太極そあら習作それは不思議な歌だった。
澄んだ声。天を突く明るさと、すこしの哀愁ーー当時の、まだ幼い頃の自分にはその感情に名はつけられなかったがーーそんなものが一気に流れ込んできて。隣にいた母親に手を引かれなければ、きっとその歌声の元まで駆け出して行ったのではないだろうか。
もしかしたら、あれは人ならざる者の声だったのかもしれない、と守人は思う。
西方の言い伝えでは、美しい歌声で旅人を魅了し近付いてきたところを喰らう魔物がいるという。
あれもそういった類のものの声だったのかもしれない。
けれど、魔物というにはあまりにも伸びやかで、そして、幸福感にあふれた歌声だったのだ。
忘れたくないと思うあまり、守人はたびたびその歌を口ずさむようになった。
十三になり、自警団に入団した。
とはいえ、まだまだ見習い、半人前だ。やることといえば、日々訓練したり、他種族について座学したり。
「お前、その歌」
「え?」
突然、背後から声を掛けられる。歌、と言った。また自分は、無意識にあの歌を歌っていたのだろうか。
「その歌、どこで聞いた?」
彼は同じ自警団の、これまた自分と同じ新入りで、宗司と名乗った。
そいつは日が暮れるとうちの庭にやって来ては喋り倒していく奴だった。
よく、楽しそうに歌を歌ってた。
俺も楽しかったよ。あの頃はヒトだ魔物だなんて、ろくにわかっちゃいなかったしな。そいつが俺たちに危害を加えることがないとわかると、うちの親は黙認してくれてた。
けどな、バレちまったんだよ、前の師匠に。
バレてしまった、不穏な単語に守人は息をのむ。
宗司の実家の近所には小さな道場があって、自警団員を志望する少年少女を集めて基礎訓練などを行っていたそうだ。
曰く、「奴」は自分たちと同じ年頃の、歌とお喋りが好きな、明るい子供だったという。
ただ、「日が暮れてからでなければ、姿を現さない」。ちょうど今、この時間のような、影の伸びる夕暮れ。家路につく子供たちの声を聞きながら、幼い宗司は自分の部屋には戻らずに、縁側に腰かけて彼を待つ。
彼はヒトではなかった。
「バレた…って、何があったの」
自分の声が思ったより硬くて、少し驚いた。宗司が小さく息を吐く。
「ちょっとしたいざこざで、兄弟子がケガしたんだよ。仕掛けたのは兄弟子の方、あいつじゃない」
自分の術を自分でくらっただけだ、あいつが傷つけたわけじゃない。けどあいつはひどく落ち込んで、それきり俺の家には来なくなった。
それだけだよ、と、一気に吐き出して、肩を竦めて。
そうして、守人の方を見て、眉を寄せる。
「気になるのか」
気にならないわけがない。幼少の頃から、自分の心を掴んで離さない歌声。何度繰り返し口ずさんだことだろう。
「あいつの力がどんなもんか、俺にもわからねぇぞ。つるんでた頃から随分時間が経ってる。本当は俺らの手に負えないようなバケモンなのかもしれない。それでも」
「それでもだよ」
被せるように、けれど大きくも荒くもなく。穏やかに、それでも強く、守人は頷いた。
互いにまっすぐに相手を見つめ、しばらくの沈黙の後。宗司が目を伏せる。
呆れられたか、でも仕方ない、何年も憧れた歌声をまた聞けるかもしれないんだ、諦められるわけがない。
なんとかして彼の情報を、もう少しでも知られたら。
そう思い、守人が口を開こうとした時。
「んじゃ、行くか」
「え」
宗司が立ち上がった。
「そいつの所。多分だけど、見当はついてる」
二人連れ立って寄宿舎を抜け出し、しばらく歩いた。
いつのまにか日はすっかり落ちて、足音がやけに大きく響く。集落から外れ、森へ続く脇道へと進む。
と、宗司が足を止めた。
「おい」
何、と返そうとして、守人は口をつぐむ。自分に呼び掛けているんじゃない。
「いるんだろ。俺だ。……出てきていい」
かさ、と茂みが揺れた。
こんな街外れの森の中に、一人ぼっちでいるんだろうか。
透きとおる歌声、月並みだけど、世界が変わった気がしたんだ。それなのに、ひとではない、たったそれだけで。
そんなのあんまりだーーー守人は思わず茂みに駆け寄る、そこに。
「ソウーー! ひさしぶり!」
がさり、一際大きな葉擦れの音と明るい声が、文字通り守人の目の前に飛び込んできた。
「え」
「えーーー!?」
二人分の叫びと宗司の溜息が月夜に響いた。
