといけません。貴方をずっと、一生、お守りいたします!」
「うん。頼りにしている」
と、耳元で囁き、頬に唇を寄せようとしたその瞬間、テランスはディオンから離れ、
「では、風呂の用意は出来ておりますのでお入りください。夕食まで私は稽古に行ってまいります」
と、部屋を出て行ってしまった。
呆気に取られたディオンは一人り残され、その後眉をひそめて自らを強く抱いた。
テランスに憶いを告げられてから、ディオンはテランスに依存するようになった。
幼い頃から愛情に飢え、愛を得るために親を盲目的に慕い、また期待に応えてきた。しかし思い描くような結果は得られなかった。
いくら周りから神童と褒め称えられようと、民に英雄と慕われようと、一人の人として誰にも愛されていないのであれば、そのような崇敬にも応えることができていない、うすっぺらな偽りの英雄ではないかとさえ悶え苦しむ夜もあった。
その苦しみのすぐ横で、自分をよく知っている男が光を灯し続けてくれていたのだから、泣きたいほど依存している。
立場を弁える彼のことだ。自分に想いを寄せてしまった事実について相当苦しみ出した答えに違いない。その彼が、想いを抱えたまま以前と変わらず接してくれている。
自分も主従関係である以上、テランスの想いに乗ることは律し、その気持ちを大切にしつつ現状を維持しようと何度も試みたが、本能が理性を飲み込み、あの日以降自分でもあり得ない行動をとってしまう。
テランスにかわされている事はわかっている。しかし気持ちが収まらないのだった。
少しでも長く、近くでテランスと共にいたい。
オリフレムに寒い冬がやってくる頃にはディオンは随分回復し、出兵も近いのではと噂されるようになった。
今夜は特に骨まで冷える。テランスが用意してくれた湯たんぽを抱え、床に入るも寒さは収まらなかった。
「今夜は暖かくしてお休み下さい。このまま冷えれば夜更け過ぎには雪になりそうです」
小指を絡めて目を合わせ、就寝を伝えるこの合図は子供の頃からのいつもの約束。
「おやすみなさい。ディオン様」
テランスがいつものように小指を離そうとする。しかし離してしまってはこの冷たい空気とこれから降るであろう雪に埋もれてしまいそうで、不安が襲い小指を離すことができなかった。彼といればこの不安もきっと解消される。
「どうされたのですか?」
「今夜は冷える」
「湯たんぽを増やしましょうか」
「そうして欲しい」
いや、そうではない!ディオンは自分の言葉に心の中で否定した。このままではいつもの状態。毎晩泣きたくなるような別れがこの寒さは特に辛い。あまりの辛さに、ついに本音が溢れた。
「違う。其方が良い」
状況がうまく理解できないといった顔でテランスが振り返り、もう一度確認を求めた。
「其方が湯たんぽだ」
全く上手いことが言えない自分があまりにも恥ずかしかったが、テランスが部屋を出てしまうよりはましだ。テランスをぐっと見つめると、彼が状況を理解したのか、一気に紅潮したのが見て取れた。
明らかに動揺しているテランスに、もう一推しだと、恥を忍んで上掛けをめくった。
テランスは慌ててあやふやな言葉しか出てこない。
「ディオン様、お腹が冷えます。上掛けを…」
「其方が入るまでかけない」
「余の腹をこれ以上冷やしたくなくば早く来い」
と、畳み掛ける。が、一呼吸置くとテランスの顔つきが変わり、
「貴方は、それがどう言うことかわかっておいでですか?」
と、低いトーンで訪ねてきた。
「貴方は、私の気持ちを知っておいでですよね?その気持ちは、未だ消えることはないのですよ?」
「だから、側にいて欲しいのだ」
これは本心だ。テランスの心を弄んでいるわけではない。業を煮やしたディオンは上掛けを肩にかけたままテランスに近づき、互いを包み、決心した。自分の今の心のうちをテランスに明かそう。
「其方はいつも隣にいてくれて、いつも献身的な愛をくれる。それに応えたいのだ。だからテランス…余と、主従の関係…以上の…人としての繋がりを持ってはもらえぬか?…その…有り体に言えば男女の関係…のような…」
こんなことを自分の口から言うとは思いもよらなかったが、自分から打ち明けなければきっと以前と同じ関係のまま続いてしまいそうで、ディオンはそれが何よりも辛かった。しかし、テランスの口から出た答えが予想もしない言葉だった。
「ご身分をお考えください。私と貴方では天地がひっくり返ってもそのような関係にはなれません」
今になって何故そんなことを言うのか?双方思い合っているのにそこまで否定するのか?
