繍球、転がる 仙楽国は滅び、亡国の皇子となった謝憐と、その従者二人を取り巻く事態は坂道を転がり落ちるかのように悪化の一途を辿っていた。
日々の暮らしは困窮していく一方で、一筋の光も差さない暗闇を歩くかのような毎日に、一行の心は少しずつ、だが、確実にすり減っていった。
このときの謝憐は、そもそも出口があるのかもわからない迷路を彷徨うような気持ちだっただろう。
そして、当然、慕情にも漠然とした不安が常に付き纏っていた。
だが、このような状況だからこそ、少しの幸運に心を躍らされ、美しいもの、愛らしいものを素直に愛でることが大事なのだと、そう思うのだ。
慕情は、はたと足を止めると、少し遠くを見つめた。
だが、先を急いでいるのに、後ろに続く足音が途絶えたことに苛立ったのだろう。不機嫌さを隠そうともせず、風信が問いかけた。
「どうした、慕情?」
予想以上に剣呑な声に、慕情は気圧され、おずおずと答える。
「あ……えっと、あそこにアジサイが咲いていて」
ほら、と、見事に咲いているアジサイを慕情は指差した。
そう、こんなときだからこそ、ちょっとした幸福に浸るのも悪くないじゃないか。
……そして、自分に対して終始仏頂面のこの彼も、少しは頬を緩めるんじゃないかしら、そんな期待を込めながら。
だが、残念ながら、彼のささくれだった感情はそんなちっぽけな幸運で凪ぐようなものではなく。
風信の視線が一応慕情の指先を追いかけ、青い花をとらえるものの、風信は深くため息をついた。
「はぁ。そんなもの、別に珍しくもないだろう。今はどうでもいいことだ」
眉間にきつくしわを寄せ、こちらを睨むような視線に、慕情は途端に居心地が悪くなる。
なるほど、花になどまるで興味がないであろう彼の、実にらしい反応に慕情は鼻白んだ。
そうだ、彼に花を愛でる心など期待することが馬鹿げているのだ。
「行くぞ」
先を急ぐ風信の態度はそっけない。さっさと遠ざかるその背中を見つめていると、慕情はふとある事実に思い至った。
そうか。この人は花に興味がないのではない。
慕情に興味がないのだ。
慕情は拳を握り締めた。
「はい……」
全てを飲み込んで、それだけ返事をする。
そして、先を行く風信の後を追うものの、どこか後ろ髪を引かれる思いがして、最後にもう一度来た道を振り返った。
誰にも気に留められることなく咲く青い花は雨が滴り、静かに涙を流していた。
慕情はそっと顔を顰めたが、すぐにいつもの無表情を取り戻すと、急いで風信を追いかけた。
結局、この日の雨は一晩降り続いた。
******
ひとつ、大きなため息をつく。
まったく、不愉快極まりない記憶を、何故、今、思い出すのか。
慕情はあのときをなぞるように、顔を盛大に顰めた。
別に、雨が降るたびに、アジサイを見るたびに思い出していたわけではない。むしろ、今の今まで忘れていたくらいだ。
「ついてないな……」
雨には降られるし、嫌な記憶はよみがえるし、散々だ、慕情はひとりごちた。
何だってこんな天気が悪い日に謝憐の元を訪ねようと思ったのか。
だって、謝憐に事前に訪問を伝えて約束していたから。
だって、天界では人界の天候など関係がないから。
慕情は頭の中で言い訳を並べ立てる。
だが、それにしたって、調べる術はいくらでもあるので、やはり下調べもせずに気軽に人界へと降り立った自分が恨めしい。
謝憐の暮らす菩薺観まであと少しの距離に建てられた小屋で慕情は雨宿りを余儀なくされていた。
もういいだけ濡れているのだからこのままとことん濡れて謝憐方を訪問しようかとも思ったが、それだと、少しでも早く彼の人に会いたかったから慌ててやって来たのだと思われるのがどうしても不本意だった。
雨はやむ気配もなく。
やっぱり今日は帰ろうか、そう思い始めた矢先。
がたりと大きな音をたてて、小屋の扉が荒々しく開かれた。
「あ!慕情!」
「……お前……」
開いた扉から勢いよく中に飛び込んできた風信の姿に、慕情は呆然とした。
「なんで勝手に先に行くんだ!?」
ずぶ濡れになった髪の毛から水滴を払おうと首を振りながら、風信は開口一番に文句を垂れた。
あぁ、なんだか犬みたいだな……
ぶるぶると体を震わせて水滴を飛ばす犬の姿をぼんやりと思い浮かべた慕情だが、風信の今の文句は聞き捨てならない。
「別に約束なんてしてないだろう」
そうだ。昨日、たまたまこの男に会って、「明日謝憐のところに行く」と伝えただけで……。
「だから!!俺も行くと言った!」
風信も譲らない。もちろん、慕情も。
「はぁ?一緒に行くなんて言ってないが!?」
ひと言、「では一緒に」とでも言ってくれていれば、慕情だって考えないこともないのだが。
「いや、お前、そこは察してだな!?というか、いつもいつも余計なことには気が回るくせに、なんだってこういうときはものすごく察しが悪いんだ……」
慕情にとってみれば、今の言葉は言いがかりも甚だしいし、なんなら暴言に近い。だが、自分と連れ立って出かけたかった、と聞こえなくもない苦情に、悪い気はしない。
「はん!坊やは一人では迷子になるのかな?」
目を細めて、にやりと人の悪い笑顔を浮かべる。
「それとも、私と一緒でないと寂しいとか?」
にこりと、それはそれはきれいな笑みを浮かべながら。
だが、風信はいずれの問いかけにも答えることなく、むっつりと黙り込んでしまった。
おい!否定するなり怒鳴りつけるなりしろよ!!でなきゃ、私が痛い奴のようになるじゃないか!!
