重い瞼が落ちかけて、文次郎の身体は大きく右に傾いた。慌てて体勢を戻す時に畳に触れた手のひらが、じんわりと湿っている。
今、勝手に意識が飛んだか?
ちらりと周りを見れば、同室の立花仙蔵が他の六年生との会議を淡々と続けていた。
「──というわけなんだが。文次郎、お前から異論はあるか」
仙蔵の声が突然間近に聞こえて、文次郎の背筋に冷や汗が流れる。
やべえ。
何の話をしていたのかさっぱり分からん。
皆の視線が集中しているのを肌で感じ取りながら、文次郎は頭の中が真っ白になりながら咄嗟に口を開く。
「問題ない」
「……よし、では──」
適当に答えてから、文次郎は思わず手元の半紙を見やる。
本当に問題ないのか?
確か次の合同実習に向けて作戦会議をしていたんだったと思い返すも、墨で書かれた文字は踊って見えて、そもそもどこを指していたのか分からないことに今気づく。何か重要な決定をしてしまったような気がするが、後の祭りだ。
「どうしたの留三郎、顔なんか押さえて」
「いや……、ん、ふふ」
しかもせっかく一瞬冴えていた目が再び微睡み始める。瞼の重さが鉛のようで、文次郎が必死に起きようとしてもどこからともなく湧き上がる暴力的な眠気が容赦なく意識を奪おうとしてきた。不眠不休でも動けるように慣れる鍛錬──とするにはいささか眠気が凄まじい。再び頭がくらりと揺れた。今度は前のめりに崩れそうになり、思わず眉間を強く揉む。痛みで一瞬だけ目が冴えるが、それも束の間だ。これはもう聞き続けるより、会話の主導権を握って目を覚まさねばならない。
「なあ、ここの文だが──」
文次郎が半紙を指差しかけた時、小平太の声が刺さる。
「私が今話している最中だ!」
「それは人の話を遮ってまで話す内容か?」
長次の頬がひくりと引きつる。
「……いや、」
ない、が。
ろ組に怒られ、間に割り込む作戦は失敗。
「ねえ文次郎。何でいきなり立ち上がったの?」
「誰しも立ち上がりたい時だってあるだろ」
困惑した伊作にゴリ押しで通す。
「見下されてるみたいで腹立つから座れアホ。むしろ這いつくばれ」
「誰がテメェの命令なんぞ聞くかバーカ」
「んだと!」
カッとなった留三郎と掴みかかろうとした瞬間、「おい」と低く響いた声に二人はまるで氷水を浴びせられたように固まる。部屋に静寂を齎した仙蔵の真顔がこちらを見やる。
「座れ」
「……はい」
膝が畳に着く。しおしおと正座する文次郎の隣で「何で俺まで」と留三郎はぼやいているが、仙蔵の怒気には逆らえないようだ。
「長次。文次郎が奇行に走らぬよう捕まえておけ」
静かに頷く長次を見て、文次郎は自力で眠気を覚ます手段を失ったことを悟る。肩に置かれた長次の手がやけに重い。せめてギンギンに目を開けて意識を保っていなければならない。
文次郎は乾いた目を擦りながら瞼を閉じては開けを繰り返すも、やっぱり目はしょぼくれたままで、墨で書かれた文字もやっぱり踊っている。
畳に手をついた時の冷たい感触が刺激にならないかと思ったが、何の効果もないし、長次に「手をわさわさしているのがすごく目障り」と両手を膝上に置かれてしまう。暫く目を思い切り見開いていたが、ふとした拍子に視界が暗転した。頭が上下にぐわんと大きく揺れる。
「……仙蔵。文次郎の船漕ぎが二十を超えた」
長次の報告に、仙蔵もため息をつく。
「そうか。よし、では『ふぉーめーしょんもんじろー』だ」
仙蔵が指を鳴らすや否や、気がつくと文次郎の四肢が瞬く間に絡め取られた。
「は? うわ、っ、なに、なんだ!」
反応が遅れたせいで完全に身動きが取れない。仙蔵の太腿に頭が乗せられ、長次と小平太が両腕を、留三郎と伊作が両足をそれぞれ押さえ込んでいる。各々の密集した太腿の上に胴体が乗っかっていて、そこから伸びるはずの四肢は彼らの装束に隠れているが、二の腕と太腿ががっちりと掴まれているのが手に取るように分かった。
「お前らッ、何しやがる!」
必死に蠢くも、五人がかりにびくともしない。触れた装束の下の肉を抓ろうとしたが、手首ごと掴まれて未遂に終わってしまう。次第に抵抗が弱まった文次郎の胴体にぱさぱさと半紙を乗せてきて会議が続行された。俺を台替わりに使うのをやめろと声を荒げるが、誰も聞いちゃあくれない。
