Private Lesson ふいに、頬に柔らかいものが触れた。
ちゅくり・・・と軽く、喰むように。
熱と湿度を併せ持つその感触に、驚いて首を巡らせると、彼の美貌がゆっくりと離れていくところだった。
自分より少し高い位置にあるその顔は、夕暮れの時の茜色の空を映すように朱に染まっていたけれど、それが気持ちを表す色であるかは正直言ってわからなかった。
幾重にも灯り始めた繁華街の明かりを受けて、笑むかたちに細められた彼の瞳の煌めきの中に、意味が隠されたように見えたとしても、ただ自意識から来る錯覚かもしれなかった。
スッと挨拶代わりに片手を挙げると、流れるように身を翻した彼の姿は、やがてビルの彼方に消えていった。
まるで、照れて逃げるかのように。
けれども、それも。それすらも・・・・・・
腑に落ちる理由を求めてループする思考を切り替えたくて、ヘッドフォンを耳に充てる。
切なく響く異国の少女の歌声に、結局、出口の見えない想いを重ねてしまう。
今日もまた、約束は無かった。
次はいつ・・・との言葉が彼の口から出ることは、無い。
夕闇の迫る交差点には別れを惜しむ恋人たちが次の逢瀬を確認しあう姿があり、気付けば、通りを渡り去ってゆくその姿を見惚れるようにいつまでも目で追っている自分が居た。
何もかもわからないことばかりで、確かなものなど何も無かった。
次があるのかさえ。
次が無ければ、恐らくもう二度と。
二度と逢えないと思うことが、こんなにも。
こんなにも・・・・・・怖かった。
まるで、渡り鳥のようだと思った。
突然飛来して、幾度か姿を見せて近くで囀っても。
いつの間にか何処とも知れない遠くに飛び去って、もう戻ってくることはないのかもしれない。
魅惑的な姿に、その声に、どんなに心が惹かれても。
構うことなく。
想いに気付くこともなく。
想い・・・・・・そうか。
その時ようやく、ひとつだけ、わかった。
これが、恋なのか と。
──────────2──────────
人生が思いもよらぬ方向に流れ始めたのは、あいつが・・・学生時代の悪友だった尚清華が、音楽をやらないかと誘ってきた時からだった。
就職もせず、やりたいことも見つけられないまま、実家が太いことに甘えてふらふらしていた俺に「瓜兄、声がいいからさ」と。
自分の声の良し悪しなんて、それまで考えたことも無かったけれど、子どもの頃に教養として習っていたピアノのおかげで音感に不安は無かったし、楽譜も読めた。
しばらくはアマチュアのセッションバンドにヴォーカルで入ったりして経験を積ませてもらい、慣れてきたところで尚清華が仕事としての依頼を取ってきた。
頼まれたのは、とあるバンドのバックコーラスで、ある程度の下準備をして臨んだこともあり、初めての環境にも割合スムーズに馴染むことができた。バンドのメンバーからは仕事を受けるたびに喜んで貰えたし、思いもよらなかった事で人の役に立てるのが嬉しくて、報酬はたいした額ではないものの、この仕事を広げていくのもいいかもな と思い始めた矢先。突然、バンドが解散することになってしまった。
悩む間もなく、尚清華はすぐに別の依頼を持って来た。
ボイストレーナー・・・人様に教える仕事だ。
さすがに最初は二の足を踏んだ。
それこそ音楽学校や専門学校を出たような人がやる仕事じゃないかと。抗議だってしたけれど、すでに依頼は受けてしまったのだと言う。思えば昔から勝手な奴だった。
聞けば、レコーディングに参加した楽曲を聴いた先方から「このコーラスの人を」と指定があったのだと言う。声質や表現がとても好みで、こんな風に歌いたいから、と。
お褒めいただけるのは光栄だが、少し話を盛りすぎてやしないかと疑念が湧いた。さしたる見せ場も無いバックコーラスに注目なんてするものだろうか?と。そのうえ、わざわざ指定だなんて。
それ業界の人?と訊いてみれば、違うという。
「あーでも、業界といえば業界かな。音楽業界じゃないけどさ」
「じゃあナニ業界なんだよ」
「んー・・・・お忍びだから、漏らさないでって言われてるんだよね。でもまぁ、知ってる人は知ってるけど」
あぁでも、瓜兄じゃ知らないか。
興味の範疇から外れたことには一切関心持たないもんねぇ と、こちらの事は何でも分かってるとでも言わんばかりの尚清華のニヤニヤ顔に、異論を唱えるのも面倒臭い気分になった俺は、それ以上の詮索は諦めた。
とりあえず、ボイストレーナーに公的な資格は無いことと、知識と経験があれば誰でもボイストレーナーと名乗ることができること。相手は若い男性で、専属を希望していることを説明された。
若い女性でなくて、少しホッとした。
声を出すレッスンだから、会場は音楽スタジオを使うことになる。密閉された密室で、万が一セクハラトラブルなどになってはたまらない。
「専属だから他の仕事は受けられないけど、それに見合う以上の報酬だし、拘束時間も長くない。好条件っしょ」
いつからコイツは俺のマネージャーになったのだろうか?
