イロヅクセカイ すきなひとに
好きだと気付いてしまった人に
意識を向けてもらうには
どうしたら
なにをしたらいいんだろう?
*:*:*:*:*
師のお世話を任せてもらえることになって、数日が経った。
日々の日課は洛冰河にとって何ら難しいものではなかったが、気だけは使う。とにかくすり減るほど使ってしまう。
無意識のうちに師の動きを目で追っているから、師が次に何をしようとしているのかは予測がつく。察して動けば、それが大した事でなくとも、師は穏やかに褒めてくれる。
そなたは本当によく気が付くな
察しの良いことだ、ありがたい
そう気を張らずともよいのだぞ
先は長いのだから、ゆっくりと身につければよい
そんな風に声をかけて、時には頭を撫でてさえくれる。
それまで、洛冰河にそんな温かい言葉をかけてくれた人は義母だけだった。義母を亡くしてからカラカラに乾いて縮こまってしまっていた心に、師の言葉が、その柔らかな表情が、滔々と沁み入ってくる。
甘露の如きその潤いは、洛冰河の中に芽吹いた『望み』を急速に覚醒させていった。貧しくとも正しくあれ、虐げられても善良であれ、多くを求めず与えられた場所ではみ出すことなく生きてゆけ、との義母の教えを・・・小さく纏まろうとも平穏な幸せをと願われた平凡な枷を、内側から押し開く勢いで。
けれど
たびたび洛冰河を有頂天にさせる師の言葉が、髪へと伸びるその掌が、師自身にとって大した自覚も無いものだと洛冰河が気付いてしまうのに、そう時間はかからなかった。
師に、他意は無い。
師は、気付いた事を惜しむことなく口にできる方なのだ。
それは褒めて伸ばすという教育方針に於いては、推奨すべき行為であるけれど、洛冰河個人が望むかたちとしてはまったく物足りないものだった。
もっと、自分を見て欲しい
もっと、いろんなことに気付いて欲しい
他の弟子達よりも、師叔たちや師伯、今までに師が出会ってきたすべての・・・この世の誰よりも、自分を意識して特別に思って欲しい
そんな想いを常に抱きながら当の師の傍らで仕える日々は、自分でも制御のできない気持ちの乱高下に振り回されながら、すました顔で卒無く振る舞わねばならない試練の日々でもあった。
当然、自室に退がった後も落ち着くことのできない気持ちを抱えたままであり、眠るからといってそうそう上手く気分を切り替えられるものでもない。
「そんなことならば簡単じゃ」
気付けばそこは夢境で、待ち構えていた夢魔はにやにやとした気配を隠すことなく、洛冰河の思考を読んだような事を言ってくる。
「夢魔先輩はずいぶんとおヒマなようですね」
興味なさげに、できるだけ素っ気なく答えた洛冰河だが、相手は構うこと無く話を続ける。
「なぁに、相手の関心を引くことなど造作もない。人心掌握術の初歩も初歩よ。ワシがおぬしに伝授してやろうという事柄の本筋でもあるからよく聞いておくがよいぞ」
ただの野次馬根性なんじゃ?
少し疑いながらも、講義だと言われてしまえば聞かざるを得ない。洛冰河は素直に、その場でちょこんと正座をした。
「人心掌握術とは、他人を惹きつけ、その心を自分の意のままに操る技術じゃ。具体的には、相手の心に寄り添い、信頼関係を築くことで、最終的に相手が自ら進んで行動するよう仕向けることが可能となる」
洛冰河の夢境に寄生し始めてからまだ数日程度の短期間だが、当初は黒い霧のような姿でしかなかった夢魔は、洛冰河という逸材の中で英気を養ったことで、早くも元神を安定させることに成功していた。まだぼんやりとしてはいるが、すでに天劫によって実体を失う以前の老齢の魔族の姿をとれるまでになっている。
満足げに己の白い髭を梳きながら、夢魔は話を続けた。
「まずは、無害で誠実な人となりを装い、相手の信頼を得ておくこと。これはできておるな」
「誰に対してできていると思っているんです?」
「最後まで話を聞け。次に、相手の望むことを把握し、その実現を手助けする。または手助けしてくれると思い込ませる。この、相手が寄せる信頼と協力の期待をくすぐることで、相手をこちらの思い通りに動かすことができるようになる」
「手助け、ですか」
少し興味を惹かれたような洛冰河の態度に満足した夢魔は、そう手助けじゃ と深く頷く。
「手助けには、大きく分けて二通りの道がある。まず一つ目は、相手が元々持っている望みを叶える手助け。富・色・虚栄心など欲の部分をくすぐる方法じゃ。そして二つ目は、相手に恐怖心を植え付けた上でそれを救う、または救うふりをするという手助け。怖がらせて縋らせる方法じゃ」
じゃが・・・と言いながら、夢魔は洛冰河を眺める。
「二つ目の方法は、今のおぬしでは厳しかろう。まだまだ子どものおぬしに大の大人が恐怖から縋るなど考えづらいし、不自然すぎる筋書きでは警戒されかねん」
「・・・いったい誰を想定して言っているんです?」
まだまだ幼く可愛らしい面差しを残している割に、“先輩”と呼ぶ相手に対して堂々と胡乱な目を向けてくる“後輩”へ、夢魔は大袈裟に肩を竦めてみせる。
誰などと、わざわざ考えずとも初日の態度だけで大バレではないか。年寄りを甘く見るでないわ。
「というわけで、今のおぬしにとれるのは、一つ目の相手の望みをくすぐる方法じゃ。色事であれば、なお手っ取り早く簡単じゃ」
ですから、誰の・・・と言いかけて、洛冰河はハッとする。
「もしや先輩には、その方の望みと手助けの方法までが見えているのですか?」
当たり前よ。ワシを誰だと思っておる と、得意げに顎を上げる夢魔に、思わず洛冰河は腰を浮かせて懇願する。
「それは・・・それはどのような方法なのですか!?」
そう、こういうの待ってた! と、夢魔も内心踊り出さんばかりに大喜びである。この素質には溢れていても、妙に弁が立ち小生意気な“後輩”から、目を輝かせて「教えて教えて!」って嘆願される構図、ずっと待っていたんじゃ!