「そんなことはない!余は其方が良いのだ!」
もう上手い言葉も出ず、駄々っ子のように叫んだ。
「思い違いをしないでください。私の気持ちを享受して頂いたのは本当に喜ばしいことです。しかし、貴方様がそれに釣られて同じ思いになってはいけません。貴方は国の英雄です。宝です。もっとご自分を大切になさって下さい」
テランスの言っていることがわからなかった。いや、彼の言っている事は正しい。しかし理性を失ったディオンは体中の毛が逆立ち、頭に血が上る。テランスがディオンの体を離すと、堪えきれずに涙が溢れた。
思いは通じ合っているのに、通じ合っておらず、通じ合うこともできない。この如何ともし難い状況を解決できずに、悔しくて、情けなくてぼろぼろと泣いた。
テランスをふと見れば、ひどく動揺している。ここまで自分を辞む癖に心配はする。相反するその行動に今度は怒りを覚え吠えた。
「其方は酷い。自分の気持ちだけ告げておいて、享受してくれたと喜ぶくせに、余の心は受け入れない。一方的すぎる。余を真に慕ってくれるのは其方だけだ。父だって、母だって両腕を差し出しても其方のように抱いてくれなかった。余には其方しかいないのだ。良い加減に気付かないふりをするのはやめてくれ。毎日が苦しい」
あまりの辛さにテランスの胸に倒れ込み、大声で泣いた。頭も、目も、鼻も熱く喉が痛い。それなのに嘆きは止まらずわんわんと泣いた。こんなに泣いた事は子供の時にだってない。悔しくて、悲しくて、情けなくて、どうしようもできない現実にどうすれば良いのかもわからず子供のように泣いた。
ふと、テランスの手がディオンの頭上を覆い、ゆっくりと後頭部を撫でた。それを何度か繰り返し、ゆっくりとささやいた。
「ディオン様…。申し訳ありませんでした。私が身勝手すぎました。愛してます。ディオン様…。ですから、私のことも、愛して下さいますか…?」
涙がふっと止まり、重い瞼をぱっと見開き、今一度反芻した後に確信した。
「やっと、想いが繋がった」
にっこりと顔を上げると、ぐしゃぐしゃに濡れた顔をテランスが手で覆い、涙を拭った。
涙を拭う彼の指が震えていることがわかる。安心しろと、自分の心も体も其方のものだと、ディオンはそっと目を閉じた。そこに次への期待を感じながら…。
しかし、幾度と待っても次へは続かない。薄目を開くと、テランスはディオンの顔を覆ったまま、うっとりと見つめ続けているだけだった。本当にこの男は欲がないのか?苛ついたディオンは眉間に皺を寄せ、
「其方は全く分かっていないのだな!」
と、テランスの唇を奪った。
少しかさついた唇は薄く柔らかかった。やがて呼吸が続かなくなり唇を離し、
「余の初めてだ。受け取れ」
と、逃げられない事実に念を押した。
テランスは顔を真っ赤にし固まる。次のアクションがない。
「まだ足りぬか?」
続きを求めるディオンだったが、
「いえ、ありがとうございます!」
と、素っ頓狂な声で予想もしない言葉を発したテランスに雰囲気もぶち壊れ、呆れて笑うしかなかった。
こと恋愛に遠慮がちなこの男には、自分から押しかけていかなければいけないらしい…。