(・・・・・・ま、いっか)
精力的に動く気力の無い自分のような者には、こんな世話焼きが必要なのかもしれない。
結局そんな風にも思えて、俺は次の仕事の肥やしとするべく指導書や関連の動画などを漁り始めたのだった。
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指定された時間より早めに、指定したスタジオの待合スペースで待機していた俺は、少し緊張していた。
人当たりは悪くないと言われるし、他人とトラブルになったことも無いけれど、やはり相手が初対面となると構えてしまうものはある。ましてや今回は初めての始めましてのレッスンなのだから。
それにしても、バンドをやる人間の喫煙率の高さには本当に閉口する。たいていの音楽スタジオは、個別のスタジオ内については禁煙としているが、待合スペースにはその縛りが無いところもいまだに多い。当然ながらタバコは肺や喉を傷める。楽器担当には問題が無いとしても、おまえらのメンバーにだってヴォーカルは居るだろうが! 狭い空間で揃ってスパスパ吸いやがって、少しは配慮してやれよ! と思うのだが、結構そのヴォーカル本人がヘビースモーカーだったりもする。
音楽の道は様々で、自分もそう詳しくはないけれど、知る範囲に於いては大きくふたつに分類できるように思っている。
ひとつは親の意識が高く、幼い頃から何らかの楽器の指導を受け、才あればその道の学校に進学してプロを目指す、音楽を芸術と捕らえているタイプ。もうひとつは、素養は無くとも「カッコいいから」「モテたいから」「自己表現の手段として」等の理由で自発的に音楽を始めるパターン。若さから来る勢いと情熱で、同級生たちとバンドを組んだりすることもある、音楽をアートと捉えているタイプだ。勿論クロスオーバーしている者もたくさん居るけれど。
前者に於いては楽譜を読めない者は皆無だし、生活のすべてを音楽に全振りして健康的な生活を己に課している者が多い印象だが、後者の場合は楽譜を読めない者もざらに居るのが面白いところだ。作詞作曲まで自分たちでこなすくせに、耳コピで乗り切ってしまうグループも多いと聞く。生活が荒れていても若いからそこそこ元気だ。
結局、音楽なんて太古の昔から人間の生活の中に息づくものであり、こだわらなければ誰にでも叶う表現方法なのだ。
けれど、人に聴かせる立場となる相手に教えるには、それなりの理論を伝え、技術を身に付けさせる必要がある。
さて、『彼』はどちらの傾向にある人なのか・・・・・・
そんなことを考えていると、入口のドアが開いて、スラリと背の高い男性が入ってきた。
マスクと帽子で顔の大半は隠れていたが、長い手足と高い位置にある腰、服の上からも引き締まった筋肉が見て取れる稀有に整ったプロポーションが目を惹いた。
来館者を見落とさないために入口近くのベンチに座っていた俺の前まで真っ直ぐに進むと、彼はスッと膝を落としてかしづくような姿勢で俺を見上げ、ふわりと目許を緩めた。
まるで王侯貴族に対するような態度をとられ、ポカンと見つめてしまった俺に手を差し伸べると、彼は「空気がよくないですね。外に出ませんか?」と誘ってきた。
たぶん、これは前者でも後者でも無い。
近くで見ると、その眉目は驚くほど整っており、潤みを帯びた瞳がキラキラと輝いていた。
「はじめまして。沈垣です」
そう名乗ると、彼は「沈・・・垣さん」と呟くように俺の名を繰り返した。
少し緊張しているようだった。
スタジオの部屋が空き、個室に入ると、それまでスマートだった彼の態度が妙にぎこちないものに変わった。