「それは」
「それは?」
「それは、じゃ」
「もったいぶらずに早く教えてください」
うんうん、いいねいいね!この流れ。
普段の小生意気さはどこへやら。尻尾をぶんぶん振って待ての姿勢で耐えている子犬のような洛冰河に、夢魔は大満足である。
じゃあ、言っちゃうよ。
「このような場面こそ、夢の力が大いに役に立つ」
「夢・・・・・・具体的には」
期待に輝く洛冰河の瞳が眩しい。
よぉーし、言っちゃうぞぉ。
「淫夢を見せることじゃ」
「・・・・・・」
「淫・夢 じゃ。聞こえなかったかの?」
「・・・・・・・・・」
「思いっきり濃厚で恥知らずでイヤラシイやつをだな」
「・・・・・・・・・・・・」
シュンッ! と、洛冰河の姿が消えた。
「あああああ!」
あやつめ逃げおったかー!
夢魔は思わず地団駄を踏む。ここからが・・・ここからがイイところだと言うのに! オトナの知識と余裕を見せ付けながら迷える青少年を導き、尊敬を勝ち取る絶好の機会だったというのに!
「ぐぬぬぬ・・・意気地無しめが!」
やーいやーい、意気地無しめがーっ!
大人げなく誰も居ない虚空に向かって囃しながら、おとなしく次の晩まで待つしかない夢魔“先輩”であった。
──────────2──────────
バサァ! と上掛けを跳ね飛ばして、洛冰河は飛び起きた。
(淫夢などと、淫夢などと、淫夢などとぉおおお)
あまりに衝撃的な単語に心臓までもが跳ね上がり、動悸で苦しいくらいだ。ぜぃはぁと肩で息を整えながら、落ち着け落ち着くんだと己を叱咤するも
(い・・・淫夢?)
改めてその言葉を咀嚼してしまい、ひゃぁああああ〜と頭を抱える。
不敬不敬不敬不敬不敬!
あの爺さんめ、何てことを言うんだ。人をからかって楽しんで! 年長者の風上にも置けない!
────でも。
夢魔の言葉がよみがえる。
相手の望むことを把握し、その実現を手助けする。または手助けしてくれると思い込ませる。この、相手が寄せる信頼と協力の期待をくすぐることで、相手をこちらの思い通りに・・・・・・
(それが、い・・・淫夢だと?)
想像もつかない。
世間一般的な大人の男性像に当て嵌めて言っているだけではないだろうか。
あの師が、心のどこかにそんな望みを秘めているなんて。
あの、冷静沈着で清廉な師にそんな・・・そんな欲望が?
瞬間、洛冰河はカアッと赤面する。
(師尊は・・・師尊はそんな方では・・・・・・ッ)
────では、どんな方だと?
整えたうえで表に出している無難な顔と、心の奥底で暴れ渦巻く本音に乖離がある事くらい、今の洛冰河ならば充分すぎるほどに解っていることではないか。
でも、洛冰河自身に当て嵌めれば、元々少なからず存在していたその溝が、急激に深く大きく裂け拡がったのは、自分の師に対する一線を越えた気持ちに気付いてしまったからであり・・・・・・
(師尊にも、誰か想う相手がいる・・・とか?)
瞬間、心がスッと冷えてゆく。
焦りと、苦しさと、理不尽な怒りと、その他名前の付けられない気持ちがドロドロに溶け合って膨れ上がり、胸を真っ黒に塗り潰してゆく。
(────誰にも、盗られたくない!)
たとえ師が、誰を望もうと。
でも、でもでも・・・・自分に何ができるだろう?
自分は子どもで、まだ何をも納めていない頼りない弟子で、持ち得る物など何も無く、そのうえ男なのだ。
突き詰めれば突き詰めるほど、悲愴な絶望感が押し寄せて来る。
せめて女子であれば、将来に望みを託すこともできようが。
可愛らしく、魅惑的な女子であれば────・・・・・・
「・・・・・・そこ・・・だ・・・」
ふと、何かに思い当たったように感じた。
師は時折、じっと洛冰河の顔を見つめていることがある。
それは決して長い時間ではないし、洛冰河が気付くとすぐに目を反らしてしまうけれど。
もしかして。
もしかしたら、だけど。
(師尊は私の顔がお嫌いでは・・・ない?)
否、うぬぼれでなければ、だいぶ気に入ってくださっている・・・ような・・・・・・?
他に根拠を挙げるとすれば、とにかくその回数が多いのだ。かなり頻繁だと言ってもいい。
だとしたら。
可愛い、と。
誰よりも可愛いと、まずはそう思っていただけたら。
この年齢差で、落ち着いた大人である師尊の目から、漢らしいとかカッコいいとかそういう方面に見てもらうのには甚だ無理があるとしても。
弟子の中で一番可愛いと、そう思っていただく事を目標に動いてみることならば、出来無くはない筈。
『一番可愛い』から『誰よりも大切』になっていければ。
あの方にとって『決して手放せない存在』に、いつしかなれたなら。
────それはどんなに幸せなことだろう。
その日、一日中ソワソワと落ち着かない気持ちを持て余していた洛冰河は、師の膳を運ぶ際に汁物を少しお盆に零して青くなって謝ったり、それを師に笑われて赤くなってしまったりと、賑やかに過ごした。
そしてその晩、夢境に夢魔が現れると、単刀直入に聞きたいことを切り出した。
「あの師に想い人じゃと? 今のところおらんだろう」
「本当ですか! 何故わかるんです?」
食い入るように尋ねてくる洛冰河に、そんなこと・・・・と、夢魔は呆れた表情を返す。
あの師の傍にピッタリと貼り付き、看守のようにその一挙一動を注視しているおぬしの目を通して見ているのじゃぞ。
「あれは奥手中の奥手じゃ。仮に想い人がおったところで自覚するだけで終わるクチよ」
洛冰河はホッと胸を撫で下ろす。
で? と夢魔が問う。
「ワシとしては、あのように凡庸な人間の師など全くもってお勧めせんが、修練の一環として手を付けるには、並の人間よりは耐久性もありそうじゃし悪くはないと・・・」
何のお話ですか? と、スッと冷たく目を細めた洛冰河からの威圧に、思わずたじろぎそうになりながらも、胆力で持ち堪えて夢魔は続ける。
「淫夢の見せ方の話じゃ。淫夢であるからには最初に役回りの設定が必要じゃが、さて、おぬしは抱く方が良いか、それとも抱かれる方が良・・・・・・え、おい!おおーい」
シュンッ! と、
またしても話の途中で、洛冰河の姿が消える。
「ええぃ! 何故逃げるのじゃ、この意気地無しめぇ!」
これではまともに秘術の伝授が出来んではないか!
