中学二年というのは誰にとっても多感な時期であるらしく、快活で交友関係の広い正季にとってもそれは例外ではない。反抗期も思春期も自分とは縁が無いと思っていたが、家では兄の冗談やら抱擁やらに文句を言いながら部屋に逃げ、教室で交わされる恋愛話やいわゆる「大人の階段」に関する話に心臓をばくばくとさせる毎日である。今朝も登校してすぐ、にやにやと笑みを浮かべる同級生に手招きされた。
「楠木、お前も選べこれ」
指で示された先には一枚の紙。びっしりと文字が書かれているかと思えば、それはこのクラスの女子の名前だった。名前の横には正の字が書かれていたり、書かれていなかったり。彼女にしたいランキングだろうか。タイトルの書かれていない投票に首を傾げていれば、友人のひとりが耳打ちをしてきた。
「女子の胸ランキング」
「ばっ、お前らマジかよ……!」
「良いからお前も投票しろって…まあ、一位は決まってるけど」
そう言われてもう一度その紙に目をやる。確かに、明らかに正の字が多い名前がある。その名前が目に入った途端、思わず苦い顔をしてしまった。
「足利さんぶっちぎり、流石は我らが委員長…」
「関係ねーよそれ!」
友人達が冗談を飛ばすのは聞き流しつつも、ちらちらとその紙を何度も見てしまう。興味なんて、全く、ない。そう頭の中で言い聞かせてから、紙は自身から少し遠ざけた。
「俺はやんねえ」
「なんだよ、嫌?…そういや楠木お前、小学生の時キレたことあったよな?『直義をいじめたら俺が許さねー!』みたいな」
誇張されてはいるが、言われてみればそんな事を言った記憶がある。だが、あれは単に、曲がった事が嫌だったから言っただけで。決して直義のためじゃない。
「別に関係ねぇよ…」
「うわーっ楠木、委員長の事めっちゃ好きじゃ〜ん」
「そんなんじゃねえってバカ!」
からかうような口振りに怒りを示すも、大して効果はないようだ。不貞腐れて自分の席に足を運ぼうとした時、くいと裾を引かれた。
「正季」
よく通る声にまさかと振り向く。二つに分けて束ねられた髪と、中学に入ってからかけるようになったらしい眼鏡。件の人物、足利直義だった。友人らはくだらない紙を素早く机に仕舞う。今にも囃し立てそうな雰囲気に苛立って、思わず強気な声を向けた。
「何だよ委員長」
「…面談のアンケート用紙、まだ出てない」
少し不満気に眉を寄せてこちらを見る顔から目を逸らす。すかさず友人が気色の悪い声でくねくねと身体を揺らした。
「まさすえくーん、アンケート出して〜!」
「バーカ」
投げキッスまでしてきたので流石に見過ごせず、机の下から足を軽く蹴ってから再び直義の方へ向き直った。
「後で出す、用それだけならもう行けよ」
「でも、今週末が期限だから…正季とあと数人なんだ」
別に期限を知らないわけじゃない。気が立っているせいか、子ども扱いされたように感じてしまい、思わず声を上げてしまう。
「後で出すっつってんだろ!…あと名前で呼ぶのもやめろ!」
直義は驚いたように肩をびくりと震わせこそしたものの、ぎゅっと唇を引き結んでこちらに厳しい視線を送ってから別の席へと早足で歩いていった。
「うわ、楠木お前キツすぎ」
「委員長泣いちゃうぜ〜」
「うるせぇ」
からかう声も鬱陶しくて、ぶっきらぼうにあしらってから自分の席へ向かった。
授業の合間、何度か直義の席をちらりと見たが、特に変わりなくいつも通りの澄まし顔で、一生懸命ノートを取っていた。正季、なんて、小学校の頃からずっと同じように呼ばれていたのに、この頃は小っ恥ずかしくて呼ばれるのが嫌だった。実際、名前で呼ぶ程仲が良いのかとにやついた顔の友人に問われた事もある。だからこちらから遠ざけるように、わざわざ委員長と呼んでいたのだが。本当は、今まで通り呼びたいし、勉強で頼りたい事もある。でも、いざ声を掛けようとすると色々と余計な事を考えてしまうのだ。それくらい、今の時期の男女関係は複雑で、ややこしい。適度な距離を保つのが一番良いはずで、変な噂が立たないようにするべきで、それで相手が嫌な思いをするのも仕方ない。そう自分に言い聞かせても、良心は痛む。恥ずかしいというだけで、冷たくする必要なんてないはずなのに。素直になるのはこんなにも難しいのか。