マスクを外すと、やはり眩いほどの美貌の持ち主だった。続いて目深に被っていた帽子を脱ぐと、クセのある豊かな髪が広がった。
「・・・・・・俺の事、わかりますか?」
残念ながら。
「すみません。あまりテレビとか雑誌は見なくって」
「いえ・・・・・・」
彼は一瞬だけ落胆したような表情を見せたが、すぐに穏やかな顔に戻ると「冰河です」と名乗った。洛冰河です、と。
「洛冰河・・・さん」と思わず俺も繰り返してしまう。
「冰河と呼んでください。教えを受ける身ですから」
「いやでも、そちらが雇い主ですから」
「俺が無理に頼み込んで来ていただいているので、沈垣さんに遜られては困ってしまいます」
洛冰河は、世界中を蕩かすような甘い声と微笑みを俺に向けて、強請るように言った。
「師尊と、呼ばせてください」
まるで口説かれてでもいるかのような気分になり、思わずたじろぐ。
師尊って何だ? 随分と古めかしいな。古武道でもやってた人なのか? と、後々冷静になってからは反駁精神が正常運転を始めたが、この時この瞬間にそんな余裕は無く。
気付けば「応」と答えていた。
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課題曲を決めて、まずはブレスポイントの意識付けから始めることにした。
普通は姿勢や腹式呼吸の練習からだろうけれど、慣れていない人にとって、他人の前でいきなり日常行わないことを実践するのはハードルが高い場合もある。
かつての俺が、まさにそうだった。
今でこそ、声も楽器の一種と割り切って好きなように鳴らせるようになったけど、当時は固くなってしまうと深い息や良い声が出ないと分かっていても、気恥ずかしさからなかなか肩の力を抜くことができなかった。
だったら、もっと気楽に取り組める事から始めて、まずは俺の存在に慣れてもらおうじゃないかと意図した手順だった。
ブレスポイントの意識付けとは、原曲に注意深く耳を傾け、ヴォーカルが息を吸う音を拾って歌詞カードにチェックを入れていく作業から始める。声は息を吐きながら出すものだから、適切なポイントで息を確保することが基本なのだ。
二人でスピーカーの前にくっついて座り、流れる曲を聴きながら「今!」「ほら、ここ!」と確認する。
洛冰河は耳が良く、すぐにコツを掴むと「結構録音に入ってしまうものなんですね」と言いながら微かなブレスも正確に拾っていく。俺に笑顔を向けながら「これからは息遣いばかり意識してしまいそうです」と言うので、「どうしてもそういう聴き方になっちゃいますよね」と返す。
楽しそうだ。よかった。
俺にもすぐに慣れてくれた。
姿勢についてもレクチャーし、腹式呼吸の肝を伝える。
洛冰河は元々とても姿勢が良く、直すところなど殆ど無かった。
軽く発声練習をしてから、通しで一回歌ってもらう。
余韻の残る良い声だ。音域も広い。リズム感も悪くない。
技術の伝え甲斐のある相手だとわかり、俺は嬉しくなってしまった。
あっという間に予定の2時間が過ぎようとしていた。
キーボードと譜面台を片付けながら、「次の予定を決めてしまいましょう」と声をかけると、片付けを手伝ってくれていた洛冰河は「申し訳ありません」と声を落とす。
「俺の仕事は突発で入ったり押したりするので、先のスケジュールが組みにくくて」
だから、拘束するようで申し訳ないとは思ったが、仕事の空き時間が確保でき次第レッスンを行えるように、専属契約にしてもらったのだと言う。
