【ネイP】解剖台で夢を見た/05.研究棟の幽霊 はじまりは恋愛感情というより、世界から隠れて暮らしているという、共犯意識だったかもしれない。それでも、互いに誰よりも親密に……特別に感じていることは、間違いなかった。
だからこそ、背中合わせだった共寝が、いつしか抱き合って眠るようになるのに、何の疑問も抵抗もなかった。身体は重く吐息は甘く、額が合わさると、どちらも不思議なほど安らいだ。
その晩も、ネイルは仮眠室の書き物机にいた。手元のデスクライトを切って、資料をファイルに綴じる。疲れを覚えた目を瞬いていると、背後で本を閉じる音がした。
「……ネイル」
静かな声に振り向くと、ピッコロはベッドの端に脚を下ろして座っていた。いつもより、やや険しく見えるまなざしで。
仮眠ベッドに置かれた両手に、力が入ったのが分かった。
ぎ、とかすかな軋みが聞こえ、ピッコロがはだしの足を床につける。ネイルは立ち上がり、しかし駆け寄ることはしなかった。ただその場で、息を呑んで見守る。
ピッコロの片手が、ベッドの側の壁に触れる。置かれているのではなく、体重を預けていることが、手の甲の様子で分かる。
「支えは?」
「必要ない」
言葉はきっぱりとしており、拒否の色合いすらも帯びていた。見た目にはしっかりした脚も、あまりにも長いこと動かされなかったためか、力のかけ方がぎこちない。
けれど、そのまま、ピッコロはベッドから立ち上がった。
ほんの少し前まで、解剖台で無抵抗に切り開かれていた者が、自分の脚で立っている。たったそれだけのことが、世界の仕組みを根幹から変えることのように、思われた。
「……歩く」
「……ああ」
ほんの数歩の距離。ベッドから、書き物机まで、狭い仮眠室を一歩、また一歩と、ピッコロが歩いてくる。爪先で床を確かめるように、慎重に、ゆっくりと……ほの明るい照明の滲む、たった二人の宇宙を、静かに渡るように。
書き物机のすぐ側で、はじめてピッコロがよろめいた時ばかりは、ネイルは反射的に腕を差し出して支えた。
「支えは要らないと言った」
「支えたんじゃない、触りたかっただけだ」
嘯くと、ピッコロは呆気にとられるようにネイルを見つめる。身体を起こし、聞き取れないほどの小声で、馬鹿、と呟いた目元は、笑っていた。
清拭を行う時には、どうしても縫合痕が目に入った。七百年の眠りでもナメックの再生能力は失われていなかったが、やはり体力が落ちていたためか、未だ完全に元通りにはなっていない。彼岸花の細い花弁が無数に散りかかったように、縫合痕は身体中を彩っていた。
「切られたことは覚えてないが……ここの痕が、一番大きいな」
「肋骨を開いて……お前の中身を観察して、撮影して、検査のために臓器の組織も取った。全部、私がやったことだ」
「……でも、きちんと閉じてくれた。おれは死んでいたのに」
「死んでいると、思えなかったからな。心臓が動いていないのを見ても、何故か」
未だ強張りの残る、ピッコロの膝関節を曲げ伸ばししていたネイルが、跪いたまま目線だけを上げた。羽織った服の前を留めないまま、ピッコロがネイルを見下ろして目を合わせる。ネイルの手首を掴んで引き寄せ、自らの胸に置かせた。
「動いてるか? 今は」
本気とも冗談ともつかない声色で、ピッコロが尋ねた。ネイルの手のひらへ、皮膚の下の鼓動が伝わってくる。一定の速度で、確かに、全身へ血液を送り出す拍動……清拭の名残で湿った肌が、ネイルの手のひらをじわじわと温める。じっと触れたまま、目を合わせていると、ほんの少しだけ鼓動が速まってくるのが分かる。
「……動いてる。生きてるよ」
見上げる姿勢で答えて、ネイルは指先で縫合痕を辿った。心臓を見るために切り開き、動かないそれを確認してなお、再び縫合せずにいられなかった痕だ。今はまだ、塞がっているだけで、はっきりと分かる凹凸がある。
――体力が完全に戻って、本人がその気になれば、きれいに消えてしまうだろう。私が刻んだ傷痕が、すべて。
解剖台でメスを入れる時、これまでになく心が震えた。生きているように美しい身体を切り開くという罪悪感は、勿論あった。しかしどこかで、同じ質量の喜悦を覚えたことも、目の逸らしようがない事実だ。
添い寝を乞うように腕を引かれ、立ち上がり、狭いベッドで折り重なるように横になった。ネイルの首に、ピッコロの額が触れる。首筋にかかる吐息がやけに熱く感じられて落ち着かず、肩を抱き寄せた。素直に擦り寄ってきたピッコロが、ネイルの腰へ腕を回してくる。ややあって、俯いたまま深いため息を一つ零した。
「お前の身体、薬や……消毒液の匂いがする……」
「そうか? 自分では分からないな」
白衣はもう、脱いでいる。寝るために持ち込んだ服で、仕事中に着ていたものではない。深呼吸をしてみても、薬も消毒液も、ネイルには感じられなかった。遺骸だった時はいつも消毒液の匂いだった、ピッコロの身体からも。
「ネイル……」
ピッコロが更に身体を寄せ、抱き合ったネイルの胸に縋る。どちらにも、体温と安堵が感じられ、たちまちの内に睡魔に絡めとられる。
「おれを切ったのがお前で、よかった」
吐息に混ざるような、殆ど独り言のような呟き。どういう意図の言葉なのかネイルが尋ねる前に、ピッコロの呼吸のリズムが、寝息のそれに変わる。
「……私も、他の誰かにお前を切られなくて、よかったと思うよ」
囁いた言葉は、仮眠室の淀んだ空気に溶けて消える。眠りに落ちるまで、密着した身体全体で、確かな拍動を感じていた。
翌朝のことだった。
共用スペースに若い研究員たちが集まって、順にコーヒーメーカーを動かしながら騒がしく話している。ネイルの姿を認めると、一人が興奮した様子で声をかけた。
「先生、よく遅くまで残られてますよね。やめた方が良いですよぉ!」
「なぜ?」
別の研究員がわざとらしく声を潜め、重大な秘密を打ち明けるように囁く。
「幽霊がいるらしいですよ、この研究棟。少し前に警備さんが、巡回の時に名札を落としたからって夜中に廊下を探してたら、どこからか声がしたって……みんな、冗談だと思ってたんですけど」
「昨夜、僕、忘れ物取りに来たんですよ。23時くらい。僕も聞きました、話し声みたいなの!」
「死体も無縁仏も、たくさんある建物ですからね……」
研究員たちは半信半疑というところで、本当に怖がってはいないのだろう。話の種として楽しんでいる、そんな風情だ。しかしネイルには、現実的な恐怖に、他ならなかった。
「先生も、一人で残業してると、幽霊見ちゃうかも」
「……そうだな」
背中の冷たくなる思いで、ネイルはコーヒーの味も分からなくなる。
「君たちも、遅くまで残るのはやめた方がいい。ここには幽霊が、いるから」
研究員たちは冗談だと思ったようで、顔を見合わせて笑い声をたてる。しかしネイルだけは、仮眠室の〝幽霊〟を思い、静かに決意を固めていた。