【飯P空P】りんごの庭と鳴けぬ鳥/02.せきれい お父さんは、自由な人だった。
ふらりと旅に出たかと思えば、手紙のひとつも寄越さず、突然に帰ってくる。一ヶ月戻らない時もあれば、ほんの三日で引き返して来ることもある。身勝手にも思えるが、必ず僕に、旅先で見つけた興味深いものや美しいもの、何もなければ思い出話を持ち帰ってくれたので、寂しさや悲しさを感じることはなかった。
秋の夕まぐれ、お父さんが持ち帰ったものは、これまで見たどんなものより興味深く、そして美しかった。
新芽色の膚と、一目でここいらの出身ではないと分かる面立ち。着物の奥に存在を知らせる手足は長く、全体的にしなやかな印象で、長躯でも威圧感はない。旅姿の割に極端に荷物が少なく、手にしたまっすぐな杖ばかりが無闇と象徴的だった。
「ピッコロだ、帰り道で知り合った。こっちは悟飯、十六になる息子だ」
「悟飯です、はじめまして……」
頭を下げたピッコロさんの腕を引いて、お父さんが目を輝かせた。
「悟飯、お前にも見せたかったぞぉ。これで頗る腕がたつ。すぐそこで、町娘がやくざ者に囲まれているのを一瞬で引き離してなァ!」
お父さんは高揚した様子だったが、僕は戸惑っていた。つまり、本当につい今しがた、知り合ったばかりの人と言うことだ。
「少し話したら、宿が満室で行くあてがないって言うんで、連れてきたんだ。長く旅しているそうだから、今夜だけと言わずゆっくり休んで行けば良い。なぁ、悟飯」
「もちろん、歓迎するけど……ピッコロさんは良いんですか?」
お父さんが無理に引きずってきたんじゃあ、ないだろうか? 僕は心配になり、ピッコロさんの顔を窺った。切れ長のひとみは険しいようでいて、じっと覗き込むとその光を和らげてくれる。
「迷惑でないなら、二、三日休ませてもらえると、助かる」
「二、三日? ずーっといたって良いんだぞ、部屋は余ってるんだ」
「お父さん、ピッコロさんも旅の目的があるんでしょう……無理を言ったらだめだよ」
僕が嗜めると、ピッコロさんははじめて微笑んだ。少し目を撓ませるだけで途端に柔和な面差しになり、何だか不思議な人だ。
「もう何年も旅をしている。何日か留まったところで同じことだ」
「……じゃあ僕、空いてる部屋に案内するね。こっちです」
おじいちゃんから受け継いだこの家は古く、あまり人が訪ねてくることもない。廊下はぎしぎしと鳴るところもあるし、決して広くはないが、お父さんと二人で暮らすには、確かに部屋は余っていた。
「この部屋、どうぞ。布団はここ、打ち直しのものですけど……。向かいが僕の部屋なので、何かあればいつでも」
部屋を見回していたピッコロさんは、僕に返事をすると屈んで荷物を下ろした。大きく抜いた衿から覗くうなじの若葉色が眩しくて、僕は思わず目を逸らす。
閉めきっていた部屋の窓を開けると、ピッコロさんも歩いてきて、並んで窓の桟に手をついた。
「良い部屋だな。野宿にならず、助かった」
「野宿? そんなことしてるんですか?」
「宿がない時は、仕方がない」
何だか、危なっかしい人だ……横顔を覗き見ると、落ち着いて大人びた風情なのに。
北向きの部屋だが、外には夕焼けのやわらかな光が満ちており、窓の傍は十分に心地良い。
土の地面を、せきれいが歩いている。可愛らしい小鳥が、恋教えとか、嫁ぎ教えとか、ずいぶんと詩的な名前で呼ばれていることを思い出す……。
夕暮れに澄みわたる鳴き声が、秋が深まったことを知らせていた。
その晩、ピッコロさんは食卓で何も口にしなかった。もともと水しか飲まないと聞いて、大食らいの僕らは驚いた。お父さんはすぐに「そういう民族もあるんだな」と納得していたが、僕はその驚きがずっと後を引いた。もしかすると、僕らに遠慮してそう言ったのではないか? そう思えて仕方なかったのだ。
結局、気になった僕は床についても眠れず、起き上がって部屋を出た。静かに台所へ入り、すぐにとって返す。
「ピッコロさん……」
扉の外から呼び掛けると、ピッコロさんがそろそろと扉を開けてくれた。行灯がまだ部屋を照らしている。どうやら、起きていたらしい。
「入って良いですか?」
「ああ、もちろん」
既に布団が敷いてあり、ピッコロさんが、客用の寝間着の裾を短く着ていることに気付くと、急に悪事を働いているような気分になる。