「突然お呼び立てすることにもなると思いますが、師尊のご予定に不都合があれば遠慮なく仰ってください」
俺の方には、唯一の仕事を差し置いてまで通さなければならない予定なんて無い。ただ
「予約ができないとスタジオの確保が難しいこともあるから、最悪カラオケボックスでレッスンすることにもなるけれど、そこを承知しておいてもらえれば問題は無いかな」
そう伝えると、何故か洛冰河は瞳を輝かせて「それはむしろ大歓迎です!」と言った。
変な人だ。カラオケボックスなんて取りやすいだけで、狭いし雑音は入るし、良い環境では全くない。
けれど、良い人だと思った。素直で前向きで、気遣いもしてくれる。
洛冰河の身支度を待って、二人でスタジオを後にする。
大通りの交差点まで出ると「それではここで」と彼が軽くお辞儀をしてきた。「お疲れ様でした」と同じようにお辞儀を返すと、洛冰河は数秒、なんとも言えない不思議な表情で俺を見つめてから、ふわりと笑うと踵を返し、駅とは反対の雑踏の中に消えていった。
*:*:*:*:*
その後のレッスンも順調だった。
喉の開き方、音程、リズム、言葉の伝え方、表現方法。
拍の取り方では難易度をあげるたびズレていく冰河をからかって二人で笑ったり、ミックスボイスの練習では妙なところで声をひっくり返してしまう冰河を慰めたり、ビブラートの掛け方では大きく揺らしがちな冰河に繊細な揺らし方を実演して感動されたり。
努力家な冰河は、コツを掴めばみるみるうちに上達した。
課題曲については、前回の指摘事項を必ずきちんと自主練をして身につけてきたし、なんだかんだと強請ってはこちらに歌わせるのもうまかった。
そのうち基礎的な事はほとんどマスターした冰河と、セッション形式で技術を伝えるレッスンが増えた。
とにかく冰河は立ち姿が非常に美しく、少し頭を傾げながら表現する仕草と目線が魅力的だった。マイクを握る指先まで綺麗な角度で、それを褒めると照れ笑いを浮かべながら「師尊の真似をしているだけですよ」なんて言う。たとえそうだとしても、その輝くばかりのオーラと稀有な存在感は、彼だけに与えられたギフトだった。
ステージに立てばどんなに映えるだろうか。さすが芸能人・・・と俺はほとんど決めつけていたけれど、どこに所属しているどんな活動経歴を持つ人なのかは敢えて調べなかった。
知ってしまったら、少しずつ縮まっている彼との距離感が変わってしまいそうで怖かった。
ハモったり、輪唱したり、冰河の歌にフェイクを入れたり。息を合わせて歌うのが楽しくて楽しくて、もう誰のための何の時間かわからないくらい、俺自身が心の底から楽しんでしまっていて。
冰河の綺麗な顔から、自分と同じ興奮が感じられるのが嬉しくて。同じビートにノリながらお互いの身体が近付いたり離れたりすることに不思議なくらいドキドキしたり。スピーカーから響く彼のウィスパーボイスの掠れに痺れるような疼きを覚えたりして・・・・・・
けれど、その日のうちに次の約束が交わされることは、相変わらず無く。レッスンが終わればいつもの交差点まで一緒に歩き、そこで別れることの繰り返し。
数日が過ぎてから、彼のマネージャーが事務的に次の日程を連絡してくるという流れが変わることはなかった。
冰河はいつも楽しそうにしていたけれど、次のレッスンまでの期間は、いつしか少しずつ開き始めていて。
そういえばもう伝えるべき技術も無くなりつつあることを、改めて思った。
──────────5──────────
「・・・・・・尊、師尊ッ」
ぐいっと腕を引かれて、よろけ、気付けば冰河の胸に抱き込まれていた。
────え?
