今すぐキスして! 今ちょっといい? 時間ある? よかったら話聞いてくれない? いやいや、大丈夫大丈夫、すぐ終わるから。ほんとだって。コーヒー飲む? 飲まない? あ、そう。味に拘りあるんだ、へえ。ああ、それで、話だけど。たとえばあんたに友達が居たとしてさ――何? いや、言葉のあやだって。嫌味じゃないって、他意もないってば。で、そう、友達が居て――それで、その友達とはかなり、なんていうか、いい感じっていうか。まあ、そう。好きだなって思ってる友達って事。うんうん、いいから、はいはい、逃げない逃げない。でさ、こう、一緒にいて、あーなんか今めちゃくちゃいい雰囲気だなって。あるでしょそういうの。分かんない? あ、そう……いいけど。まあ、それで、一緒に映画とか観てさ、あれがああでこれがそうでとか話して、同じタイミングで飲み物飲んで、同じように笑ってさ、あー、今、めちゃくちゃ好きだなーって思って、言っちゃったとしてさ。何をって? 好きだ、って。ああ、うん、まあ、そう。言っちゃったんだけど。あのさぁ、ちゃんと聞いてる? 聞いてるならいいけど。それで聞こえてんの? へえ、やっぱシリオンって耳いいんだねぇ。で、うん。僕の話だけど。それで、好きって言ったら相手からも好きって返してもらった場合、これってさ……付き合ってるって事になると思う? え? いや、違うって、クズとかそういうんじゃないんだって、そうじゃなくて、なんか日常会話の延長みたいな感じで好きって返されると冗談なのか本気なのか分からないって話で……何? いや、今べつに自己紹介なんてしてないんだけど?
◇
「セスにDMで『浅羽先輩をなんとかしてくれ』と泣きつかれたよ。悠真、またいじめたのかい?」
「えっ」
悠真がいつも通り勝手知ったるとばかりにアキラの部屋のソファに転がりクッションに懐いていたところ、大暴投とも言える一球を受けて跳ね起きたのを見てアキラはきょとんと首を傾げた。瞬間、悠真の脳内はかつてない程に回転して瞬時に笑みを浮かべる。
「やっ……だなぁ、いじめてなんかないよ。ちょっと、人生相談してただけだし……まあ役に立たなかったけど……。他になんか言ってた?」
「いや? ただ、オレを巻き込まないでくれとは言ってたけど。何の話だろうね」
「へえ、あはは。変な子だねぇ、よーし今度会った時は絶対に猫まみれにしてやろう、絶対に……」
からかうのも程々にね、と苦笑いのアキラから淹れたてのコーヒーを受け取って自然に目を逸らすと、アキラはそのまま悠真の隣に腰を下ろした。先ほどアキラがコーヒーを淹れる為に立ち上がるまで、二人はこうやって並んで映画を観ていたのだから当然である。だというのに、悠真はどうにも目のやり場に困って、コーヒーを飲むフリをしながら意味もなく天井を見たり、テーブルの上にあるビデオのパッケージを見たり、それから一瞬だけアキラの方を見てすぐにまた逸らしたり、思う存分目を泳がせる事に夢中なのだった。
端的に言って、とても、すごく、かなり――たとえばちょっと生意気な後輩にどうしようもない相談をするくらい、困っている。
先週、悠真は今と同じようにこうしてアキラと二人で映画を観て、ああでもないこうでもないと感想を言い合っていた。それから同じ物を飲んで、肩を寄せ合ってくすくす笑って――楽しくて、幸せで、だから、アキラに好きだと言った。言ってしまった。悠真はアキラの事がもうずっと前から好きで、好きで好きで仕方なくて、こんな時に言うつもりなんてなかったのにあんまり好きだから、思わず口をついて出てしまった。
アキラは一瞬ぽかんと口を開けて、それから少し目を細めて、笑いながら「僕も好きだよ」と言って――実はそこから先の記憶は少し曖昧だ。気が付いたら自分の家で飼い猫の餌皿にざらざらとドライフードを溢し続けており、飼い猫はというと異様な物を見る目で尻尾を膨らませていた。家に居るという事は自分で歩いて帰ったのだと思うが、いまいち思い出せなかったのでぼんやりしながらその日はそのままベッドに入って寝て、翌朝起きた時、ドライフードが山盛りになった猫の餌皿を前に様々な意味で頭を抱えたのは記憶に新しい。
悠真はそれからずっと困っている。更に翌日どきどきしながらアキラに会う為に仕事を抜け出して(ごめん副課長)ビデオ屋まで来て、拍子抜けするくらいいつも通りのアキラに部屋まで通されて、いつも通りにゆっくり楽しく映画を観て、至っていつも通りに帰されてからはもっと困る事になった。
――これって付き合ってる? それとも冗談の延長線だっただけ? どっちなんだ!?