今日も地団駄を踏む夢魔であったが。
まぁワシの見立てでは、あの師はノンケ中のノンケじゃ。
(無理にでも抱かん限り、話は進まんじゃろうて)
そうやって抱いて、どうにも話が拗れたら────
(殺してしまえば、後腐れも無くなってスッキリじゃ)
流石は魔族である。結論の付け方が暴力的以外の何者でもない。
結局、また明日の夜まで待つしか無い夢魔であったが、その姿は昨日よりもわずかながらハッキリとした輪郭を描くようになっていた。
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バサァ!と上掛けを跳ね飛ばして、洛冰河は飛び起きた。
每日每日淫夢淫夢って、なんなんだあの助平爺さんは!
(い・・・い・・・いかがわしいことばかり言ってきて)
だ、だだだだ抱くとか抱かれるとか! 誰と誰の話・・・って、お、お、おれと、し、師尊の話
(はひゃーッ!)
動揺のあまり、変な悲鳴をあげそうになるのを必死と抑える。壁1枚隔てた向こうでは、何も知らない師が眠っているのだ。師が・・・眠って────
途端、少し寝乱れて夜着のはだけた師の姿を想像してしまう。白い寝具に広がる艷やかな黒髪、長い睫毛が頬に落とす影、薄く開いた唇、のけぞった長い首、少し身動ぎしてから寝返りを打つと更に夜着がはだけて・・・・
ゴクリと、自らの喉が鳴る音に、洛冰河はハッとする。
(不敬! 不敬不敬不敬 不敬ったら不敬!)
ブンブンと頭を左右に振って、妄想を散らそうとするが
今度は、目を醒ました師がゆっくりと起き上がり、見たこともない妖艶な微笑みを浮かべながら軽く布団を持ち上げ、洛冰河を手招くのだ。
(い、いいいいいけません! そんな・・・そんなぁ)
なんだかんだ言いながら、結局は夢魔に触発されてしまったのか、艶めいた妄想が止まらない。
誘われるがままに師に覆い被さった洛冰河の腰を、裾もはだけてしまった師の白い膝と内腿が擦りあげてくる。
────ッ
(破廉恥! 破廉恥すぎる)
妄想なのに。
ただの妄想なのに、心と身体が痺れてビクンと大きく震えがくる。甘い衝撃に真っ赤になった半泣きの顔を掌で覆いながら、洛冰河は内心で悲鳴をあげる。
だめだめだめだめだめだ! こんなの絶対にだめーっ!
ごめんなさいごめんなさい、本当にごめんなさい!
こんなことを弟子が夢想しているなんて、師尊が知ったらどう思うだろう。驚いて、それから・・・・・
軽蔑か、落胆か、憐憫か、忌避か、嫌悪か。
いずれにしろ喜びはすまい。
(・・・・・・淫夢なんて、とんでもない悪手だ)
こんな有り様ではうまくやれるとは思えず、それどころか下手を踏んで遠避けられでもしたら最悪である。
そんなわけで、やはり洛冰河は真逆の方針を採ることにした。
その意を伝えると、夢魔は非常につまらなさそうな顔をしたが、それはそれとして、有益なことも教えてくれた。
夢境術の結界の中で起こった出来事の記憶は、結界を敷いた術者であれば消すことも可能なのだ、と。
「おぬしの術の習得の早さには舌を巻くものがあるが、まだまだ完全とは言い切れん。うまくやれずとも、いくらでもやり直せると思って気軽にやってみることじゃ」
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『誰よりも可愛い』と認識されることは、相手の深層心理に潜り込むことができたのと同義だ。
『誰よりも優秀』や『誰よりも気が利く』などよりも、含まれる愛情の割合が高くなる。いずれそこから『誰よりも愛しい』に発展できるよう努力邁進する決意を固めた洛冰河だった。
さて、しかし。
相手に可愛いと思わせる見た目とはどのようなものか。
数え年で15歳という年齢は、もう何をしても可愛いというには少々育ち過ぎている。さりとて、あまり幼い姿では師の認識の中に現在の自分との乖離を生じさせてしまう危険性もある。
洛冰河には、容姿以外で他者からの好意を引き出せるような美点を、自身の中に見出すことができなかった。
本来、彼には高い学習能力と記憶力、洞察力など優れた素質が備わっていたのだが、不運な境遇からそれらを発揮する機会にも恵まれず、むしろ何も身についていないという劣等感すら抱えていた。
容姿にしたところで自身がずば抜けて美しいとの認識は無く、ただ義母や師姐に褒められたり、噂されている声が聞こえてくることで、それなりの評価に値することが分かってきたという程度だった。
なにしろ清静峰に上がる前は、水桶に映る姿くらいでしか自身の顔を知る術が無かったのだ。この時代の高級品であった銅鏡などとは無縁の暮らしぶりであったし、顔は薄汚れ、クセの強い髪は撫でつけてもすぐにボサボサに乱れてしまい、他者からは一瞥のもと避けられるといった有り様だった。
そんなわけで、洛冰河が自身の容姿について遡れるのは、昇山した10歳頃くらいまでだが、
果たして────
(10歳は、かわいいだろうか?)