ファン!とクラクションを鳴らして、車両が往来を始める。振り向くと、信号は赤だった。
冰河は俺の肩を抱く腕に力を込めると、ほぉっと深く溜息を吐く。
「気をつけてください。心臓が止まるかと思いました」
そこはいつもの交差点だった。
ぼーっと考え事をしていた俺は、信号が変わったことに気付かずに進もうとしていたようだ。
冰河は俺を支えていた腕をゆっくりと解くと、そっと横に並んで静かに前を向き、信号が変わるのを待った。
冰河の力強い腕と胸の感触の余韻にのぼせた俺は、心臓が耳の中で鳴っているような騒音と胸がぐしゃぐしゃにかき乱される混乱で、前を向いて立っているのがやっとだった。冰河の様子を窺う余裕なんて無かった。
しばらく二人は黙って前だけを見ていた・・・・・・筈だった。
ふいに、頬に柔らかいものが触れた。
ちゅくり・・・と軽く、喰むように。
熱と湿度を併せ持つその感触に、驚いて首を巡らせると、彼の美貌がゆっくりと離れていくところだった。
自分より少し高い位置にあるその顔は、夕暮れの時の茜色の空を映すように朱に染まっていたけれど、それが気持ちを表す色であるかは正直言ってわからなかった。
幾重にも灯り始めた繁華街の明かりを受けて、笑むかたちに細められた彼の瞳の煌めきの中に、意味が隠されたように見えたとしても、ただ自意識から来る錯覚かもしれなかった。
スッと挨拶代わりに片手を挙げると、流れるように身を翻した彼の姿は、やがてビルの彼方に消えていった。
まるで、照れて逃げるかのように。
今のは一体何だったのか・・・・・・
わからない。
彼の気持ちなんてわからない。
言ってくれなければ、わからない。
言うほどの意味もない事だったのかもしれない。
けれど、
自分の感情がどんな種類のものかだけは、ハッキリとした自覚を持ってしまった。
もう、この呪縛からは逃れられない・・・と、思った。
*:*:*:*:*
その日以降、次のレッスンの連絡が入ることはなかった。
ずっと生殺しのような気分で待ち続けていたけれど、3ヶ月が経つ頃には、諦念だけが湧いてくるようになった。
渡り鳥はもう飛び去ってしまったのだろう。
終わるのならば、いつと知ったうえで気持ちを整理しておきたかった。心が躍るような時間を共に過ごした彼の背を、指導者としてきちんと押して見送りたかった。
そんなことを思ってから、すぐに、気持ちの整理などできるものかと自嘲した。もう自分の心の中には、深く鮮やかに冰河の存在が焼き付いていて、事ある毎にその輪郭が疼いていた。
見苦しい別れ方になるくらいなら、楽しく綺麗な思い出として残ってくれたほうがいいと思い込もうとした。
いずれ、例のマネージャーが事務的に契約終了を伝えてくるだろう・・・・・・と。
──────────5──────────
突然連絡を寄越してきたのは、意外にも冰河本人だった。
「どうして電話に出てくれないんですか」と、開口一番、常に無く乱れた口調でそう言われても。
「・・・連絡をくれなかったのは、そっちの方でしょう」
こっちの気持ちだって乱れまくっていたから、つい突き放すような物言いになってしまう。
呼ばれたのは、立派なビルの高層階の一室で、通されたのは真新しい音楽スタジオだった。落ち着いた配色の室内に、音響設備と譜面台、キーボードとスタンド、マイクスタンドと椅子、面張りの大きな鏡。どれも定評のある品ばかりだ。ドラムセットは見当たらなかったが、変わっているのはそれくらいだろう。
俺に椅子を勧めると、冰河も向かい側に腰掛けた。
久しぶりに見た彼の顔は、相変わらずの美貌に焦りと何か複雑な色を浮かべていて、落ち着かない様子でありながらもなかなか口を開くことができないようだった。
これから言いづらい事を言おうとしているのは、明白だった。
「大丈夫ですよ」
俺は静かにそう言った。
「ビジネスですから、そういうこともあります」
「申し訳・・・ありません」
冰河は膝を握って項垂れた。
「ご迷惑をかけてしまって」
迷惑というよりは・・・・・・でも、冰河の立場からすれば、迷惑という表現が妥当なのか。
「・・・・・・最期にお逢い出来て良かったです。マネージャーさんからの連絡で終わりかなと・・・思っていたから」
しばらく沈黙が続いた。
膝を握っていた冰河の手が、小刻みに震えているのが目に入る。彼も少しは淋しいと思ってくれているのだろうかと、ぼんやりと考えていると、急に冰河がすっくと立ち上がった。結構な勢いに、座っていた椅子が後方に倒れるのも構わず、彼は悲痛な声をあげて俺に迫ってきた。
「どうして急に、そんなよそよそしい態度を取るんですか? 怒ってるんですか?」
怒っているなら謝ります。確かに俺が迂闊でした・・・などと言いながら俺の前まで真っ直ぐに進むと、彼はスッと膝を落としてかしづくような姿勢で俺を見上げ、切なげに瞳を揺らした。
ああ、これは初めて会った時と同じ姿勢だな・・・と思いながら。この綺麗な顔も、もう見納めなんだな・・・と思いながら、最初と最後が一緒なのがなんだか可笑しくって、笑おうと目を細めたら何かが膝の上にボタボタと落ちてきた。
────え、何?