「いやー、ソウが俺んとこ遊びにくるの久々だったからさ、ちょっと驚かそうと思って」
「だからって相手の顔も確認せずに飛びついてくる奴があるか」
「だってソウが友達連れてくるなんて思わないじゃん!」
二人して倒れこんだ体を起こし、そのまま地べたに座り込んで、彼は騒がしく喚きたてる。
ああ、なんだ。よかった、笑ってる。
彼と宗司のやり取りを見つめながら、自然と守人も笑みを零した。
「えっと、モリ、ヒトくん? ごめんねー、驚かせちゃって」
ほんとは宗司を驚かせるはずだったんだけどさー、と、笑いながら、彼は片手を差し出してくる。
「よろしく! あ、爪気をつけて。軽くね、軽く」
「ああ、いや、全然……こっちこそよろしく」
長い爪、鋭く光る牙。たった一言二言を交わすだけでも、彼が人ではないことの証が嫌でも目に入る。
それも守人にとっては、取るに足らないことだった。
「あの、俺。何年か前に、君の歌を聞いたことがあるんだ」
彼の目がぱちりと瞬く。うた、と微かに零したようだった。
「君の歌。本当に子供の頃だったけど、今でもはっきり覚えてる。びっくりした、感動したんだ。もう一度、聞きたいと思った。君の歌が、大好きなんだ」
彼の大きな瞳に、やけに興奮した自分が写っている。だってまた会えた、あの歌、あの声、俺がずっと聞きたかったもの。
もう一度、君の歌が、
「ごめん」
ぽつりと、小さな声で。
「ごめん、俺、歌はもう歌わないんだ」
眉根を下げて、彼は笑った。
「俺の歌は、なんか、人とは違うみたいで。俺が歌わなければ、宗司のお師匠様を心配させることはなかった。兄弟子さんを傷つけることもなかった。だから」
「それはお前のせいじゃない」
宗司が彼の頭を小突く。それでも彼は、ゆるく頭を振った。
「ソウはずっとそう言ってくれるけど。俺が人間じゃないことには変わりない。昔より体が大きくなった分、力も強くなってるかもしれない。何が起こるかわからないからさ」
だから歌はもう、
「そんなことない!」
彼の言葉に、思わず立ち上がった。彼が目を見開く。
「そんなことない。人間かどうかなんて関係ない、俺は君の歌が素晴らしいと思ったんだ。力のことだって、不安になるようなことじゃない。成長した分、制御もできるようになってるはずだ」
嫌だった。彼がそんなふうに、自分のことを否定するのが。守人が焦がれた彼の歌を、まるで悪いもののように言うことが。
「それに、どうしても不安なら、方法がある」
「おい、モリ」
「契約すればいい、俺と。俺の力だけじゃ足りないなら、宗司も。それなら君の力が暴走することはない」
こんなところで一人で暮らさなくたっていい、夜だけじゃなくて、もっとたくさん。
「モーリ」
ぱしん、小気味よい音を立てて、宗司の掌が守人の頭をはたいた。
守人は息を飲み、そろりと後ろを振り返る。
「落ち着け。話が飛躍しすぎだ」
呆れたような宗司の言葉に、ごめん、と呟いて、俯く彼に視線を落とした。
「ま、言ってることには大体俺も同意だけど」
言いながら、宗司が守人の背を叩く。座れよ、と促され、再び守人は彼を見つめた。
「俺は」
彼が顔を上げる。一瞬言い淀んで、小さくかぶりを振って。俺は、ともう一度繰り返した。
「俺は、陽の光を見てみたい。
暗い所からこっそり覗くんじゃなくて、陽の光の下で、思いきり動き回ってみたい」
握られた拳が微かに震えている。
唇を噛んで、それでも瞳はまっすぐに守人を見つめていた。
「陽の光の下で。大好きな歌を、たくさん歌ってみたいよ」
大好きな歌。
確かに、そう言った。
大好きな歌だ。ずっとずっと、もう一度聴きたかった。そしてそれはきっと、俺だけじゃない。
胸が震える。
子供の頃、初めて彼の歌を聞いた時みたいだ。
「できるよ」
気付けば守人は彼の手を取って、強く握りしめていた。
震える拳。ああ、今震えているのは自分の方だ。それはきっと、期待と歓喜で。
「できるよ、やろう。俺と一緒に、俺たちと一緒に。君がやりたいこと、俺たちにしかできないことをやろう」
空。
大きく息を吸い込んで、その名を呼ぶ。
「天のことだよ。陽の光の中では、天は青く透きとおるんだ。
青い、空。ーーー君の名前だ」
そら、と、彼の唇が言葉をなぞる。
呆けたように目を見開いたまま伸ばされた手に、そろりと触れた。