正直言ってわからない。
では、寧師姐は?
例の穴掘りを行う入山試練の時、歳の近い寧嬰嬰は師にべったりと甘え、師もそれを許していた。恐らく、可愛かったのだろう。あれから数年が経ち、今はもう、師は唯一の女弟子にばかり目をかけることもなくなっていた。
(あの頃の寧師姐はどんな少女だっただろうか)
明るく、無邪気で、物怖じせず、愛されているという自信に満ちていたように思う。
当時の彼女は、洛冰河にとって羨望の対象だった。
なんとなく
方向性が見えてきたように思えた。
*:*:*:*:*
その晩、沈清秋は夢をみた。
無彩色のぼんやりとした風景の中、大きな柱の影から誰かがこちらの様子を窺っている。
(え、何? 誰? コワイんですけど)
そう思ったのも束の間、その人影が意外に小さいことに気付いた。
おどおどと、柱から顔を覗かせたり引っこめたりと落ち着かない様子でいるその子どもは────
「おや、冰河?」
(ん? ずいぶんと小さいな)
どうしたのだ? と手をのべた途端、真っ赤な顔になってくるりと背を向けると、弟子はたったかたったかと逃げて行ってしまった。
(え、なにそれ)
知らないおじさんに声をかけられたかのようなその反応。
ちょっと傷つくなぁ・・・・・・という思いをうっすらと残しながら、沈清秋は目を覚ました。
夢など得てして不可解なものだ。
その日は何の疑念を抱くこともなく、沈清秋は朝を告げに来た弟子の遠慮がちな声に応えを返した。
洛冰河は気が気ではなかった。
初手から、あれは失敗だったと反省することしきりである。
明るく、朗らかに、可愛らしく「あ、師尊! こんなところで師尊にお会いできるなんて」などと言いながら駆け寄ろうと思っていたのに。師が自分に気付いたとたん、恥ずかしくなって逃げ出してしまった。
失礼だっただろうか、不快に思ってはいないだろうかと務めの合間にチラチラと師の様子を窺ってみたが、夢のことなど気にしている様子もなく、師はいつも通り朝餉の膳を前に居住まいを正すと、白粥に一粒添えた赤いクコの実に目を落とし、ふわりとした笑みを浮かべた。
*:*:*:*:*
次の晩も、沈清秋は洛冰河が出てくる夢を見た。
昨晩と同じように彩りに欠けるぼんやりとした景色の中、大きな柱に凭れるように背を預けた弟子が、もじもじと下を向いたりちらりと顔を上げたりしながらこちらの様子を窺っている。
今日もやはり、なんだかいつもよりも幼い。
「どうした、冰河? そんなところで何をしているのだ?」と声をかけると、弟子は耳を赤くしながら叱られた子どものようにこわごわと近寄ってきた。
「師尊・・・こんばんは」と小さな声で挨拶してくるので、思わず笑いながら膝を折り、目線が合う高さで「こんばんは、冰河」と挨拶を返すと、弟子はますます真っ赤になって俯いてしまった。
「どうしたどうした? 小さい冰河は恥ずかしがり屋さんだなぁ」と苦笑すると、顔をあげた洛冰河とぴったりと目が合った。途端、
「ごめんなさい。もぅ無理です」と言うが早く、くるりと踵を返すと、洛冰河はまたしてもたったか走って逃げて行った。
え、えーと? と、取り残されたまま目を丸くしている沈清秋の方を、離れた場所から一度だけ振り返ると、洛冰河は「またきます! こんどはちゃんとします!」と叫んで、柱の向こうへ消えていった。
無彩色の景色の中で、子どもの髪を束ねたその紐の赤さだけが、何故だかとても印象に残った。
「おぬし、一体何をやっているのだ?」
わざわざ夢魔から呆れた声で指摘されずとも
「先輩は黙っててください!」
洛冰河本人が一番、この体たらくに頭を抱えているのだ。
本当に、どうしようもなく上手くいかない。
現実世界よりも少し小さく可愛らしい姿を每日每日每日見せて、近付いて甘えてを繰り返すことで、師の中に
(何故こんなにも每日あの弟子の夢ばかり見るのだろう?)
(もしや私は自分でも気付かないうちに洛冰河のことを!)
