🌊☀️002 今日は朝から今年一の冷え込みだったというニュースが聞こえてくる。毎日暖かい暖房が入っている寮や玲明学園で過ごすだけならそう気にする必要もないが、今日は昼前からEveとしての番組収録や雑誌の取材の予定が入っていた。
確かに、移動のためにと寮から車へのたったの数分でおひいさんは黙り込んでしまっていたな……と思い出す。
そんなおひいさんも今は入浴中ですっかりご機嫌なようだ。風呂場から機嫌の良さそうな鼻歌まで聞こえてくる。
「ただの鼻歌でも思わず聞きいっちまうんだから、ずりぃ……」
誰を意識したものでもない、ただの気まぐれで紡がれる歌でさえもつい耳を傾けてしまう。
今日は仕事終わりに茨によっておひいさんだけが呼び出された結果、珍しく一番風呂をいただいちまったんですよねぇ〜。その上、こんなに綺麗な鼻歌が聞こえてくるってんだから、上手くて腹が立つよりも、こっちまで機嫌が良くなってくるってもんですよぉ〜。入浴であたたまった身体が覚える眠気に心地良さを感じながらソファで微睡む。
そんな幸せな時間はほんの5分ほどしかなかったように思えた。そう、突然大きな声が聞こえてきたからだ。
「ジュンくん!ぼくが何度も呼んだのに全然来なかったよね?寝るならベッドに行ってほしいね!こんな所で眠って風邪でも引いたら、同じユニットのぼくが困るよね!」
「……ん、あ」
そう惚けたような声を出しながら重い瞼を持ち上げると、目の前で仁王立ちになりこちらを見下ろすおひいさんの姿があった。
「もう!寝惚けすぎだね!ほらジュンくん!ベッドで眠ろうね!……重い!早く立って!」
腕を掴んで引っ張り上げようとするも完全に弛緩している身体をあのおひいさんが持ち上げられるのだろうか……そうぼんやりと眺めていれば案の定諦めパッと勢い良く離された腕が下へと落ちる。
そうしてようやく少しだけ覚めた頭で、風呂上がりのあたたかなおひいさんの手やセットしておらず自然な髪がまだ濡れている様子に口を開いた。
「おひいさんこそ、風呂上がったばっかなんでしょ?さっさと髪乾かして来てくださいよぉ〜。毎日綺麗にケアしてんだから、傷んだら大変でしょうよ」
「もう!それは分かってるね!ジュンくんが呼んでも来ないから、わざわざぼくがここに来たんだよね!」
何か用があったのか。そう考えれば首を傾げて問い掛ける。
「……ん?なんかあったんすか?」
「ヘアオイルをつけてもらおうと思ったから呼んだんだよね。起きたならつけてほしいね」
ほらこれ、と差し出されるそれは最近おひいさんが気に入っているヘアオイルだ。どうやら香りが好みらしい。確かに、甘い花のような香りで、それでいて甘ったるい程ではないフレッシュさも兼ね備えた太陽の下で明るく綺麗に咲いている花束のような匂い。
「……ああ、おひいさんの匂いの」
そうして、眠気により回らない頭のせいで口に出してしまった言葉に、目の前のおひいさんは首を傾げていた。
「ぼくが使ってるんだから、ぼくからこの匂いがするのは当然だよね?」
「良い匂いっすよねぇ。ほら、髪につけますよぉ〜。座ってください」
差し出されていたオイルの容器を受け取れば自身の脚の間を示す。そうすればおひいさんはオレの脚の間へ、ソファの前のラグに腰を下ろして座るのだ。それが毎日のルーティン。
「うんうん、ジュンくんもこの香りが好きだろうからね。こうして香りを楽しむ時間を作ってあげようね」
聞こえてくる声にはいはいと軽く返事を返しながら掌にオイルを垂らす。適量取ったそれを軽く体温で温めた後、ゆっくりと毛先から馴染ませていく。
普段から綺麗にケアをしており指通りの良いおひいさんの細く柔らかい髪が花束の香りを纏っていく。ふわりと広がるその香りに自然と頬を緩ませながら優しく髪へと触れれば、あっという間にこの時間は終わりだ。
「……はい、終わりましたよぉ」
そう声を掛ければ、満足そうな顔をしておひいさんは洗面所へと帰っていく。ようやく髪を乾かし始めるのだろう。
流石にベッドへと潜り込まないと次は眠ってしまいそうだ。
軽く手に残ったオイルをついでと言わんばかりに自分の髪へも纏わせていく。そうしてソファから立ち上がり歩き出せば、何だか近くにおひいさんがいるような感覚がして不思議な心地だった。
小さな音量でついていたテレビを消して、二段ベッドの上段へと上がる。寝る前に少しスマホに来ているかもしれない連絡を確認すれば、茨からの業務連絡のみだった。手短に確認の旨を伝えてからすぐにスマホの画面を落として布団の中に入り込んだ。
おひいさんより先だったといっても、まだ暖かい身体が冷たい布団の中をすぐに暖めていく。段々暖かくなり、柔らかな寝具に包まれる感覚に眠気はどんどん強くなってそうして、このまま眠りに……落ちていけると思ったんですけどねぇ……そんなオレの眠気は、両腕で大事そうに枕を抱え二段ベッドの柵越しにこちらを見つめて声を掛けてくるおひいさんの言葉によってその場で足踏みをさせられた。
「……ジュンくん。今日は一緒に寝ても良い?」
なぜ。それが最初に浮かんだ言葉だった。おひいさんはいつも行動が急すぎる。それに予測も不可能だ。
「……狭いんで無理です」
そう、このベッドは一人用だ。二段ベッドなどに男が二人で眠れるわけがない。だが、オレのそんな言葉を大人しく聞くおひいさんではなかった。
「ジュンくんが端で眠れば良いよね?」
そう、このベッドでの主役はおひいさんらしい。上段はオレのベッド……そう呟く元気もなく、枕を片手に早々に上がってきたおひいさんに押されるようにして壁際へと追い詰められる。先程までオレが寝ていた、暖めていた場所にはおひいさんが収まった。
「……あたたかいね、ジュンくん」
「……オレはあんたに追い出されたんで寒いんですけどねぇ〜」
不満げな表情でそう呟けば、目の前にいるおひいさんは小さな声で囁いた。
「ジュンくんの体温だから、少しだけドキドキするね」
一瞬、どきりしてしてしまった。不覚だ。おひいさんは我儘を言っている自覚がある時こそ、こんなことを言うから怒るに怒れなくなってしまう。
「……そう、すか。風邪引かないようにしてくださいよ」
そう言ってしっかりと掛け布団をおひいさんの身体にも掛けてやる。少しだけ身体を寄せれば布団の中は互いの体温ですぐに暖かくなる。その瞬間、ふわりと花束の香りがした。
ほんの少しだけ冷え始めていたおひいさんの足先がオレの足へと触れる。寒いのか擦り寄せてくるそれを抱き込むように脚を絡めて、片腕をおひいさんの背中に回す。そうすれば、自然と密着する身体から伝わる体温で、幾分か暖かくなるだろう。
そのまま、抗えない眠気に身を委ねるように、そのまま瞼を瞑って小さく呟いた。
「もう寝てくださいね。おやすみなさい、おひいさん」
「うん。おやすみ、ジュンくん」
小さく聞こえてきたおひいさんの声は、オレが淹れた紅茶を飲む時みたいに、あたたかくて嬉しそうな声だったような気がした。