「ゔぅー」
頭を持ち上げようにも仙蔵に固定されているし、頬をうりうりとされくすぐったさに首を左右に振る。自分の髪が顔に当たってもどかしい。そこで髪紐が取られていたことに初めて気づく。
「おいっ、解くな!」
「ここまでされても鈍いとは。さっきも碌に聞いていなかっただろう」
仙蔵の声に、文次郎はぎくりとする。
「き、聞いてた」
「ふうん。なら作戦はどうするんだったか教えてくれるか」
仙蔵が意味ありげに文次郎を見下ろし、口元に薄い笑みを浮かべながら投げかけてきた。
「まず小平太が陽動で──」
「いや、その前にお前が敵陣で腹踊りをする」
「はあ!?」
嘘つけと声を荒げば、ジト目の仙蔵に見下ろされ、助けを求めて周りを見やるが皆は呆れたようなやれやれとした表情を浮かべている。何でそんな顔をされなくちゃならない。留なんか肩を震わせて笑いを堪えてやがる。
「最初に私が確認しただろう。『お前から異論はあるか』と。お前が問題ないと言ったからそのまま進めたんだが?」
「だからって腹踊りなんぞ……!」
さっき否定しておけば。いや、そもそも話を聞いていれば──‼︎
わなわなとしたまま言い返せない文次郎に、仙蔵は憎たらしいほど爽やかに笑う。
「心配するな。流石に腹踊りはさせんが、今のお前は完全に使い物にならん。素直に寝ろ。詳細はまた改めて伝えるから」
「そうだそうだ! 大人しく寝ろ!」
「断る!……というかお前らいつまで俺の腕と足掴んでんだ! 退けよ!!」
小平太の迎合に噛み付くも、仙蔵はあっけらかんとして「このままだが?」といけしゃあしゃあと告げる。
「おいふざっけっ……、んがあッ!」
「こら暴れるな奇声も上げるな」
「ははっ、俺達に無様な寝相を見られるのがそんなに嫌か! お間抜け文次め」
「るせぇ……! あほ三郎に言われたかねえ!」
「なんだ、学園一忍者している潮江文次郎なら、どんな体勢でも聞くことくらいはできるだろう?」
「やめとけ仙蔵。こいつは寝ちまうかもしれないって怖がってんだ。そっとして、やれ、よ、っ」
「笑ってんじゃねえよ! くそ、ぬかせっ、ギンギンに聞いててやる……!」
最後の抵抗といわんばかりに地獄から這うような声を絞り出すが、既に息は上がっている。各々が呆れたり苦笑した後、では続きを始めようと呼びかける仙蔵の声で皆が本題へ戻っていく。
交わされる言葉は一つ一つは理解できるのだが、徐々に遠くの念仏のように聞こえてきて、それが文次郎の鼓膜をちょうどよく揺らして眠りを誘う。振り払おうにも四肢は完全に封じられているし、抵抗する気力ももう底つきかけ、おまけに紙紐が取られた分、寝る体勢がほぼ完成している。その時点で嵌められたと気づくも、既に遅過ぎた。
「……ん、」
仙蔵が文次郎の頭をゆっくりと指圧してくる。こめかみから頭頂部にかけて、絶妙な押し加減で血行が良くなるのを感じて、思わず声が漏れた。
「仙、ぞ……やめ……寝ちま……か、ら……」
おまけに皆が文次郎に密着している面からじわじわと体温が伝わってきて、ちょうどいい温かさに包まれる。
「……、」
五人分の人肌の温もりが文次郎の身体を芯から温めて、とろとろと瞼が落ちていく。
その頭上で小声が飛び交う。
「文次郎、今何徹目だっけ?」
「五、いや六かな。昨日保健室で葛根湯貰いに来てたし」
「それ、風邪引きかけてないか?」
留三郎が眉をひそめた。少し生暖かく笑っている伊作に気づいたのか、咳払いをしている。
「……粥を作ろう」
長次の提案に、小平太の目が爛々と光った。
「私にも作ってくれ!」
「お前は元気だろうが」
「卵入りな!」
「梅にしろ梅に」
留三郎の呆れ声に、部屋が和やかな笑い声に包まれる。
完全に会議は脱線しているが、重要な部分は大体進んだし、まあよしとしよう。文次郎を省いたまま進めると後で拗ねるのは目に見えているから、こうして休ませるのが一番だ。
やいのやいのと賑やかに騒ぐ仲間たちの傍らで、文次郎の穏やかな寝息が聞こえてくる。僅かに開いた口元をそっと閉じてあげながら、仙蔵は誰の耳にも拾われないくらい小さく呟いた。
「おやすみ、お兄ちゃん」