という思いが浮かぶようになる・・・そんな展開を狙っているのだが。
困ったことに、師は子どもに対して予想以上に甘く優しげなのだ。師に良い印象を植え付けようという洛冰河の思惑を上回る、意外な近さと朗らかさで接してくれる沈清秋に、今のところ洛冰河は成す術を持たず、途方に暮れるばかりなのだ。
「まったく、何のために姿を変えているのやら。普段とは違う一面を見せ付けるための演出じゃろうが」
せっかくの仕掛けもうまく使いこなせぬようでは意味がなかろうと夢魔は説教を重ねる。何度も言うが、失敗した時には相手の記憶を消してまたやり直せばいいのじゃ、と。
それはそうなのだろうが、できればそんなことはしたくない。
洛冰河にとって、師は神聖侵さざるべき存在だった。
本来であればこのような稚拙な夢境に引き込むべき相手ではないのだ。
そんな後ろめたさを抱えながらも、やはり恋というものは正常な判断を鈍らせる魔物であり、更に初恋となれば、経験値の無い素人を急襲し、翻弄する厄介な代物だった。
──────────5──────────
「阿洛、何か悩み事でもあるの?」
剣の修練を終えて汗を拭いていた洛冰河に、腕いっぱいに菖蒲を抱えて通りかかった姉弟子が声をかけてきた。
背後から明帆の視線を感じながら、洛冰河は、特には何もと無難に答える。
「そう? ならいいけれど、師尊が心配なさってたわよ」
師尊と聞いて、どきりと心臓が跳ね上がる。
「動きにいつものキレが無いし、よく眠れていないんじゃないかって」
「そ・・・そうでしょうか?」
「師尊がそう仰るなら、そうなんじゃないの?」
くすりと笑うと寧嬰嬰は、「阿洛はいつも師尊と聞くと動揺するのね」と、からかうように言った。
そんなことは・・・と返していると、明帆が「師妹、重そうだな。手伝おう」と割って入ってきた。嬰嬰はにっこり笑って「まぁ師兄、ありがとう」と言いながら菖蒲の束をすべて明帆に渡すと、その中から花のついた1本を引き抜き、洛冰河に差し出した。
「師尊が、眠る時にこの花を枕元に生けておきなさいって」
「師尊が?」と洛冰河が聞き返すと、「ええ、師尊が」と嬰嬰はにこにこと答える。
「魔除けですって」との言葉に更にどきりとするが、苛立った様子の明帆に「端午節の行事だろう。特別扱いされたような顔をするな」と言われ、ホッと胸を撫で下ろす。
「師兄ったらそんな言い方をしないで。ほら、これは私達の分。よもぎもどっさりあるのよ」と言いながら、嬰嬰は摘んだばかりのよもぎの入った袋をわざと明帆の顔近くで広げる。強い香りに明帆が思わず「うへ」と声を漏らしながら顔をしかめるのを見てケラケラと朗らかに笑った嬰嬰は、さぁ行きましょ!と兄弟子の背を押すと、洛冰河に向かって手を振った。
「竹舎にも置いてあるから、師尊にもよもぎ餅を作って差し上げてね」
コクリと頷く師弟に微笑むと「あ、菖蒲湯もね」と付け足して、嬰嬰は明帆と賑やかに話しながら宿舎の方へと戻って行った。
「・・・・・・菖蒲湯・・・」
先だって目にした、師の湯浴みの際の姿を脳裏に浮かべてしまい、洛冰河はカッと頬を赤らめる。それを隠すように少し俯いた顔に、しっとりとした菖蒲の花びらが触れる。
花全体を彩るキリリと凛々しい禁欲的な濃紫と、その中心から入るくっきりと明るい黄色の筋、剣のように鋭く尖った葉と茎の緑、少し赤みのある基部。そのどれもが鮮やかで美しく、スッキリと背筋の伸びた佇まいは師を思わせた。
ひとつの花をこんなにじっくりと目に焼き付けたのは初めてのことかもしれない。
(この花が、いつまでも枯れなければいいのに・・・・・・)
そんなことを思いながら、その菖蒲を両手で柔らかく抱きかかえて、洛冰河もまた竹舎へと戻って行った。
菖蒲の香りには疲労回復やリラックス効果があるという。
その夜。
伝えられたとおり枕元にその花を生けたためか、これまでよりは落ち着いた穏やかな気分で、洛冰河は夢境に踏み入った。
招き入れた師は、少し驚いたように辺りを見回していた。
「師尊、こんばんは!」
やっと、駆け寄って挨拶ができた。
「こんばんは、冰河」
(今日もやっぱり小さいな)
普段よりも低い位置にある弟子の目線に合わせて、沈清秋は腰を屈める。近付いた顔に、恥ずかしそうに目を伏せながらも、小さい洛冰河は口許を緩ませて初めて笑みを見せた。
(おやおや、可愛いじゃないか)
やっとまともに話ができそうで、沈清秋は密かにホッとする。
今日で三晩目だ。そろそろ毎晩夢境に呼ばれる理由も、決まって少し幼い姿で現れる訳も、洛冰河に訊いておきたいところだった。
しかし、いきなり話を切り出しても、きちんと打ち明けてはもらえない気がする。
ここは少し無難な話でもして、気持ちをほぐしてからが得策だろうと考えた沈清秋は、今日の出来事を振り返った。
「よもぎ餅をありがとう。寝る前にいただいた」
掌門師兄から呼び出され、清静峰主として急遽出かけることになったのは昼過ぎのこと。
安定峰が端午節の行事のために麓の村から一括して調達してきた菖蒲とよもぎが清静峰の竹舎にも届けられていたため、その時間には比較的手が空いているだろう寧嬰嬰を呼び出し、弟子達の分を宿舎に持っていくよう頼みがてら一緒に竹舎を出た。
男弟子達が剣術の修練を行っている広場の横を通り過ぎた時、洛冰河の姿が目に入った。
珍しく物思いに耽り、稽古に身が入っていないように見受けられた。その顔色にも少し影が差しており、疲れているようにも見えた。夢魔からの指導についてはシナリオ上外すことはできないが、勤勉な気質ゆえ根を詰め過ぎているのかもしれない。
嬰嬰に、菖蒲の中から花のついているものを選んで師弟に渡してやって欲しいと頼んだ。
夢魔に対して魔除けの効果など無いことは承知の上だったが、せめて弟子の肩の力を抜くことができればという意図からだった。
帰宅は陽が落ちてからとなり、明日も早くから出掛ける用事が出来てしまった沈清秋は、早めに就寝するゆえ夕餉は不要と弟子に伝えた。支度してもらった菖蒲湯に身を浸しながら、掌門が各峰主に伝えた内容を頭の中で再確認していたら、少し長風呂になってしまった。
脳の疲労を感じながら夜着を纏って部屋に戻ると、卓の上に埃除けの布を被せた盆が置かれていた。布を捲ると、茶の支度と小さめの皿の上にこれまた小さく丸めたよもぎ餅が三つ。それから短い書付が置かれていた。
『よもぎ餅を作りましたので、お夜食に如何でしょうか? 不要でしたら明日の朝お下げ致します』といった内容だった。
竹舎での洛冰河の務めは、風呂の支度を整えるまでとしていたので、すでに弟子は下がった後だった。
「お味はいかがでしたか?」
眼の前の小さな洛冰河が尋ねてくる。
「品の良い甘さでとても美味だった。食べられる量を加減できるように、小さく分けて作ってくれたのも有り難かった」
結局、全部いただいてしまったがな と言って笑うと、洛冰河も照れたように笑った。
「ところで、あの書付もそなたが書いてくれたものと思うが、少し気になる点があってな」
「どのようなところでしょうか。字がお見苦しかったでしょうか?」
字というよりも・・・と少し言い淀んでから、沈清秋はこれも師の務めと決意し、正直なところを伝える。
「文法におかしな部分が見受けられるな」
途端、弟子の幼い顔がスッと青褪める。
ああ、やっぱりか・・・と沈清秋は思う。
昇山するまでの洛冰河は、読み書きをまともに学べるような境遇ではなかった。昇山してからも、兄弟子たちからいいように雑用に使われ、教本もろくに与えられず、清静峰の弟子として以前に、その年齢をして当然身についているべき教養が、実は穴だらけの状態だったのだ。
ここにきて環境は一気に改善したかのように見えたし、努力家のうえに元々の能力も高い洛冰河は、まともな修練の輪に入れるようになってからは目を見張るスピードで様々な事柄を吸収していった。表面上は非常に卒なく、誰にもその事に思い至らせることなく振る舞っていたため、沈清秋でさえその事実を失念していた。だが、その裏で洛冰河本人は自身に何が欠けているかもハッキリとわからないまま藻掻いている状態だったのだ。
「師尊・・・この弟子は・・・・・・」
青褪め硬くなった表情のまま、小さな身体を更に縮こめた洛冰河が、声を震わせる。
呆れられてしまった?
