【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/13スカイダイビング 「……それ、綺麗な色ですね。何のお酒ですか?」
ネイルさんが静かに注いでいるのは、真っ青なリキュールだ。土曜の夜、『Veil』は週末の割にはゆったりとした雰囲気だった。十一月も後半に差し掛かり、外はすいぶん寒さが深まった。ピッコロさんは、デンデに引きずられてキッチンへ引っ込んでいる。
「ブルーキュラソーです。オレンジの皮だけを使ったリキュールで、元は無色……グリーン、レッドなんかもありますね」
「僕にもそれで、何か作ってもらえますか?」
ネイルさんは頷き、シェイカーへ次々に材料を注ぐ。ここへ初めて来た時は分からなかったラムの瓶も、ラベルを読まなくても分かるようになった。ネイルさんがシェイカーを振る。一分の隙もない正確さで、銀色のシェイカーの上を照明が行き来する。専門外の僕から見ても、その技術がどれほど高いか感じられる繊細な美しさだ。
グラスに注がれたカクテルは眩しいほど青く、盛夏の蒼天のように澄んでいた。ブルームーンの、紫がかった静かな青とはまた違う、力強さを感じる青だ。
「どうぞ。スカイダイビングです」
「すごく綺麗! こんな晴天でスカイダイビングするの、気持いいだろうなぁ」
グラスを受け取ると、デンデとピッコロさんがトレイを持ってキッチンから出てきた。テーブル席を一回りして、カウンターへ戻ってくる。
「はい、悟飯さんにも! クリームチーズとフルーツのカナッペです。温室で採れたフルーツですよ!」
「ありがとう、デンデが育てたの?」
「あの温室はすっかり任されてて……あっ、スカイダイビングですね。僕それ大好きです、広い空の自由な色!」
植物園のことを話してくれる時だけでなく、デンデの笑顔にはいつも屈託がない。このカクテルの色、空の色を「自由」と表現するのも、素直でまっすぐな性格ゆえだろう。
「明日、お二人に僕が品種改良した花を見せる約束してるんです。悟飯さんも一緒に来ませんか? ハーブティーご馳走しますよ!」
「行っていいの?」
「来ると良い、デンデもこう言っているのだから」
「悟飯さんにも見せたいんですよ、デンデは」
デンデはカナッペをもう一つ小皿にのせてくれながら、大きく頷いて笑った。
翌日訪れた植物園で、デンデは実にたくさんの花を見せてくれた。温室の片隅に鉢が並ぶ、この一角がデンデの品種改良の成果だそうだ。ガーデンテーブルに運ばれた花は、以前、店で見た水色の花より紫が増していた。花弁も大きくなっているように見える。
「こっちが、一番新しいやつです。成長が早いので、変化が分かりやすいんですよ」
「すごいな、デンデ! あの花によく似た色でとても懐かしい……こんなにすごいことをしているとは知らなかったよ、本当に見事だ」
「以前のものより、更に鮮やかになっているな」
二人に讃えられ、デンデは心からの笑顔を見せていた。ピッコロさんも勿論だが、ネイルさんがこんなにも感情を露にしているのは珍しい気がする。嬉しそうな三人を見ていると、僕まで気持が高揚するのを感じた。
外はすっかり冬の様相だったが、温室の中はやわらかい光に満たされていた。色とりどりの花々が咲き乱れ、何種もの蝶がその間に遊んでいる。いつ来ても、綺麗なだけでなく、不思議な空間だ。
「少しは形になってから二人に見せたくって、内緒でやってたんです。驚かせたくて」
「驚いたとも。なぁ、ピッコロ」
ネイルさんの笑顔に、ピッコロさんも深く頷く。小さな白い蝶が飛んできて、デンデの花にそっととまった。それを眺めるデンデの目線は、無邪気なだけでなく、とても優しい。
「もう少し、花を大きくしたいんです。故郷の花と全く同じ花は作れませんけど……あれは木に咲く花でしたし」
僕はふと、ピッコロさんの部屋にあった鉢植えを思い出した。暗くて色は分からなかったが、確かにあの小さな木には、つぼみがついていた……ネイルさんは、本当はもっと大きく育つ木だと言っていたが……。デンデは、あの鉢植えのことを知っているだろうか? いや、きっと知らないだろう。人を招く部屋には見えなかったし、ネイルさん以外、あの部屋には入ったことがないと想像された。ピッコロさんにとって、あの花木はどんな意味のあるものなのだろう……。
蝶が軽やかに飛び立つ。全員がそれを目で追う。見えなくなってしまうまで見送ってから、デンデが自分の育てている花に目を戻した。慈しむように微笑んで、鉢にそっと手を添える。