「あのさぁ、兄貴」
「うん?」
帰宅して、久々に自分から兄へ話しかけた。なんてことないように返事をしてくれるのが今はありがたい。
「俺って今、思春期?」
真面目に問い掛けたつもりなのに、兄は途端に吹き出した。
「じっ、自分から訊く奴があるか…!」
「笑うなよ!こっちは大真面目なのに……」
「いやぁ、すまんすまん。反抗期でも思春期でもお前は拙者のだーいじな弟だぞ、可愛いすえくん」
この兄貴にまともな返答を期待する方が間違っていたかと不満を顕に立ち去ろうとしたが、不意に落ち着いた声が背中に投げかけられた。
「どんなお前でも大事にしたいと思っている奴は大勢いる。あまり気負うなよ」
「…うん」
直義は、あんな事を言われても、もう一度名前を呼んでくれるだろうか。俺が名前で呼ぶのを嫌がらないだろうか。不安で、緊張が治まらない。でも不思議と、直義が絶交を突きつけてくるような想像は一向に出来なかった。
「ん、これ」
「えっ、ああ…うん、ありがとう」
翌朝、言われていたアンケート用紙を廊下にいた直義に突き付けた。直義は不備がないか確認してから頷き、こちらに礼を告げる。何となく、気まずい空気が流れている気がした。なぜか互いに目を合わせては逸らすのを繰り返して、動けない。無理に話を切り出そうと口を開いた。
「あのさ」
「あの……」
同時に直義もこちらに話し掛けたので、またしても一瞬沈黙が流れる。先にどうぞ、と促されたので言葉を続けた。
「昨日、ごめん…言い方きつかった、その……好きに、呼べばいいし…」
辿々しくはあるが、これが限界だ。直義はきょとんとしていたが、すぐに笑みを浮かべた。
「なんだ、そんな事か」
「そんな事って、色々考えたんだからな!…お前の方はなんなんだよ」
不貞腐れた返事にも構わずくすくすと笑っていた直義は、こちらの問いにすぐには答えず、少し眉を下げた。
「その……なんで、委員長って呼ぶんだ」
予想外の質問に面食らう。理由を問われたところで、気恥かしいから以外の返答が出来ない。しかしそれをそのまま伝えるのは憚られる。結局、理由は答えずに曖昧な答えを返した。
「別に、なんとなくだよ……嫌?」
「…直義、が、いい」
そうぎこちなく答えた直義の顔は、先ほど渡したアンケート用紙で隠されてよく見えない。
「分かったよ、た……直義…」
名前を呼べば、すぐに顔を上げた。心なしか頬が紅潮しているように見える。やはり思っていることを正直に伝えるのは直義にとっても恥ずかしいものなんだろう。
「正直、困っていたんだ!私は、正季の事を他の言い方で呼んだ事がなかったし、正季はあだ名なんてないだろうし、あったとしてもそれで呼ばれるのが正季にとって嫌だったらと思って…」
「あーあー程々にしろよバカ!」
「バカとはなんだ、いつもそうやって短絡的な言葉を…」
結局、仲良し小好しは困難らしい。お叱りのような言葉を大人しく聞いていられないのだから、素直になるのは到底無理だ。今の自分には、小学生のような単純さを持つ勇気はないし、大人のような余裕もない。意気地なしで格好が悪い丁度真ん中。だから、名前が限界だ。別に今まで通りお小言を浴びせられようが構わない。そもそも絶対に相容れない性分同士なのだ。今でも、好きなのかと訊かれたら絶対に違うと即答するだろう。直義はただの同級生で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、名前を呼んで、呼ばれたいだけ。それだけで、中二の俺には精一杯だ。