「あの、何も食べてなかったじゃないですか……遠慮してないですか?」
台所から持ち出したりんごを差し出すと、ピッコロさんは驚いた顔をした。灯影がその横顔に揺らめいて、現実感を薄れさせている。ピッコロさんは暫く、差し出されたりんごを無言で見つめていたが、やがてりんごを差し出す僕の手に自分の手を重ねた。
「優しいんだな……でも、食べる必要がないのは本当なんだ。気を遣わせてすまない」
「本当? それならいいけど……僕らのこと、家族と思って、遠慮しないでくださいね」
「……家族?」
「うん。今日はじめて会って、こんなこと言うの変かな……だけど何か縁があって、こうして一つ屋根の下で眠るんですから。仲良くなれたら、嬉しいです」
ピッコロさんの手は、冷たかった。冷たいが、ひどく優しく重ねられていて、僕の心を奪うのに十分だった。
お父さんから聞いた通り、ピッコロさんは武術の達人だった。夕食の席でお父さんがしきりに褒めるものだから僕も気になって、一夜明けて、庭で手合わせをお願いしたのだ。
お父さん以外で、僕とまともに打ち合える人ははじめてだ。長い手足を活かした、舞うような動きに僕はたびたび翻弄された。町のやくざ者など、相手にもならないだろう。
「親が武術に秀でていて、鍛えられたんだ」
「じゃあ、僕と一緒ですね。だけど身体の動かし方は、僕らと全然違う。学ぶところが沢山あります」
僕らは縁側に腰かけて、殺風景な庭を眺めていた。おじいちゃんが作った花壇はあるが、僕もお父さんも何も植えないものだから、猫の尾のようなえのころぐさだけが寂しく揺れていた。
快い疲れが、全身を満たしている。ピッコロさんは乱れた服を整えながら、思いのほか明るく笑った。
「久し振りに思い切り手合わせできた。強いな」
「いえ……やっぱり、一人旅って危ない目に遭うこともありますか?」
「……絡まれたことは何度もある。何も、金目のものなど持っていないんだが」
金目のものではなくて、あなた自身が狙われていたのではと、出かかった言葉を飲み込んだ。汗ばんだ喉元が、上気した頬が、異様な艶っぽさだ。陽を透かす澄んだ膚の美しさ、ふと手首の紅が覗いた時の蠱惑を、この人は知っているのだろうか。決して華奢というわけではないのに、昨日はじめて見た時のように、どことなく線の細い印象もある。ピッコロさんが強くてよかったと、僕は心底思った。
「ピッコロさん、長く旅をしてるって聞いたけど……どのくらい?」
「六年ほど……いや、その前に二年間、親と旅していたから、八年になる」
「八年も?」
そんなに長い間、何が目的で旅をしているのだろうか。口に出さなかったが、沈黙が疑問を伝えてしまったのだろう、ピッコロさんは話を続けてくれる。
「親の目的は、分からず終いだ。旅の途中で死んでしまってな」
「そうなんですか……」
事もなげに言い、ピッコロさんは縁に置いていた水をひとくち飲む。
「一人で故郷に帰ったが、嵐にやられたとみえて、集落には墓だけが増えて誰もいなくなっていた。壊れた建物の様子を見るに、土砂崩れと、鉄砲水……旅暮らしをしながら、逃れた者を探している」
今度こそ、僕は言葉を失った。
あまりにも淡々と話すから、どれほどこの人が傷付き疲れているか、余計に伝わってきた。お父さんは、この話を聞いたのだろうか? もしかすると、聞いたからこそ、家へ連れてきたのかもしれない。
「この国に流れ着いた者がいると聞いたが……しかし、いざ来てみれば噂すら聞けない。逃れた者など、いないのかもしれないな……」
僕は咄嗟に、ピッコロさんの手を取った。僕より一回り大きいが、痩せた手だった。
「お墓があったなら、それを作った誰かは無事ですよ」
掴んだ手を、握りしめる。ピッコロさんはされるがまま、真っ直ぐに僕の目を見返してくれた。
「だけど、旅には休息が必要です。何ヵ月でも、何年でも、休んで行ってください」
「そうか……ありがとう」
寂し気な微笑が、午前の眩しい陽射しとともに、まなうらに強く焼き付く。
ピッコロさんの同郷の誰かが、きっと見つかると良い。けれど、家族も帰るところも失くしてしまったこの人に、いつまでもここにいてほしいとも、思った。