【飯P空P】りんごの庭と鳴けぬ鳥/01うぐいす(序) 陽の光がうらうらと枯木立を濡らす小春日和、市のはずれの平屋の縁に、一心に針を動かす姿がある。姿――ピッコロと言うその異国人――は、桔梗色の紬を袷に仕立てている最中であった。もう半分も縫っただろうか、長い指を動かして端を美しく処理すると、大きな黒いはさみで余った糸を切り落とした。広げてみれば、ひとまず問題のない出来である。
少しばかりの疲れを感じ、縫いかけた着物を軽く畳んで傍らに置く。目を上げて庭を見渡すと、藪椿がささやかなつぼみをつけていた。広くこそないが、よくよく整った庭である。
真竹の四ツ目垣がぐるりを囲み、その内側に、さざんかの生垣が目隠しのように葉を繁らせている。二重に守られた庭にはさまざまの植物が整然と配置され、四季を通してかれの目を楽しませていた。
枯芙蓉の実が菜の花の色に揺れ、桃と白のさざんかは楽しげに八重咲きのにぎやかさを競っている。冬の澄んだ空気はさえざえとして、呼吸の度に体の芯を洗うようだ。
ピッコロの目がさざんかの下で動いた何かに留まった時、不意に門扉をひらく音がした。
「こんにちは」
丈の長い羽織を揺らし、人物が庭の端から姿をあらわすと、花を眺めていた身は思わず硬くなった。
「悟飯」
「ピッコロさん、ただいま。お久しぶりです」
「ああ、おかえり……」
悟飯は人懐こく笑うと、てらいのない仕草でピッコロの座る縁に腰掛けた。洋服の釦を首元まできちんと留めて、眼鏡の奥のひとみは未だ若さを湛えている。
「お元気そうで、何よりです」
「お前も」
ピッコロはどこか苦しげに、目を合わせずに答えた。悟飯は意にも介さぬ様子で、座ったまま庭を見渡す。
「よくなったんですね、あの樹」
庭の隅のりんごの樹を指して、悟飯が言った。樹は寒々しく裸である。
「お前をこんな狭ッ苦しい処へ閉じ込めておくんだから、これくらいしてやらぁ」
これが、数年前に心の臓を悪くして亡くなった男の口癖であった。明朗単純で、快活と体力が取り得のような男であったが、庭造りに関してだけは師について真摯に学んでいた。この庭を造ったのは、その男である。
その男と言うのが、かれのかけがえのない盟友、恋い人、そして悟飯の父親でもある、悟空と言う庭師であった。
とはいえ、元々この庭にはなんの花も植えられていなかった。日銭のため草木に触れはするが、特別に愛でたいという気持が強いわけではなかったのだ。ただ漸く口説き落としたピッコロに、気まぐれで植えたりんごの樹を褒められたものだから、ではもっと喜ばせてやろうと庭造りに精を出すようになっただけのことである。
その悟空が病にこの世を去って三年半とすこし、半年前のことだった。真夏、緑の盛りのりんごの樹に、不届な虫が害を成した。悟空が亡くなってからは手ずから庭を整えていたピッコロであったが、そのような事態に対応する術は持ち合わせていなかった。
虫どもは遠慮なしに青々とした葉を食い荒らし、りんごは見る間に弱って行く。かれはすっかり弱り果てた。仮にも愛した男の、唯一ともいえる遺産の庭。このりんごは、そのはじまりの樹である。
そうしてかれは、悟空と同じ老師に師事した庭師の青年を頼った。かつては孤高であったピッコロが他人を頼ると言うことが、かれの情の深さをあらわしていた。人のいい青年はりんごを注意深く観察し、時間をかけて虫を枝々から追放してくれた。
しかしその秋、りんごは実をつけなかった。冬になり、食い荒らされた葉はすっかり色を変じて抜け落ちた。いよいよピッコロにはりんごの樹の具合が分からなくなった。かれは不安であった。もしかすると、春になっても花を咲かせないのではないだろうか。見た目には分からずとも、このまま次第に弱り続けて、ついには枯れてしまうのではないだろうか。それはかつての恋い人との別れを想起させ、そこに思い至る度にかれはぞっとした。
「あのとき、あなたがお父さんの親友にりんごの事を頼んだとき、僕は、僕を頼ってきてほしかった……」
「……」
ピッコロは沈黙する。さざんかの下で、また何かが動いた。小さく跳びはねながら、ツツ、チ、ツツ、と短い鳴き声をあげる。うぐいすの笹鳴であった。まだ空を舞い伸びやかにうたうことの出来ない若いうぐいすは、低木の下に身を隠して鳴く練習をすると言う。苦しむように地面を跳ねながら、何ともまあもどかしい鳴き方である。
「一度は袖にした男です。あなたは優しい。そんな者に頼みごとなどできないでしょう。それでも」
「袖にしたなど……あの時お前はまだ若く、有望であったろう。お前にはいくらでも可能性があった。それを邪魔したくはなかった」
「確かにあの頃、僕は焦っていました。あなたとお父さんが日毎に分かり合って行くのを見ていたから……結局、僕の憂慮した通りになってしまった。あなたは僕ではなく、お父さんと……」
悟飯は言葉を切ると、視線を庭のほうへ寄越した。何か思索しているようだ。学者然とした横顔は、それでも昔から変わらぬ一途さをありありと浮かべている。何の皮肉か、彼はまた、彼の敗北した父親によく似ているのであった。
「冬すみれの花が咲いていますね。あなたの好きな色だ」
だしぬけに明るく言うので、ピッコロは返事をかえせない。たしかに芙蓉の隣には、かれんな冬すみれが葡萄灰の花をつけている。さざんかほど華やかな花ではないが、春の遠いこの季節にあってはその色も鮮やかであった。
「あのりんごは、もう大丈夫ですよ。植物の研究をしている僕が言うんだから、間違いない」
「ほんとうか」
ピッコロは思わず問い返す。
「もちろんです。春になればきっと花を咲かせますよ。心配しないで」
悟飯は振り返り、やさしく目を細める。そうしてもう一度、大丈夫、と繰り返したのは、ピッコロにとって何よりも信頼のおける聲であった。
「よかった……」
安心したようにピッコロの呟くのを聞くと、悟飯は縁から立ち上がる。
「他所でりんごの樹を見たら、あなたに会いたくなって、来てしまいました」
体ごとピッコロを振り返って、一歩後ろに下がると、言葉を探しあぐねるように微笑む。少年の頃とは違う、どこか困ったような、烈しい感情をすべてその奥に押し殺すような笑みだった。
「また近々、顔を見に来ます」
「悟飯」
「構いませんよね。あなたも今は、独身ですから……」
返事を待たず、悟飯はかるく頭を下げると歩き出してしまう。ピッコロは引き止める言葉もなくその背中を見送った。引き止めて、どうしようというのだろう。もう来るなと言えば良いのだろうか。それとも、待っていると……。
やがて門扉が閉じる音がする。冬の庭に、胸につかえるような笹鳴が、 いつまでもいつまでも響いていた。