「師尊・・・・・・泣いているんですか?」
え? そんなわけ・・・・・・
思わず、呆けた顔で冰河を見ると、冰河も呆けた顔で俺を見ていた。
「あの、ちょ・・・ちょっと待ってください。どうしたんですか?」
「・・・・・・」
「え、俺なにか間違ってますか? 貴方がそんな・・・え、え?」
「・・・・・・」
「ていうか、最期とか終わりって何ですか? 俺の事、嫌になったんですか?」
それは、それだけは違う。
けれど何て言っていいのか分からず、黙って首を横に振るしかできない。
「あの・・・・・・あの、じゃあ、俺の事、少しは好・・・・・・」
瞬間、ボタボタボタボタ・・・と盛大に落ちる水滴に、冰河がおろおろと俺を見上げる。
ばか。ばかばかばかばかバカ!
少しなんて・・・・どころじゃない。
「・・・・・・見んな」
「あの、でも師尊」
「 ・・・・・・見んな。あっち向いてろ」
「でもそれ、俺のこと好きってことですよね?」
「・・・・・・連絡を寄越さない奴なんて、嫌いだ」
「連絡、しましたよ。何回も」
「嘘をつけ。電話なんて来てないぞ」
「しましたよ、本当に何回も。やっとさっき出てくれるまで、俺本当にどうしようかと」
「さっきのが初めてだ。おまえから電話なんて一度も来たことがないぞ。ていうか、おまえの電話番号なんて教えてもらって無いし」
あ!と言って、冰河は口に手をあてた。
「さっきの電話だけ、マネージャーの携帯を借りました」
「こ、この、世間知らずめ!」
俺はおまえの携帯番号なんて教えてもらってない。
知らない番号から掛かってきた電話には、出ないのが常識だろう。たしかに、言われてみれば最近、知らない番号から連続で掛かってきていた。あんまり掛かってくるので気味悪く思っていたくらいだ。番号をネットで検索してみたけれど、何も引っ掛からなかった。
「・・・・・・なんだ」
連絡、くれてたんだ。
ボロボロボロ・・・とまた大量の雫が滴り落ちる。
「師尊」
「・・・う、うるさい」
ふわりと大きな身体が覆い被さってきて、ぎゅっと力強く抱きしめられる。
「貴方の方から・・・・好きだと言ってもらえるのは、初めてですね」
「そんなこと、言ってない」
恥ずかしいやら腹がたつやらでドカドカと冰河の胸を叩いてやるが、余計ぎゅうぎゅうと締め付けてくるので、最後には腕を動かす隙間も無くなって、大人しく彼の腕の中に納まるより他なかった。
「急に随分、馴染みのある物言いをされるようになりましたね」
何か思い出しましたか?と柔らかく微笑みながら、冰河が綺麗な顔を寄せてくる。こんな時に顔なんか見たら、きっと負けだ。
目線を反らし、ぷいと顔を背けると、「お可愛らしいです」と言いながら頬ずりしてきた。なにが可愛いものか。
「おまえにだけは言われたくない」
可愛いのも綺麗なのもおまえなんだよ!
「もう、今日からおまえのことは、おまえって言う」
「いいですね、素敵です」
「なにが素敵なものか。もう雇用主だなんて思わないからなって言ってるんだぞ」
「素敵じゃないですか。俺、それもやめたいと思っていたんです」
「・・・・・・やめる?」
思わず真顔になった俺の頬に、許しもなくキスをした冰河は、はい!と朗らかに返事をした。
「俺たち、パートナーになりましょう!」
・・・・・・それって、どういう?
────どういうことぉおお!?