心の中で盛大にどやしつけるが、口には出せないまま、慕情も黙り込む。
地面を叩く雨音までが自分たちを嘲笑っているかのように聞こえる慕情は、まったく、空気を読めないのはどちらかと、そっとため息をついた。
小屋の中では沈黙が続くが、今更雑談に興じるような相手でもない。
別に気まずいとも思わないが、退屈は退屈だ。
慕情が、いよいよ濡れても構わないから先を急ごうかという気になったそのとき、風信の声が沈黙を破った。
「おい!!慕情!!ちょっと来てみろ!!」
完全に気を抜いていた慕情は、突然自分を呼ぶ大声に体がびくりと反応した。
すわ、妖魔鬼怪のおでましかと、風信が立つ窓辺へと向かう。
「そんな大声で呼ばなくたって聞こえる」
呆れを隠さずため息をつきながら、風信のすぐそばに近づいた。
風信は手招きする手でそのまま窓の外を指差した。
「ほら!」
やけに楽しげな声を上げて慕情の視線を促す。
風信の指し示す方へ目を遣ると、慕情の瞳が鮮やかな青色をとらえた。
あぁ、アジサイだ。
慕情は目を見開いた。
雨に烟る風景に、映える空色が眩しい。
あのときの青色より美しいと感じるのは気のせいだろうか。
いつかのアジサイを思い返そうとするが、花自体の記憶は朧げで。
慕情は思い出せもしない花と目の前のそれとを見比べるのは諦めて、代わりにあのときの風信と今の彼を見比べようとした。
当然、アジサイよりも己の顔をまじまじと見つめる慕情に、風信は怪訝そうな目を向ける。
「おい……どうした?……えらく反応が薄いな」
風信に慕情の考えていることなどわかるはずもない。
腐れ縁としか言い表すことのできない相手に対して、柄にもなく花になど興味を示したことが恥ずかしくなったのか、慕情が思ったより関心を寄せないことにがっかりしたのか、風信は少し気まずげに唇を尖らせた。
「うーん、アジサイ……というか、こういう綺麗なもの、お前、好きじゃないか?」
お前は美しいものが好きなのだと思っていたがこれは違ったかと、風信が少し残念そうに呟く。
そして、窓の外、青く咲くアジサイに視線を戻した。
「悪かったな」
頬を引っかきながら、ばつが悪い様子で風信が謝罪した。
慕情も雨に打たれる青い花に再度目を向けた。
いつからか、この季節になると、なんとなく視界に入れないようにしていたこの花が、今はとても可憐だと感じるのは、流石に現金すぎるだろうか。
それにしても、この男が慕情の趣味嗜好に対してわずかでも関心を見せるとは。
慕情は驚きを隠せない。
あの頃とは少しだけ……風信と自分の関係が変わったということだろうか。
慕情はふっと口元に笑みを浮かべた。
アジサイなど特に好んでいるわけではない。好んでいるわけではないけれど。
彼が笑う、……のであれば。もし、そう、ならば。
「……好きだよ」
ややあって、やっと聞き取れるくらいの小さな声で、慕情は囁いた。
「……そ、そうか」
不自然なほどたっぷりと間を置いて、風信が妙な——笑いを噛み殺すような、困ったような——表情で、慕情の言葉に頷いた。
「……」
やはり、変な気を起こすのではなかった!
風信の何とも言えない反応を前に、慕情は何故だか言いようのない気恥ずかしさを覚えて仕方がなかった。
あぁ、もう!
