無題「好き」
結局たったその二文字の言葉が口に出せなくて、たくさんたくさん、悲しい気持ちにさせてしまった。
あの人がアイドルを辞めてモデル業に専念するって言った時も、僕には引き止めるなんてことは出来なかったし、
「俺はゆうくんの事が世界で一番好きだよ。ゆうくんは?」
って言葉にもきちんと答えることは出来なくて、
「…ごめん」
精一杯絞り出したその言葉はどれほどあの人を傷つけてしまったのだろう。一緒に居られる最後の日だったのに、あの人のあんな表情が見たかった訳じゃなかったのに。
その後は何だか雑誌であの人を見る度に心が罪悪感で押しつぶされそうになってしまって、いつしか毎日見ていた雑誌を買うのも辞めてしまった。
あの人はどこで何しているんだろう、謝りたいな。今度こそは、僕の気持ち、伝えてあげないと。そんなことを思っていたはずなのに、会えなくなってしまってからもう七年も経ってしまった。まだ僕の心はあの人にあるのだろうか。
ESでの仕事を終え、いつもの帰路に着く。今日は普段よりも仕事量が少なかったおかげで早く家に帰れることになった。家に帰ったら何をしようかなんて考えながら道を歩いていた。
すると道の反対側から小さな男の子が走ってきた。ドン、と体にぶつかりその子がわっと小さな悲鳴をあげる。
「わわ、大丈夫?慌てて走ったら危ないよ」
「ご、ごめんなさい、、、」
「ちょっとぉ!?道で走るのはやめてってあれほど言ったでしょ!?」
男の子が走ってきた方向から父親らしき人が早足で向かってきた。
「お子さんですか?元気があっていい子ですね」
「うちの子が迷惑かけてすみません…怪我はないですか?……って、ゆうくん……?」
「…え?」
ゆうくん、そんな風に僕を呼ぶのはあの人しかいない。
はっと思い顔を見あげると、そこには七年前に離れてしまったはずの泉さんが居た。
「……いつの間に子供なんていたんだね」
「まぁね、でも嫁とは中々子育ての方針が合わなくてさ、そのまま離婚まで行っちゃったんだよね」
ここで会ったのも何かの縁、ということで手頃なカフェに入って久しぶりに会話を繰り広げていた。
「そうだったんだ、泉さんに似て綺麗な顔してるね、将来が有望だ」
「まぁね、でもあの子には自分の好きな事をしてもらいたいんだよね、芸能人の子供だからって芸能界に引き込むつもりもないし。まぁその考えが原因で嫁とは別れることになったんだけどね」
これもいい人生経験だよねと言って苦笑する。
今なら、謝れるかな。あの時のこと。
「あ…あのさ、泉さん……」
「ねぇねぇ、この人、ぱぱのおともだち?」
先程までちいさなおもちゃで遊んでいた子が聞いてきた。
「そうだよぉ、大事な大事な、おともだち」
おともだち、かぁ。まだ泉さんの心には、僕がいてくれてるのだろうか。
「今日はありがと泉さん、なんだか2人の時間邪魔しちゃったみたいでごめんね。これ僕の連絡先、まだ日本にいるならまた会ってよ。今度はゆっくりお話しよ」
「うん、もう海外に戻る予定は無いからまた連絡するよ、今度は2人で会おうね」
僕から連絡先を手渡されたのがよっぽど嬉しかったのか、ふにゃっと柔らかい笑顔を浮かべている。そういえばこんなことをするのも初めてだっけ。
「じゃあ、またね」
「うん、後で連絡するね」
「ゆうとくんも、またね」
「うん!ばいばいゆうくん!」
先程教えてもらった名前を呼んであげると泉さんのが移ったのか、ゆうくんと呼ばれた。なんだかキッズモデルの頃に戻ったみたいだった。
そのままカフェを後にして家に戻る。
「……まさか、泉さんが結婚してたなんてなぁ……」
なんて独り言を呟きながらベッドに倒れ込む。今の自分の気持ちを表すかのようにカバンが手から滑り落ちる。
「僕のこと、ずっと好きでいてくれるんじゃなかったの……?」
勝手にそう思い込んで、勝手に落ち込んで、なんだか自分が馬鹿らしく思えてきてしまった。あの時差し伸べられた手を振り払ったのは自分だと言うのに。今更まだ泉さんの事が好きだなんて、自己中にも程がある。
自己嫌悪を続けていたら、不意にメッセージアプリの通知が部屋に鳴り響いた。スマホを覗いてみると泉さんからだった。
『さっきはうちの子の相手までしてくれてありがとう、久しぶりに会って話せて嬉しかったよ。ゆうくんさえ良かったらまた会ってくれる?』
あぁ、こんなメッセージが来るだけで心が踊ってしまうなんて、どれだけ僕は現金なんだろうか。
『連絡ありがとう、僕もまた泉さんとお話したいな。今度の日曜とか空いてるから良かったら一緒にどこかでゆっくりしよ』
と返信をする。直ぐに既読が付き、OKの返事がくる。そのままの流れで待ち合わせ場所、その日に行く場所などがスルスルと決まっていく。