「けーしーぃー……、ケシー?あれ、まじでいないのかー?」
何やら、遠くで呑気な声がする。夢現のまま聞き慣れた音を拾って、ケシーはぴくりと瞼を動かした。何度か呼ばれる己の名前と諦めることなく軽快に扉を叩く音から察するに、声の主人は己に明確な用があるらしい。当然だ。用がなければ、わざわざこんな所まで来る物好きはいない。
覚醒しかけた身体から、ふわあ、と欠伸が漏れる。けれど立ち上がるのも瞼を開けるのも億劫で、ケシーはそのまま緩やかに呼吸を繰り返した。
「チィ!チチ、チチィ!」
「……まだ眠い」
このまま居留守を使おうが放置しようが声の主がこちらに危害を加えない事は、ケシーのみならず周囲の獣にとっても織り込み済みだ。なんなら非力な善人故に、圧倒的に獣に狩られる側の人間である。森での暮らしも慣れてきたぞと大口を叩いた傍からわぁわぁと悲鳴を上げてケシーが手を貸す羽目になったのは、まだ記憶に新しいーーそれだって、相手がエイトだと思えば気付けば悪い気はしなくなっていたけれど。
目を伏せたまま小さく唇を綻ばせるケシーを横目に、チィ、頭上でトパが不満気に鳴いた。
「いると思ったんだけどな……どーしよっかなぁ」
大して困って見えない口調で溢されるエイトの声は、ドア越しだというのにやたらと鮮明だった。チィ! 焦れたトパが、非難がましくケシーの毛髪を引っ張ってみせる。痛くはないけれど、心地のいい物でもない。とはいえ、後のことを思えばあまり気を損ねさせるのもごめんだった。
「……ん、分かった。分かったから」
トパを頭上から肩口へと移して、ケシーは仕方なしに目を開ける。周りは既に薄暗い。昼寝のつもりが些か寝過ぎたかもしれない。まあ、寝過ぎたところでエイトが来なければ困ることも無かったのだけれど。
「先に行ってて」
窓を開けて、そこからトパを放つ。一目散にエイトめがけて駆けていく小さな獣を見送れば、すぐさま玄関からわぁっと歓喜の声が上がった。トパと戯れ合うエイトの姿は、最早見なくとも想像がつく。頬を上気させ楽しげに頬を擦り寄せる子供の姿を、出会ってからというものケシーは何度も見てきた。
無意識に唇を緩め、ケシーはゆっくりと立ち上がった。ケシーの大きな体躯で数歩歩けば、直ぐに玄関である。飾り程度の役割しか果たさない鍵を回して扉を開けてやれば、こちらを向いたエイトがぱあっと瞳を輝かせる。
「ケシー!」
「……ん。何か用?」
チィ、エイトの頭に頬を擦り寄せるトパが不満げに鳴いた。待たせたのにその言い方は無いと唇を尖らせるトパを指先で撫でて、そのままエイトの髪に触れる。柔らかい髪を掌で撫で付けてやれば、エイトは呆気に取られた様だった。
「おお……ケシーがご機嫌だ!」
「うるさい。何しに来たの」
「ああ、そうだ。とりあえず今回の差し入れと、あと」
肩に掲げた麻布をどさりとエイトがおろす。数日狩りに出なくても済む分の食料は、エイトにとっては重量がある筈だ。思って、目を細める。
頻繁にエイトがわざわざ重たい袋を抱えて森の中を歩いて来てくれる理由を、ケシーは未だに分からずにいる。そうだったらいいなと思う理由はあるけれど、相手は人たらしな上にのらりくらりと躱す割にはその身に余る沢山のものを拾い上げて大事にしたがるエイトである。自分だけに特別な思惑があるのではないかと期待する気にはなれなかった。
けれど、何であれ貰えるものは有り難い。今更暮らしで困る事はないとはいえ、森で手に入らないものを街まで買いに出るのは億劫なので。素直な気持ちでケシーが礼と共に受け取って、
「あと?」
「なあケシー、俺とキャンプしないか?」
もしかして、これは賄賂だったのだろうか。
態とらしく上目遣いにお伺いを立てるエイトに、なにやらまた面倒事でもあるらしいと息を吐き出した。ここ最近は「ただお前に会いにきたんだぞ」と軽口と共に渡されるのが定番だった為に、ケシーは構えもしなかった。エイトが狙ったものかどうかはしらないけれど、受け取ってしまった手前、ケシーにはその対価には報いる必要がある。
「……何がしたいの」
「えっと、魚掴みだろ、きのこ狩りだろ、あ、星も見たいな」
それから、それから、と指折り数えてあれやこれやと口に出すエイトに、ケシーはひとつひとつ口を挟む。
「今の時期の川はエイトには向かないからやめた方がいい。どうしても魚が良いなら俺が釣る。きのこは……食べられる物をちゃんと見極めるなら大丈夫。勝手に食べたらエイトは多分死んでしまう。星、は、ここならいつでも見られる」
「やった!」
「それで?」
「うん?」
「それだけ?」
いつもしていることと、あまり変わりがないように思うけれど。
そんな事ならわざわざ対価と共に誘わなくたって、ケシーにはいくらでもしてやれる。手土産を片手に切り出すのだから、いつかみたいに街のイベント事に駆り出されるやら雪山に登りたがるやら、もっと面倒事が待ち受けているかと思ったのだけれど。
まだ何かあるんじゃないのかとそっと訝しむケシーに同じく小首を傾げたエイトが、はっとした素振りで手を叩く。そしてにやりと妖しく笑んでみせる。
「もちろん、その後は……決まってるだろ?」
「ふ」
「なんで笑うんだよ」
「エイトがエイトだから」
ええ、と理解しかねる顔でむくれてみせるエイトは、随分と子供じみていた。時折妙に幼い姿を見せる大魔法使いの後継者を見るたびに、実際この子供は己の半分も生きていないのだと思い出す。若く、幼く、無鉄砲なお人良しの子供だ。尤も、その密度は人と関わりを減らして生きてきたケシーのものより断然濃い可能性があるけれど。
「いいよ」
だって遊んだ後は魔力供給も必要だろ、と嘯く子供の髪を撫でて、ケシーが息を吐き出した。
「エイトがやりたい事を全部するくらいなら、いいよ」
事実、面倒ではあるけれど。
たったそれだけでケシーの前でくるくると表情を変える快活なエイトが見られるのだと思えば、多少の面倒毎だって悪くないと思えるのだから嫌になる。
「何からしたいの」
「じゃあケシーが魚釣るところが見たい! いずれは俺が一人で釣れる様に、やり方を教えてくれよ」
「ん」
「子供の頃にさ、キャンプに憧れてたって話したことあったか? だからケシーと一緒に出来るの、すげー楽しみ」
果たして、普段ケシーの家に転がり込むのとわざわざキャンプをするのとで何が違うのだろうか。ケシーにはさっぱり分からないけれど、その言葉通りエイトは心底楽しげだった。
「ありがとな、ケシー」
「……別に」
本当に、何故だが悪く無い。
嬉しげに煌めくエイトの目元に、ケシーが手を伸ばす。
すり、と頬を撫でてやれば、おとなしくされるがままでいるのだから堪らない。意志の強い瞳が甘える様に無防備に閉じられる度に心に湧く感情の理由なんて薄々分かっているけれど、ひとまず見ないふりをしてケシーはゆっくりと頷いた。