🌊☀️001「それじゃあ、行ってくるね」
そう言っておひいさんはオレの頬へ口付けた。だが、それでもオレのこの心のモヤモヤは晴れない。この日が来てしまったからには、オレは不安と後悔とやるせなさでいっぱいだ。
そうして、暫く黙ったままのオレを見かねて、おひいさんは再び口を開いた。
「ジュンくん!いってらっしゃいのキスは?約束したよね?ほら早く!ぼくが遅刻しちゃうね!」
そうやって自身の頬を差し出してくるおひいさんの様子は至っていつも通りだった。こんな気持ちを抱えているのは自分だけかもしれない、そう思うと何だか一方通行な気持ちの行き先がなくなってしまって、目頭が熱くなる。
「……っ、はい。おひいさん、いってらっしゃい」
少しだけ掠れた声で震えるように呟けば普段より冷たい唇で彼の頬へと触れた。
時は遡ること2週間前。
「そういえば、ジュンくんに話しておかないといけないことがあるね」
そう切り出したおひいさんの声色はいつも通りだったけど、少しだけ緊張したような面持ちだった。
淹れたばかりの紅茶が入ったカップを両手に持ちながら、テーブルへと掛ける彼の前にカップを一つ差し出す。ありがとう、そう言って受け取る彼は普段の大きく明るい声とは異なり、静かで落ち着いた、まるで穏やかな波打ち際のような声色で話しをした。
「実はね、ぼくにお見合いの話が来てね。ぼく個人の気持ちでは断りたかったんだけど、ぼくの命は巴のものだからね。お見合いをしろって言われれば断れないね。だから今月末、ぼくはお見合いに行ってくるね。相手は巴と競合している分野でシェア3位の会社のご令嬢だね。ぼくと婚約すればグループ会社化して業界内でのシェアも大きく伸ばせるから、まぁそれが狙いなんだろうね。今1位だからといって今後もそうだとは限らないしね」
そう言いながらおひいさんは細く長い指で持ったカップを緩く傾けた。
「……でもね、ジュンくん。ぼくはジュンくんとのことを諦めるつもりはないね。だから、これは別れ話なんかじゃないってことは言っておこうね。ぼくの命は一生巴のもの……アイドルの巴日和も、プライベートの巴日和も何一つ、きっとジュンくんにはあげられないね。それはぼくが持っているものじゃなくて、巴が持っているものだから。でもね、だからこそぼくの心だけはジュンくんに全部あげたい。あげられないものが多い分、ぼくの心は全部ジュンくんのものだね」
少しだけ、おひいさんの表情が悲しげなものになった。
「だから、――――」
ぼくを信じて、待っててほしいね。
そんな彼の言葉を信じて送り出した。
そこからの時間は正直よく覚えていない。時計の針が進む音が妙に遅く、どれだけの長い時を待っても時計はたったの数分しか進んでいない。そんな地獄のような時間だった。
そして、午前中に出て行ったおひいさんが帰って来たのはすっかり暗くなってからだった。
ガチャリと扉が開くことがした。
その音が聞こえた瞬間、心臓は大きく跳ね、反射的に声を上げた。
「……おひいさん!」
そうして目線は扉の方へと向かう。その瞬間、目に入った彼の姿に驚きのあまり身体が固まってしまった。
「…………おひい、さん……?」
そう、常なら必ず元気に挨拶をして扉を開ける彼の声が聞こえない。それだけで、十分に異常を感じられるはずだった。だが、今日の自分にはそんな余裕もなかった。
扉の前で立ちすくんで動かない彼の元へとゆっくり足を進める。
近付いて、彼の顔をよく見ると、真っ赤になった目元、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら赤くなった頬を押さえる細く綺麗な手があった。
ゆっくりとしか動かなかった足は、そんな状況を理解するや否や駆け出していた。すぐに駆け寄り、怪我の状況を確認しながら頬に当てられた白い手へ自身の手を重ねる。
「おひいさん!どうしたんすか、それ……何が……っオレ、すぐ氷水作ってくるんで早く部屋入ってください!えっと、……」
そうして、慌てたように声を掛けてキッチンへと向かおうとするオレの手を、おひいさんの手が掴んだ。
「…………ジュンくん、行かないで」
そう、小さく呟いた声が聞こえた。
ぐずぐずと鼻を鳴らすおひいさんを優しく抱えてソファへ連れて行く。それでも、アイドルにとって大切な顔に何かあってはいけないからと、説得して1分だけ時間をもらう。
その間に氷水を作ってタオルで包んで渡し、骨などに異常がないか最低限触って確認をする。どうやら、出血や骨への異常はなさそうだった。