「……今日の映画はいまいちだったかな」
「んっ、えっ?」
突然話しかけられて、悠真は取り落としそうになったマグカップを慌てて持ち直した。
「あんまり集中できてないみたいだったから……今も。悠真、もしかして体調が悪いのを隠していたり」
「あー、いや、大丈夫、本当に! すごく元気だよ」
悠真の顔色をよく見ようと、アキラが隣から身を乗り出してぐっと顔を近付けてくる。今までそんな所気にもした事がなかったのに、今日に限ってそのやわそうな唇だとか、シャツの襟ぐりから見える素肌だとか、細い指が悠真の太ももに添えられるのを直視できなくて悠真は今にも叫び出しそうだった。
――誰でもいいから、助けて!
そんな事は知る由もないアキラに内心歯噛みしつつ、悠真はマグカップをテーブルに置くついでにアキラからほんの少し、本当に気持ち程度だけ距離を取った。複雑な男心として、けして離れたい訳ではないのがややこしいところなのだった。
「本当に、大丈夫だよ。気が散ってたのは……まあ、そうだけど。映画はなかなか面白かったよね、タイトルはちょーっと直接的すぎるけど、それはそれでいかにもラブコメっぽくて悪くないと思うし」
「ああ、それは確かに。『今すぐキスして』なんて、今日日リンが読んでる漫画にだってそう出てこないかもしれない……」
「……」
アキラの口から出た『今すぐキスして』に、思わずごく、と唾を飲み込んだ。いやいや思春期の中学生じゃあるまいし……と思いながらもちらちらとアキラの唇を気にしてしまい、しかも先程からずっとアキラの手は悠真の太ももの上にあり、アキラが喋る度にさわさわ動いて擽ったい。悠真はいよいよ、己の頭が爆発するのではないかと不安になった。これで――そういえば今の僕たちって付き合ってるんだっけ?――などと聞ける人間が居るなら是非教えてほしい。
脳内で想像上の生意気なシリオンの後輩が現れて、「そんなに気になるならさっさと確認した方がいいんじゃないですか」と宣うのを悠真はすぐに追い払った。いつだって外野はこちらの事情も知らず好き勝手に言うものである。
「僕は、あのシーンが好きだったかな。ほら、ヒロインが……」
アキラが映画のワンシーンを語りながらリモコンを手に取って、ビデオをきゅるきゅると巻き戻し始める。そのまま悠真に寄り掛かってこてんと頭を肩に預けてくるものだから、悠真の心臓はどこぞのオーケストラのようにうるさい程脈打った。
「主人公が窮地に陥って、もうどうしようもなくなった時に」
もはやぴくりとも動けなくなった悠真に構わず、そんな筈はないと分かっているのにアキラがまるで焦らすようにぽつぽつと続ける。アキラの手が悠真の太ももを優しく撫でて、悠真はもしかしたら今新しい地獄に居るのかもしれないと思った。
「そっと寄り添って、それから……」
映画のシーンを再現するかのように、ふ、とアキラの吐息が悠真の耳朶を擽った瞬間、悠真はぷつんと何かが切れる音を聞いた。勢いのままにアキラをソファに押し倒して、僅かに見開かれた緑の瞳と目が合う。
「あのっ、さぁ! ……アキラくん、その、つかぬ事をお伺いしますが」
「えっ、うん。どうして敬語に」
あまりにも状況と不釣り合いな悠真の堅苦しい言葉遣いに、アキラは抵抗の一つもせず悠真を見上げたままぱちぱちと数度瞬きをした。仮にも男に押し倒されてその反応でいいのか、危機感はどこにやってしまったのか、そんなのでちゃんと生きていけるのか、それ他の奴にもやってないよな等と悠真は無性に心とは別の所がイライラしそうになったけれど、なんとか喉奥から声を絞り出す。
「僕たちって、もしかして、付き合って……る?」
「……」