慕情は、懐から乾いた手拭いを取り出すと、それを風信の頭にぱっと被せてやった。
「は!べちゃべちゃじゃないか!部屋を濡らされては迷惑だ!しっかり拭け!」
慕情は、己の中に芽生えた羞恥心を誤魔化すかのように、遠慮会釈なく、風信の髪をザカザカと乱雑に拭いてやる。
「おい!?何をしてるんだ!?拭くならもうちょっと丁寧に……!」
突然のこの狼藉に、風信は腕をばたつかせて抵抗するが、布で視界を遮られているためか、あまり上手くいっていない。慌てる風信を見ていると、興が乗ってきたので、慕情の悪戯心が顔を出す。
「あはは!こら、動くなって。濡れたままだと風邪を引くぞ」
大嘘だ。
神官が——それも高位の——雨に濡れたくらいで風邪なんて引くものか!
慕情としては、母親よろしくかさばる息子の世話を焼いてやる心持ちだった。
ただし、母親にしては、随分と手荒い。
なんとか慕情から距離を取ろうと慌てた風信が、乱暴に動く慕情の手首を掴んで動きを封じてしまった。
よかれと思って(半分以上は照れ隠しだが)水滴を拭ってやっていた慕情としては、動きを止められて面白くない。
まぁ、拭き方が雑に過ぎる自覚はあったので、流石に怒ったかと、からかいの気持ちを込めてにやりと口の端を上げて、その顔を見やった。
そこには顔中を真っ赤に染め上げて、いつもよりきつく眉間にしわを寄せながら、じとりと慕情を見つめる風信の目があった。
これは、怒っているというより——
「……」
「はは!」
予想外に面白い表情を浮かべる風信に、慕情はとても良い気分になる。
なんだ、随分と可愛らしい反応をするじゃないか。
さては、子供扱いされて恥ずかしがっているのか、あるいは、母親でも思い出したのか!
慕情はにやにやと微笑みながら、先程よりも優しい手つきで風信のこめかみに伝う雨粒を拭った。そう、慕情にあるかないかはよく分からない、母性とやらを丹念に込めて。
「ほーら、ちゃんと拭かないと、男前が台無しだぞ?」
くすくす笑いながら、お節介な母親の如く、手拭いのまだ乾いた部分を風信の額にそっと当ててやる。
少しの間、おとなしくしていた風信だが、やはり慕情の母親ごっこがお気に召さないのだろう、手拭いを握る慕情の手首を再度掴んで悪ふざけをやめさせる。
なんだ、つまらない男だな。腐れ縁のよしみだ、少しくらい触れたっていいだろう?
そして、互いに見つめ……いや、睨み合う。
「……あまりからかうな……」
睨み合いに負けた風信は、首まで真っ赤に染まった顔を背けながら、慕情から手拭いを奪い取ると、さっさと自分で雨粒を拭っていった。
その様子をぼんやりと眺めている慕情の頭の中に「水も滴る某某」の言葉が過る。
慕情はあり得ないとばかりに首を振るが、じわじわと込み上げてくる熱は如何ともしがたく——。
すると、突然、慕情の視界が遮られた。
「ほら、お前もちゃんと拭いておけ」
風信は、使いかけの手拭いをバサリと慕情の頭に被せると、仕返しのつもりなのか、そのまま容赦なくワシャワシャと髪の毛を引っかき回す。
だが、慕情の頭の中には、雨を纏う風信の姿がこびりつき、己への無礼を構う余裕などなかった。
しばらく好き放題していた風信だが、慕情が文句も言わずにその狼藉を甘んじて受け入れていることに不審を抱いたのか、その顔をのぞき込んだ。
「……」
風信は手拭いからぱっと手を離すと、あーだの、うーだの、意味をなさない音を発していたが、結局、ぷいっとそっぽを向いて、慕情から距離を取ってしまった。
二人の間に、再び沈黙が下りる。
こうして、ひとつ屋根の下、彼らはお互いに明後日の方向を向きながら、雨が上がるのを待つほかなかった。
******
「やぁ、いらっしゃい、よく……」
訪問先の主は、歓迎の挨拶を述べながら二人を屋内に迎え入れようと扉を開くと、目をまん丸にして驚きをあらわにした。
あの犬猿の仲の二人がひとつ傘の下、肩を寄せ合っている??