見込み違いだったとがっかりされてしまった?
もうお傍には置いていただけなくなってしまうのだろうか。そんな・・・そんな・・・・・・
(浮かれていて、恥ずかしい)
そうだった。
自分など、師尊に目をかけていただく何をも持ち得ていないくせに。こんな夢境なんて作って、師尊に気持ちを向けてもらおうと小賢しいことを仕掛けたりして
(もう、消えてなくなりたい・・・・・・)
鼻の奥がツンと痛み、目頭が熱くなっていく。
「このままでは、清静峰の弟子としてどこにも出すことが出来ぬなぁ」
頭上からゆっくりと降りる師の声は、憐憫の色を帯びていた。
嗚呼・・・やっぱり と、洛冰河は更に縮こまる。
胸が重く塞がれて、息ができなくなりそうだった。
ますますと項垂れたその頭に、ふわりと大きな掌が重ねられる。
「まぁ、それもこの師の責任ゆえ」
(────え?)
髪を優しく撫でられるとは思わず、ビクリと肩を跳ねさせた弟子の様子を見て、師はクスリと笑みを漏らす。そして、幼いその面の変化を見ながら、穏やかに思うところを告げた。
「また休む時間が少なくなってはしまうが、寝る前に少し、師と手習いの時間でもとるか?」
ハッと、洛冰河が顔を上げた途端────
ゴウっといきなり風が吹いた。
強風は嵐のように洛冰河の髪を舞い踊らせ、どこから来たのかよくわからない淡桃色の小さな花びらがその周囲に渦巻いて視界を覆った。
まるで桜吹雪のようなその突風が収まると、師の姿は消えていた。
どんな表情を湛えていたのか見ることができないまま、師は、消えてしまっていた。
「ここまでじゃ」
背後から、夢魔の声がした。
「先輩の仕業ですか!」
キッと振り返り非難の声をあげる洛冰河を、夢魔は冷徹な表情で見下ろす。
「おぬしの策は失敗じゃ」
「どこがです!」
これからがやっと、やっといい流れになろうというところだったのに。
「気付かなんだか? あの師はここがただの夢ではないことに気付いておる。おぬしから招かれている事にもな」
夢で相手の深層意識を操作する場合、術者の存在を知られてはならない。術者本人がその夢に現れたとしても、介入し、操作されていると悟らせてはならない。これは基本であり、鉄則でもあった。通常、騙されたり強制されることを喜ぶ者は居ない。あくまでも、相手自身の願望であり発案であると思い込ませることこそが極意なのだ。
「やり直しじゃな。一旦あの師の夢境での記憶を消して────」
「嫌です!」
「は?」
嫌です と、洛冰河は繰り返す。
消えてしまう前の師の提案を、無かったことにしたくはなかった。
(約束に、したかったのに・・・・・・)
莫迦なことを、と夢魔は叱る。
意識操作をする際に於いて、こちらの提案を相手に呑ませることはあっても、相手の提案を受ける約束をするなどとんでもないことじゃ と。
「相手が私の望む提案をしてくれた時でも、ですか? どうして────」
「術をかける者が、逆に術を受けてどうするのじゃ!」
約束とは、契約である。
術の展開中に契約を受ける側に回った場合、持ちかけた相手の方が優位となり、その楔は想像よりも強いものとなることがほとんどなのだ。
「よいか、心せよ。あの師にはいささか腑に落ちん点がある。油断して振り回されぬようにすることじゃ」
「・・・・・・」
「わかったら、展開中のこの夢境を閉じてから、砕くがよい。さすればあの師のここでの記憶も綺麗に霧散するでな」
洛冰河は、唇を噛み締めて下を向く。
「惜しいのであれば、また一からやり直せばよいのじゃ。難しいことではない」
そもそも、これは修練の一貫なのだから と同じ言葉を再三 夢魔は繰り返す。
けれど、洛冰河にはそんなつもりはなかった。
確かに、最初からうまくいくと考えるのは甘かったかもしれないが、師を練習や実験の対象にするなどと・・・・・・
「あと一日」
「ん?」
「あと一日だけ待ってください。その後は、ちゃんと片付けます」
「約束は許さんぞ」
大丈夫です、と洛冰河は呟くように応える。
「約束はしません。少し気持ちにけじめを付けたいだけです」
未練がましいことじゃ。やり直せるのにけじめなど何の意味がある と夢魔はブツブツ言っていたが、結局は洛冰河自身が夢境に手を付けなければ修練としての意味もない。
いつでもワシが見ていることを忘れぬように と言って、夢魔は輪郭のぼやけ始めた夢境の霧の中に去って行ったのだった。
──────────6──────────
翌日の朝。
早い時間に出立するため自力で起きたものの、睡魔と闘いながらもたもたとひとりで身支度を整えようとしていた師を発見し、慌てて手伝い、送り出した洛冰河に、師のゆうべの記憶を確認する余裕は無かった。
師は今日も遅い帰りだという。
心に憂いを抱えたまま一日を過ごし、眠る前に、枕元の花の水を替えた。
夢境に入ると、洛冰河は丁寧に場を設えて、師を待った。
今日も夢境に招かれた沈清秋は、ぽつりと「・・・そうか」と呟いた。
そこには、このところと同じ少し幼い洛冰河が居たが、周囲の景色はまるで違っていた。
