人違いだと、思いたかった。
「彰人の姉ちゃんってさ、髪型茶髪のボブだったよな。左側編み込んでて」
「ん? おう、大体そうだな」
気まずそうに声をかけてくるクラスメイトの話を聞いて、言葉を失う。言い淀むそいつから聞き出した、夜、男と歩く絵名らしきヤツを見たという話。腕を組んで、絵名らしき女が見上げる先にいたのは、年上の彼氏と言うには年上すぎる男だった、と。オレたちの父親は名の知れた画家だ。誰もが知るとは言わないが、調べれば顔はすぐに出てくる。そいつも親父のことは知っているはず。それなのにこんな気まずそうに話すということは、絵名らしき女と腕を組んでいたのはオレたちの父親ではないということだ。まあ、絵名が親父と腕を組んで街を歩くなんて天地がひっくりかえっても有り得ないことではあるが。
なんとか練習をこなして帰宅するが、絵名はまだ帰って来ない。夜間定時制で学校に通っていると言っても、オレが練習を終えて帰れば既に帰宅しているか、すぐに帰ってくるかだったはずだ。それなのに、待てど暮らせど帰らない。
「ただいま〜。うわ、もうこんな時間!? 25時間に合うかな……」
結局、絵名が帰ってきたのは日付が変わる30分程前だった。
「おかえり」
「ただいま。って、顔怖いんだけど……なんかあったの?」
何かあるかは、この後のお前の返答によるよ。
「お前、今までどこいたんだよ」
「え……、友達と、ご飯だけど? ちゃんとお母さんにも連絡したし。ご飯いらないって。遅くなるって」
一瞬口ごもった。少し視線が揺れた。聞いてもいないのに弁明した。
「暁山? 桃井さん? サークルの人か?」
めぼしい人を挙げていく。暁山なら、桃井さんなら、サークルの仲間なら。いつもの絵名なら、誰といたかくらいすぐに言うだろ? それなのに。
「なんで彰人がそんなこと気にするのよ」
絵名は答えない。顔を顰めて、不機嫌を全面に出して、言葉にも棘が乗る。いつもなら、聞いてもいないのに友達と遊んだ話をするのに。
「いいから、答えろよ」
答えてくれよ。頼むから。
「誰だっていいでしょ。姉の交友関係詮索するとか何? キモイんだけど」
吹っかけるような言葉。言い合いにして終わらせる気か? そうはいかない。
「答えらんねえの」
絵名の言葉には乗らず話を続ける。そんなオレを見て、ぐ、とさらに顔を歪ませる。
「もう、うるっさいな! 誰だっていいでしょ! 彰人の知らない人! はいこれでいい? 私急いでるから」
オレの横をすり抜けて行こうとするのを、壁に手を付いて阻む。大きな音を立ててしまったが、今はそんなことを気にしていられなかった。
「お前、変なオヤジと遊んでんじゃねえの」
「っ、はぁ? 何言ってんの。そんな訳ないでしょ」
姉弟というのは嫌なものだ。特に東雲絵名という姉を持った弟でいるということは。いつだって絵名のゴキゲンを伺っていた。別にそれで絵名に諂うわけではないが、放っておいていいか、それとも手を離してはいけないかを測りながら生きてきた。他のやつには見抜けない動揺だって、オレにはありありとわかってしまう。
「部屋、行くぞ」
「な、なんで」
「廊下で全部話す気かよ。母さんが聞いたら泣くぞ」
「話す、ことなんて……!」
「絵名」
「っ……!」
静かに名前を呼ぶ。これで、わかるだろ。お前、オレの姉貴なんだから。お前にだって、オレが引くつもりがないことくらいわかるだろ。じっと絵名を見つめる。たじろいで、俯いて、またこちらを伺い見て、目が合うと肩を跳ねさせた。また目を下へ逸らして、絵名は何かを耐えるように胸の前で手を握る。小さな手は震えていた。それを押さえるようにもう片方の手を添えて、大きく息を吸い、ゆっくり吐きだして、再びオレと目を合わせる。
「わ、かった。わかった、行く。でも、後にして? 絶対に行くから」
おねがい、と言う絵名。その目に嘘は無い。
「わかった。……待つからな」
「……うん」
ありがと。壁から手を離すと、今度こそ絵名は横をすり抜けていった。