その間もずっと口を開かず静かに瞼を伏せ涙を流すおひいさんに、オレはどう言葉をかけていいか分からなかった。泣いていても綺麗なこの人が、こんな風に自身の預かり知らぬところで傷付いて帰ってくることを予想できなかった。
自身が捨てられるのではないか、彼がもしも引退してしまったら……?そんな不安ばかりが襲っていた少し前までの自分を殴り倒したいくらいだ。何が恋人だ。いざという時に心配するのは自分のことばかり、本当にこの人のことを考えられていなかった自分が恥ずかしい。そう思うと釣られて泣きそうになる。一度瞼を強く瞑って、目元に集まる熱をやり過ごす。そうして、頬へ氷水を当てながら綺麗に涙をこぼす、最愛の彼に言葉を紡いだ。
「おひいさん、すみませんでした。オレ、あんたがお見合いに行っちまって、もしもそのまま話がどんどん進んで引退することになったらオレはどうなるんだろうとか、そんなことばかり考えちまってて……あんたがそうやって傷付いて帰ってくる可能性を考えられてませんでした。よく考えなくても、家の都合で振り回されて、よく知りもしねぇやつと結婚前提に話をして、でもあんたはその気がなくてって……一番辛いのはおひいさんでした」
そう、ぽつりぽつりと言葉を呟けば、一人床を見つめて涙を流すだけだったおひいさんが口を開いた。
「…………ううん、不安にさせてごめんね、ジュンくん」
そう言って、無理矢理笑うおひいさんの表情は頬が痛いのか少し引き攣った笑いだった。
「おひいさんに悪いところなんて一個もなかったです。オレの方がずっと自己中で我儘で……あんたのこと何も考えられてなくて…………あんたは一人で、オレたちの未来のために頑張ってくれてたってのに。すみません、もう遅いかもしれないですけど、あんたのその辛さをオレが少しでも背負いたいです。何があったんですか。オレが土下座でもなんでもすればどうにかなるもんでもないんでしょうけど、あんたのためなら何でもやります。まだ子供で何の力もなくて、重いもんを一緒に背負えないオレですみません」
自然と下がる眉と目線を目線だけどうにか上げてソファに座った相手の前に、床へと膝をついて見上げる。片手を氷水越しにおひいさんの頬へと添えて、優しく撫でる。
暫しの間そうしていれば、おひいさんの綺麗な声が静寂を破った。
「…………あのね、ジュンくん。ぼくは彼女と結婚しないって、言っちゃったね。あの子も、他に好きな人がいるみたいで乗り気じゃなかったし、無理矢理ぼくと結婚させられるのは可哀想だね。でも、彼女の立場ではぼくとのお見合いをお断り出来ないからね。だからぼくが言ったね。そうしたら…………あはは、思いっきりぶたれちゃったね」
そうやって全く笑っていない声と瞳で笑うおひいさん。
「この結婚で幸せになれるのはお互いの家だけ。当の本人であるぼくたちにはそれぞれ他に好きな相手がいる。なんて悲劇なんだろうね、不毛だね。でも、ぼくが巴の次男坊である限りはそのお見合いを受け入れてそのままアイドルを引退して結婚、事業を継ぐのが正解だったね。……だから、ぶたれた。今まで、アイドル活動をさせてもらってる恩があるから、巴の人間として出来る限り還元して来たつもりだったけど、それももう全部おしまいだね。実質、勘当されちゃったからね。もう二度と、実家には帰れないね。ちょっと寂しいけど、それがぼくの選んだ道だから仕方がないね」
家族との大きな溝を作ってしまった、その事実に思わず口を出そうとするも、おひいさんはオレの唇へ人差し指を当ててそれを制してきた。
「でもね、これだけは勘違いしてほしくないんだけど、ぼくは後悔はしてないね。もう家族に会えないのは寂しいけどね、それよりも、ジュンくんと離れ離れになる方が、今のぼくにはずっと辛いことだったね。こうして今日から、ぼくはただの巴日和。もう実家の力は頼れない、ただの巴日和だね。だから……」
――――ぼくを一人にしないでね、ジュンくん。
そうしてにっこりと笑ったおひいさんの瞳から一筋の涙が流れた。その姿がどうしようもないくらい痛々しく見えて、気が付いたら両腕でしっかりと抱きしめていた。
「……っ、オレが、あんたのことを絶対幸せにするんで!いつか今日のことを、あの時オレを選んでよかったって!心から思ってもらえるようなオレになるんで!だから、――――……」
そうして、今夜は二人仲良く同じベッドで眠った。暫く泣き続けたおひいさんを抱きしめて、優しく背中を摩りながら。暫くして穏やかな寝息が聞こえてきた時、まだ痛々しい頬に胸が痛んだけど、それと同時にオレの服をぎゅっと掴んで眠るその姿が愛おしくて、眠る彼の唇へ一度優しく口付けを送った。