一拍の後、アキラの顔色が瞬時に曇り深刻な面持ちになったのを見て悠真はすぐに全てを理解し、そして史上最大級の失言を自覚した。
「えっと、悠真、ごめん、それは……もしかして、勘違いするなよとかそういう……?」
「あーごめんごめんごめんごめんなさい間違えました違う違う訂正させて僕はあんたの事が大好きだし愛してるから本当に一生離さないし逃がさないから」
「えっ」
青くなったり赤くなったり目まぐるしいアキラの顔色に申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、悠真はいかにこの一週間を苦悩と共に過ごしていたのか、誠心誠意、たまに誇張しつつ訥々とアキラに話し聞かせて、ようやく最後にアキラはほっと力を抜いて笑ってくれたのだった。
「なんだ、そういう事か。本当に驚いた……悠真、お願いだからそういう事はもっと早く聞いてくれ」
「いや、ごめん……だけどあんただって、ちっともそんな感じじゃなかったからさ。いつも通りにしか見えなかったんだよ」
もしもアキラがもっと悠真に対してそれっぽい素振りを見せてくれていたら、悠真だってここまでややこしい遠回りをしなかった筈である。という悠真の主張に、アキラは困った風に苦笑して、未だアキラの上を陣取ったままの悠真に手を伸ばした。
「そんなに突然対応が変わったら変だろう」
「そ……う、かな」
「それに、実の所……僕は今日かなり浮かれていた」
「えっ。……どの辺りが?」
聞き返しながら、アキラの指先が悠真の頬を滑って顎から首筋をなぞっていくのに、悠真はそこでやっと今二人がどんな体勢であったのかを思い出してまたしても心臓がばくばくと走り始めるのを感じた。勢いのまま押し倒してしまった上にあんまり必死で弁明をしていたから、こうして冷静になるととんでもない事をしでかしている気がしてくる。いや、実際とんでもない事をしている。あれ、これって、まずいのでは?
「普段は見ないような、いかにもな恋愛映画をあえて選んでしまったし」
――ああ、あれってそういう事だったのか。
悠真がそう思ったのを見透かしたみたいにアキラが小さく笑う。
「なのに悠真はずっと上の空で、挙句に僕たちって付き合ってる? なんて言うから、危うく僕は今日の記憶が消えるまで壁に頭を打ち付ける所だった」
「ご、ごめんね」
「本当に悪いと思っているのかい」
「僕が悪かったです許してください」
「どうしようかな……」
どこか楽しげに考え込むアキラに、ひとまずこの体勢をどうにかする為に悠真が身体をずらそうとすると、それを引き留めるようにアキラの腕が悠真の首にするりと回された。
「悠真は、どうしたらいいと思う?」
振り解こうと思えば振り解ける程のささやかな力で顔を引き寄せられて、お互いの息遣いが分かるくらいの近さでアキラと目が合う。もしかしたら悠真の心臓がどかどかと音を立てているのも、アキラに聞こえているのかもしれなかった。
「どっ……、どうって」
「ん?」
「どうしよう、かなー、なんて……」
悠真は急に、今組み敷いているこの男と自分は付き合っているのだ、と今更実感して、ごくんと生唾を飲み込んだ。じりじり燻るような熱が腹の奥に溜まって、手のひらにじっとりと汗をかいている気がする。
――恋人って、どこまでやっていいんだっけ?
悠真のかわいい恋人がかわいい顔で、本当に?、と溶けそうなくらい甘く囁く。
「悠真、僕が今何をしたいと思ってるのか……本当に分からないのかい?」
ちょん、と細い指先が悠真の唇に触れて、悠真はとうとう、本能に追い立てられるようにアキラの唇に喰らい付いた。いかにもな恋愛映画のタイトルが、たまには真実を謳う時があったっていい。
了