「これ、見てください」と、冰河のイメージからは程遠い大衆雑誌を渡された。
ページを捲ると、トップ記事にデカデカと、誰かの頬にキスをしている冰河の写真が載っていた。品の無いフォントで『我が国が世界に誇るトップモデル、洛冰河の街中デートを激写!』とか書いてある。
そうか、モデルだったのか。立ち姿が妙にキマっていたのも納得だ。
「これのおかげで貴方にご迷惑が掛かったんじゃないかと気が気ではなかったんですが、パパラッチがどこにでも貼り付いて来るんで、レッスンも見合わせざるを得なくって」
悔しそうに憤る冰河は今、背中から俺のことを羽交い締めにしていて、俺はまるでクマかなんかのぬいぐるみのようだった。肩越しに一緒に雑誌を見ながら、冰河は「一般の方を勝手に撮ってモザイクも掛けないなんて」と更に憤慨を口にする。
「これ、俺なんだ?」
「そうですよ。貴方以外にこんなことしません」
そ、そうなんだ・・・・・・へえ・・・・・・。
サラッとなんか、両想いっぽいこと言ってきた。自惚れていいのだろうか・・・・・・現実感が無い。
「なんだか、女性に見えるな」
高身長で立派な身体の冰河と並ぶと、ゆったりした服を着た後ろ姿の俺はどうにも華奢に見えて、男女のカップルと間違われてもおかしくない絶妙な角度で写っていた。
「写真としてはド下手もいいところですが、おかげで貴方と特定されずに済んだようでよかったです」と、冰河はにっこり笑いながら毒を吐く。確かに、俺の方には何ら被害は無かった。
「まぁでも、しばらく社屋も兼ねたこのビルに篭もれたこともあって、この先の展望も見えてきたんですよ」
俺に見つけてもらうために、冰河は若い頃からモデルとして世に出ていたのだと言う。見つけてもらうってどういうことだと思ったけれど、それはおいおいと言って、冰河は説明を続ける。
何の感触も得られず焦りだした頃、話題になったバンドのバックで歌う俺の声を聴いたのだそうだ。すぐに身元を割り出して、連絡窓口になっていた尚清華に連絡を取った。目的は果たしたのですぐにでもモデルは廃業したかったのだが、契約に縛られて仕事を整理するのに余計多忙になってしまったのだという。
「ようやく落ち着いたのが、3ヶ月前で。車に轢かれそうになった貴方を抱き寄せたら、我慢できなくなって・・・つい、キスしてしまったんです」
あ、あー・・・・・・我慢、デスカ。
いつから我慢してたんデスカ。
言って欲しかったナー・・・・・・。
「で、コレですよ!」と冰河は件の雑紙をバンバン叩く。
「本当に迷惑な話です。やっとレッスンの時間がとれるようになったのに、こんなことに邪魔されるなんて」
まぁでも結局、俺が迂闊だったんですけどね・・・と冰河が自嘲気味に吐く溜息が、耳許を掠めてくすぐったい。
「それで、家に篭っている間にこの部屋を改造して」
おまえの家の部屋だったのか、ここ。どんな広さだよ。
「もう、ここでレッスンができるように、スタジオにしちゃいました」
するなよ。どこで寝起きするんだよ、おまえ。
「あ、隣にも部屋があるんで、衣食住はそっちで」
マジか。
「で、ある程度の準備ができたら、今度は音楽で食べていこうと思って。貴方と!」
「────・・・・・・」
こんなこと、誰が言っても、俺は鼻で笑い飛ばした筈だ。
世の中そんなに甘くない。世間様を舐めるんじゃない、と。
でも、冰河なら。俺の洛冰河ならできてしまう気がした。
音楽なら、顔出ししなくても市場はあると思って。容姿や私生活を勝手に消費されることなくやっていくこともできると思うんです。
だから・・・・・・
「俺の、パートナーになってください」
俺の肩に頭を預けて、甘えるように冰河が言う。
「できれば、公私ともに」
どくんっと心臓が跳ねる。
そんな・・・・・・おまえ、どんな急展開だよ。
「嫌ですか?」
嫌だとは、言ってない。
「お願い、きいてもらえますか?」
肩口から覗き込んでくる瞳が必死と訴えていた。
「もし、望みを叶えて貰えるのなら・・・・・・」
わかってる。
知ってるよ。
俺はゆっくり瞼を閉じると、洛冰河の形の良い唇にそっと口吻た。