「昔好きだったあの花と同じじゃなくても、僕が大好きって思えるものを、新しく作っていきたいなって、思ってるんです」
「……すごいな、デンデは」
ピッコロさんが感じ入るように呟き、ネイルさんも思うところあるのか、押し黙ってデンデを見つめていた。
学術に限らず、物事に行き詰まる時は過去得たものに縋りたくなる。過去を大切にしながらも前向きなデンデの姿勢は、僕から見てもとても眩しかった。
「デンデ、他にも育てた花があるのか? 見せてほしいな。品種改良の話ももっと聞きたい」
「もちろんです! 品種改良、すごく面白いですよ、自由に挑戦できて……じゃあ、あっちに他の花があるから見に行って、ついでにお茶を淹れてきましょう。ピッコロさんと悟飯さんは待っててください、ネイルさんに手伝ってもらいますから」
賑やかに話しながら、二人は温室の奥へ行ってしまう。僕はそれを見送ったが、ピッコロさんはテーブルに置かれた花をじっと眺めていた。静かに青い花の佇まいは、辺りの空気を澄ませるようだ。
「本当に似てますね、ブルームーンの色と……ピッコロさんの故郷の花も、こんな感じ?」
「ああ……でもこれは、故郷の花に似ているからではなく、デンデが新しく作ったからこそ価値があるし、より美しく感じられる」
ピッコロさんは顔を上げて、温室の壁沿いに植えられた花木に歩み寄った。ヒメフヨウ、と添え書きがある。冬場とは思えないほど濃い赤色の花が、すべて天を向いて咲いていた。
「……悟飯、お前は、自由に挑戦できているか?」
急な問いかけに少し驚いたが、自信を持って答える。
「はい、いつも自分で選んできたつもりです」
迷うことがあっても、気が萎えそうになることがあっても、最後の最後でこれだけは譲らないようにしてきた。
そうか、と呟いて、ピッコロさんはヒメフヨウの花を見上げた。どんな気持でいるのか、僕はその横顔に探そうとする。
きっとネイルさんならば、ピッコロさんの考えていることが分かるのだろう。僕には、何か思い悩んでいるということしか分からなかった。どう声をかけるのが正解なのかも……ただ、心だけは寄り添っていたくて、一歩分だけ近付く。
手を伸ばせば、指先が、ピッコロさんの指先に辿り着いた。なめらかに見える指先は、いつも氷やライムに触れているせいか、触れるとわずかにかさついていた。
あの夏風邪に浮かされた夜とは違う。はじめてこんなに落ち着いて、しっかりと触れた。ゆるやかに指先を絡めると、すぐ隣にある肩が戸惑いに揺れるのが分かる。吐息が耳に届くほどの距離で、二人とも無言だった。口を開いても、本当に伝えたいことは言葉にならない気がした。
ヒメフヨウの花弁の赤は、燃え上がる炎のように激しい。言葉よりよほど、僕の心を映し出してくれるようだ。僕が一方的に絡めていた指に、ほんの一瞬、ピッコロさんの方からも力をこめてくれた気がした。けれど僕が見上げると、ピッコロさんはきまり悪そうにゆっくりと手を引いた。目線だけが、静かに交わる。ピッコロさんの目にも、ヒメフヨウの赤が映り込んでいたが、風を受ける泉のように波立っていた。
笑い声と足音に、僕らはほとんど同時に振り向いた。ネイルさんと、トレイにティーセットをのせたデンデが歩いてくる。
「二人とも、お茶にしましょう! 新しくブレンドしたんです、あったまりますよ……あれ、カップが一つ足りない!」
テーブルにトレイを置いたデンデが、取って返すように戻っていく。僕ら三人はそれを見送り、慌ただしいデンデの様子に笑ってしまう。
「落ち着かないやつだな」
「でも、すごいぞデンデは。色々と見せてもらってきたが……大事に育てられている植物も、新しい色に咲くどの花も、美しかった。品種改良もとても興味深い。来てよかった」
ブルームーンの花を囲むように、四つのソーサーと三つのティーカップを並べながら、ネイルさんは笑っていた。本当に、デンデの花と品種改良に心打たれたのだろう。いつもの落ち着いた微笑とは違う清々しい笑顔は、子供のようですらあった。
僕らに座るよう促したネイルさんが、確信に満ちて、けれど静かに言った。
「……誰もが、きっと、自由な生き方を選べるはずだ」
その場の誰もが、ネイルさんの言葉を瞬時に理解した。それが、誰に向けて発せられたものなのかも。
冬の日差しは鋭く、それでも温室の中に満ちて空間をあたためている。僕は胸のしめつけられる思いで、ブルームーンの花越しに視線を交わす二人を、ただ見つめていた。