そこは、竹舎にある一室で、沈清秋が公務を行う際に使っている部屋だった。
沈清秋はいつも座っている場所に腰掛けており、洛冰河はその少し離れた向かい側に礼儀正しく跪いていた。
沈清秋の呟きを耳にすると、それが開始の合図であるかのように頭を下げた洛冰河は、澄んだ声で朗々と口上を述べた。
「弟子、洛冰河。師尊のお目にかかります」
けれど、その声はわずかばかり震えを帯びており、その肩も緊張に縮こまっているように見えた。
沈清秋は、この場面を知っている。
彼自身がそこに居たわけではないけれど、識っていた。
これは拝師の儀式であり、洛冰河の中にある清静峰へ入門した際の記憶の再現なのだろう。ただし、すでに現実世界でこれを経験している洛冰河には、その際に受けた手酷い心の傷が今も在るのだ。
(これ、だったのか)
沈清秋はやっと腑に落ちたように思った。
夢に招いた洛冰河に何か言いたいことがありそうなことは気付いていた。必ず少し幼い姿で現れ、何か言いたくとも言い出せない、そんな様子が気になっていた。
────想い残し。
そう、恐らくそれは想い残しだったのだ。
『沈清秋』との関係をうまく築くことができなかった最初の一歩であるこの出来事について、洛冰河はいつまでも割り切れない想いを抱えていたのだろう。
名目上は沈清秋の内弟子ということになってはいても、それは弟妹弟子を望んだ寧嬰嬰への配慮でしかなく、現実には、洛冰河は何の教えも受ける機会を与えられない下男同然の扱いだった。
関係が改善された今、彼はこの儀式をやり直したいと望んでいるのだろう。思えば確かに、この姿はそんな頃のものなのだろう。
そう、沈清秋は理解した。
沈清秋は、何故か最初から手にしていた茶杯を、脇に置いた。本来、茶杯は洛冰河から受けるべきものだった。この段階で既に『沈清秋』が手にし、呑んでいたのは、悪意の一環としか思えなかった。
(名義に入れる儀式は行うが、敢えておまえからの茶杯は受けない・・・と、そういう訳か)
はぁ・・・と沈清秋は溜息をつく。
オリジナルの『沈清秋』に対して、なんて心の狭い奴なのだ、と。
だが、その溜息を耳にした洛冰河は、ますます緊張を強めてしまったようだった。両膝に置いた手の指先には力が入り、白くなってしまっている。
これはやり直しの儀式なのだ。何も、同じやり取りをする必要は無い。
そう判断した沈清秋は、続くべき台詞を大きく変えた。
「そなたが蒼穹山派に来た理由は、恩ある母御に立派となった姿で報いるためと、私は知っている。そなたの善良さと勤勉さが、その母御の教えの賜物であることも」
ハッと洛冰河が顔を上げる。
驚きと、様々な感情が無い混ぜになった表情で、沈清秋を見つめる。
ああ、この子はなんて顔をするのだろう。
思わず胸が締め付けられるような感情を押さえて、沈清秋は言うべき言葉を言い切った。
「此度は良い弟子を迎える縁を持ち、幸いに思う」
さあ、茶杯を と
食い入るようにこちらを見つめ続けている幼い顔立ちの弟子へ手を延べて、できるだけ優しく笑いかける。
それに頬を赤らめて、更にぼぉっとこちらを見つめ続ける弟子に、今度は苦笑をしながら「冰河、洛冰河。儀式を続けぬのか?」と内緒話をするように小さく声をかけると、やっと我に返った弟子は、早急に、勢いよく、床に三度叩頭した。
ゴンッゴンッゴンッと結構な音が鳴り響いたが、ふわふわとした表情で洛冰河が「痛い、あでも痛くない、あでもどっちだろう」と呟くので、思わず沈清秋は吹き出してしまいそうになった。
居住まいを正した洛冰河が脇に手を添えると、そこには無かった茶杯が現れた。
膝立ちでにじり寄った幼い弟子が、沈清秋に向かって杯を掲げ持ち、口上を述べる。
「弟子、洛冰河が師尊にお茶を献じます」
その茶杯を迷いなく手に取ると、沈清秋は一口を含み、頷いた。
ポロポロと、洛冰河の大きな瞳から涙が零れた。子ども特有の緩やかなラインを描く頬を伝って、床にぽとぽととその滴が落ちる。顔をくしゃくしゃにして、しゃくりあげながらも、その口許は大きく笑みを形作っていた。
「師尊、ありがとうございます。ありがとう・・・ございました」
その声を最後に、沈清秋の意識は堕ちた。
「もう、大丈夫です」
しばらくの間、洛冰河が落ち着くまで姿を現さなかった夢魔に、洛冰河の方から声をかける。
「・・・この夢境を閉じてから、砕くのでしたよね」
そうじゃ、と 隣に現れた夢魔は頷く。
すぐに術の展開を解こうとした洛冰河に、意外にも夢魔から制止がかかった。
「まぁそう急くでない」
どうかしましたか? と尋ねた洛冰河に、夢魔が指をさす。
「花が咲いておる」
夢魔の指した方向には、部屋と廊下を仕切った簾があり、その先の庭には、菖蒲の花が咲き乱れていた。
菖蒲は水辺や湿地を生息地とする植物だ。実際の竹舎の周りには生えてはいない。夢境はそれを作った洛冰河自身の心象も影響する。現実には無いものも現れる。
「鮮やかじゃな」
やはり素晴らしい才能の持ち主じゃ、と夢魔は独りごちる。
竹舎の室内は細かな調度に至るまで緻密に再現されており、室外の庭木や植物まで彩り鮮やかにそよいでいる。