謝憐は見間違いかと思い、我が目を擦るが、あいにく傘が増えることも、どちらかが消えることもない。
あの小屋で気まずい雨宿りをしてしばらく。
再び、風信が慕情に呼びかけた。
「あ!慕情!大変だ!」
「今度はなんだ?」
「見てくれ!俺は傘を持っている!」
そう言いながら、風信は乾坤袋の中から傘を一本引っ張り出した。
「そういえば、この前出かけた時に持ち出したまま、入れっぱなしにしていたのを思い出した!」
どうだ恐れ入ったかとでも言いたげな表情で慕情に報告をよこしてきた。
思い出すのが遅すぎる!と慕情は白目をむいたが、得意気な様子の風信はそれに気づく素振りもない。
「なら先に行け」
私はもう少し雨足が弱まるのを待ってから発つ、そんな言葉を遮って、風信は慕情の腕を引っ張った。
「一緒に入ればいいだろう」
狭い、見苦しい……言いたいことが色々と思い浮かぶものの、服越しに伝わる風信の手の温もりが惜しくて、慕情はおとなしく傘に収まった。
「こいつが傘を一本しか持ってこなかったので!」
「はぁ!?お前なんて丸腰じゃないか!だから入れてやったんだろ!?」
謝憐の怪訝な表情を見て、慕情が先手必勝とばかりに文句を言うが、明らかな理不尽に風信も言い返す。
「まぁまぁ。風信、慕情を傘に入れてあげたんだね。えらいえらい。慕情、ちゃんとお礼を言いなさい」
謝憐が旧主として二人を宥めにかかる。こうなると、慕情は返す言葉もない。ちらりと風信を見やると、彼は勝ち誇った笑顔を慕情に向けているではないか。
慕情はそっぽを向いた。
話は弾み、さてそろそろ暇を乞おうかというところで、菩薺観の扉がぎしりと音をたてた。
今やこの道観のもう一人の主とでもいうべき男のご帰還であった。
「ただいま、兄さん」
謝憐の前に座る元従者、いや、今では南を統べる武神二柱に視線すらくれてやることなく、謝憐の元へすっと近づく鬼王閣下はずぶ濡れであった。
この世の全てを意のままに操ることができるのではないかと思わせる絶境鬼王も、雨に打たれるのか……慕情はそう思うと少し面白い気がした。
謝憐が濡れ鼠となった花城の頭を、体を、手にした手拭いで丁寧に拭いてやる。
花城は嬉しそうに身を屈める。
あ、こいつ、わざと濡れ帰ってきたんだ——慕情の顔が引きつった。
「ほら、三郎」
「ふふ、ありがとう、兄さん」
どこまでも優しい笑顔を向けながら、バカでかい子供の髪の毛に滴る水滴を拭ってやる友人と。
その友人の手が届きやすいようにでかい図体を屈めてやって、嬉しそうに目元口元を緩めるその連れ合いと。
まるで親子のように微笑ましい光景……であるはずもなく。
どこをどう見ても、情人同士の戯れでしかないじゃいか!
慕情は思わず白目をむいて、うめき声を上げた。
「まったく、何を見せられているんだ……」
なぁ?と、隣にいる風信に同意を求める。
しかし、何がおかしいのか、風信は胡乱な目を慕情に向けているではないか。
「……お前……お前がそれを言うか?」
言葉を絞り出すかのように慕情に問いかける風信は、何とも言えない表情をしている。
「はぁ?」
どういうことだと尋ねる前に、風信は呆れたようにぼそりと言葉を続けた。
「さっき、人の体を散々好き勝手してたくせに」
「な!?」
慕情は人聞きの悪い言いがかりに、怒りで顔を赤く染めた。
失礼な!
私はただ、濡れた髪を、体を、拭ってやっただけだろう!?
あんな、謝憐みたいに、楽しそうに笑ってなんか!!
いないだろうと、慕情は、甲斐甲斐しく情夫の世話を焼く友人の、腑抜けた笑顔を見やる。
「……」
「お前もさっきは随分と楽しそうにしていたが」
真心もあった。
が。確かに。本当にわずかに、ほんの少し、ちょっとだけ、ちょっとだけ、この男に触れてみたいという下心も確かにあった!
「〜〜っ!!」
いらぬ己の本心に気づかされた慕情は、瞬時に湯気が出そうなくらい顔を真っ赤に染め上げた。
その様子を風信が面白おかしくあげつらう。
「なんだ、どうした?濡れて体調でも崩したか?」
言葉とは裏腹に、全然心配する気のない心遣いを慕情に向けてくる。
そして。
「なぁ。俺もさっき、ああやって屈んでやった方がよかったのか?」
口元にはにやにやと人の悪い笑みを浮かべながら、風信がここぞとばかりに、きっちりとさっきの仕返しを見舞ってきた。
「帰る!」
慕情は勢いよく立ち上がると、そのまま菩薺観の扉を壊す勢いで乱暴に開いた。
「あははは!」
その様子を見て楽しそうに笑う風信を一瞥した後、慕情は今度こそ外に飛び出した。
「また来るんだよ〜」
謝憐の呑気な見送りの言葉を背に、来た道を辿っていった。
風信も慕情を追いかけて、謝憐の元を後にした。
とうに雨はやみ。
雲間から光が差し込み、青い花びらを濡らす雫がきらきらと輝きを放つ。
慕情はそっと微笑を浮かべた。