つい先だってまで、墨絵のような無彩色の荒涼とした天地が果てしなく続いているだけの領域だったものを。
「ここはもう見納めとなるが、次に向けて更に見識を広げるがよい」
目にしたもの、聞き知ったものが、場の解像度を上げるゆえ・・・・・・と説明する夢魔の話を半分に聞きながら、洛冰河は思う。
もう、これはやめよう と。
やはり、師には誠実に向き合いたかった。
当初の目的は何一つ果たせなかったけれど、師からは大切なものを授かった。自分がここに、師の傍に居てもいい許しを、やっときちんと得られたように思えた。
今はそれだけでいい。
貴方の傍を許される者として、精進する時間は、まだたくさんあるのだから と。
そして洛冰河は、自らの手で、まだ想いの残る夢境を閉じて、破壊した。
翌朝目覚めると、枕元の菖蒲の花はすでに萎れて首を垂れていた。
洛冰河は無言で、ひとつの夢にけじめをつけた。
──────────6──────────
「師尊、おはようございます」
普段通りに朝餉の支度を済ませ、師の居室へ起床を告げに訪れると、寝台に腰掛けた師は腰を捻り、身体をほぐしているところだった。
どうされたのですか?と洛冰河が尋ねると、背中が痛いと言う。
「このところ忙しかったゆえ、昨夜は寝返りも打たないほど熟睡してしまったようなのだ」
「・・・夢も見なかったのですか?」
「見ておらぬなぁ。見ておったら少しは動くようにも思うが・・・爆睡よな」
「爆睡・・・・・・ですか」
あまり聞かない言葉だが、師はたまに口にする。意味は何となくわかる。
それより冰河よ と師が弟子の顔を覗き込んでくる。
「そなたは逆に眠れておらぬのではないか? 眼が赤いぞ」
師の帰りが遅いゆえ、起きて控えていたなどということはあるまいな? と言われたので、いえ夜中に脚が吊って眠れず と妙な言い訳をしてしまった。
「成長期もあるのか・・・水はしっかり飲んでおくと良いぞ」
あと、この辺のツボをだな・・・と親身な助言を貰ってしまい、申し訳ない気分になる。
朝餉の前に、お背中をお揉みしましょうか?と何気なく洛冰河が提案すると、是非頼むと言われてしまった。
嬉しい反面、ドギマギする。
寝台に上がらせてもらって、いやらしい手つきにならないよう細心の注意を払い、無言で師の背のツボを押していると、そう言えばそなた・・・と声が掛かった。
無意識に怪しい手つきになっていたのでは、とドキリとしつつ、なんでしょうかと平静を装って返事をする。
「端午節の日に、よもぎ餅を作ってくれたであろう。小さく分けて丸めてあったゆえ、食べやすく助かった」
「ああ、それはよかったです」
「夜遅くはあったが、疲れていたゆえ甘いものが欲しかったのだ。加減しようと思っていたが、美味でついつい全部食べてしまった」
ははは・・・と珍しく師が声を出して笑ってくれたので、じんわり嬉しさが込み上げてくる。
「ああ、それで少し気になることがあったのだが」
「はい」
「あの書付を書いてくれたのは、そなたであろう?」
────え?
「じ・・・字が、お見苦しかった・・・でしょうか?」
思わず、問い返す声が震える。
字というよりも・・・と少し躊躇してから、沈清秋は言った。
「文法におかしな部分が見受けられるな」
鼻の奥がツンと痛み、目頭が熱くなっていく。
「このままでは、清静峰の弟子としてどこにも出すことが出来ぬゆえ・・・」
師尊、師尊・・・・・・
まさか・・・・・・
まさか────────
「・・・また休む時間が少なくなってはしまうが、寝る前に少し、師と手習いの時間でもとるか?」
耐え切れず、洛冰河は師の背に抱きついた。
師尊・・・師尊、師尊! と、感極まってその言葉以外を知らないかのように呼び続ける。
両腕で強く師を抱き込み、溢れそうになる涙を抑えるようにぐりぐりとその背に顔を擦り付けた。
「どうしたどうした、10歳の子どもではないのだ。落ち着きなさい」
この10歳の子どもという言い方は、沈清秋がよく弟子を嗜めるときに使う言葉だ。
それ以上の意味など無いに違いない。
夢境での記憶は、もう無い筈なのだ。
でも。
それでも、その言葉を言ってくれるのであれば
「約束、してくれますか? この弟子は、今からでも頑張って師尊の・・・師尊のお傍に相応しい者になることを誓いますから」
師は「自分のために頑張りなさい」と窘めたが、ぎゅうぎゅうと締め上げてくる弟子の頭を後ろ手で叩くと、苦しい苦しいと言って笑った。
「約束してください。してくれないと離しません」
「するする、するから放しなさい。師から言い出したことを違えはせぬよ」
そう言われ、ようやっと洛冰河は満足して縛めを解く。
解放された沈清秋は、弟子を振り返ると「ただし」と付け加えた。
「これは、私とそなただけの秘密にしておくように」
「秘密・・・・・・」
その言葉に、ドキリとときめいてしまった洛冰河の内心には気付かずに
「他の弟子から、また特別扱いだと言われては敵わぬゆえな」と言って、沈清秋はフッと笑った。