ポスターの男スクリーンの中の男は、百年前から俳優だったかのような貫禄で客席を見つめている。
『愛してる……』
降谷はスーツのジャケットから取り出したハンカチで口元を覆うと、誰にも聞こえない音量で呟いた。
「うそつき」
一年半前、赤井がFBIを辞めた。
元凄腕の情報屋である降谷の元にはその知らせがすぐに飛び込んできた。
降谷が赤井に連絡を取ろうか悩んでいるうちに、赤井は人気俳優になり今では主演映画が日本で上映されるほどになった。
そして降谷の目の前で、降谷を口説いた時と同じ台詞で相手役の美女を愛を囁いている。
『私もよ、あなたを愛しているの、世界中の誰よりも!』
僕がそう答えられていたら、赤井は特大スクリーンの中で美女を抱きしめたりしなかったのかな。
レイトショーのエンドロールが終わると観客は静かに席を立った。足音がしないカーペットはふわふわしていてまるで夢から醒めたばかりのようだ。
ロビーでは物販のカウンターがまだ開いていたが客は少なかった。
上映中のシアターから爆破音がかすかに聞こえる。
「私も撮って!」
「オッケー」
降谷と同じシアターから出て来た女性たちが赤井のポスターの前でカメラを構えている。被写体側の女性はどうやら酔っているようで、無表情で立っている赤井にキスをするように赤くなった顔を近づけた。
「あの、まだ注文いいですか?」
「はい、どうぞ!」
あと数十分で日付けが変わるというのに元気な店員の声が降谷の背中を押す。
「ビールのLサイズ」
「はい!ビールのLサイズですね!」
「そ、それと……緋色の不在証明のポスターを一枚」
映画館の外は夏の夜らしい湿度と気温で、ビールはすべてが泡だったんじゃないかというぐらいあっけなく降谷の喉を通って行き、家に帰る間にプラスチックカップは空になっていた。
普段ならこれしきのアルコールで酔ったりしない。
しかし、潜入捜査の任を解かれ、誰かに命を狙われる危険性がない今、降谷は酔っても問題ない。
昔ちょっといい仲だった男が別の誰かに愛を囁いている姿を見て失恋に似た感情を抱いていることも降谷を酔いやすくしていた。
「なぁにが、愛してる、だ」
自宅に着くなりポスターを広げ、そこに映る赤井を睨んだ。
「僕だって愛してたっつーの!!」
そして赤井の唇に己の唇を寄せた。
「ふんっ」
この小さな嫌がらせで溜飲を下げるはずだったのに、赤井にとって自分のキスが「嫌がらせ」であるのだと傷を抉っただけだった。
「赤井……なんで俳優なんかになっちゃったんだよぉ……」
赤井を振った時、もう今までみたいな関係ではいられないとわかっていた。
会議中そっとアイコンタクトをしたり、大勢の捜査官の前でどうでもいいことを意味深に耳打ちしたり、仕事終わりに一緒に食事に行きそんな小さなイタズラに二人で笑うことはもうないだろうと覚悟した。
でも赤井はアメリカで、降谷は日本で、ともに最前線で戦うのだと思っていた。
一緒に生きることはできなくても、同じ生き方をすることはできる。
そう思っていたのに赤井はあっさりとFBIを辞め、俳優業に転身した。
彼の同僚の話だと、最初は工藤優作氏の脚本を元捜査官として監修するだけだったらしい。それが赤井がジークンドーの使い手だとわかると今度は演出家からファイトコレオグラファーをして欲しいと頼まれ、実際に現場に行くとその顔面を見た監督から脇役でいいから出演して欲しいと頼まれたという。
それから一年で主演で映画に出演してしまうのだから、シンデレラもびっくりのサクセスストーリーだ。
その間に降谷には連絡の一つもなかった。
交際を断られた男の振る舞いとしてはベストなものだが、赤井を好きでも振らねばならなかった降谷は寂しかった。
心にぽっかり開いた穴を埋めるように、赤井のポスターを部屋の壁に貼った。
「ちゅ、いってきます」
「ただいま〜、つかれたよ……ん」
「今日テレビに出てたな……日本にいるなら連絡しろよ!んちゅっ!!」
側から見れば完全にガチ恋系ファンだが、一人暮らしの降谷に目撃者はいなかった。
世間は俳優赤井の初来日に連日大騒ぎだが、降谷の仕事はいつも通り。世間話で部下が赤井のことを振って来たら睨んで黙らせるという小さな仕事が増えた程度だった。
赤井ファンの熱気が気温を押し上げているのか、東都は毎日猛暑を記録している。
完全に日が沈んでから帰路に付く降谷でも、車のエアコンが効きはじめる前にネクタイを緩めなければ息苦しく感じるほどだった。
同じ気温の中で呼吸しているというのに、フロントガラスの向こう、横断歩道を歩く浴衣姿のカップル爽やかさはどういうことだろう。
そういえば今夜は花火大会だった。降谷の知らぬ間に咲いて散った大輪の花を目に焼き付けた帰りなのだろう。
普段より人通りは多いのに赤井の姿はどこにもなかった。
スクリーンの中で見た赤井も降谷が知っている赤井ではなかった。降谷に真剣な瞳で告白した赤井はもうどこにも存在しないのだと知らしめられた気がした。
自宅マンションの地下にある駐車場に車を停めても、すぐには立ち上がれなかった。
虚ろな気持ちでぼんやりしていると運転席の窓をコンコンと叩かれた。熱中症と思われたのだろうか。慌ててシートベルトを外して車を出ると、大きな手のひらが降谷の肩を掴んだ。
「あかい……?」
「久しぶりだな」
地下特有のねっとりとした空気とともに赤井と過ごした時間が降谷を包んだ。
ライ、バーボンと呼び合っていた頃、殺したいほど憎んでいた頃、赤井が死んだと誰もが信じていてもそんなはずはないと確信していた頃。
そのどれもが鮮烈に、夏の夜の花火のように、降谷の脳裏に甦った。
「どうして……」
「君に会いたかった……が理由ではダメか?」
赤井の瞳の中のきらめきが僅かに揺らいだのが降谷にはわかった。
そんなに会いたかったのか、僕に。
「べ、別にダメではないですけど!?急に来られても何もありませんよ?あ!!スイカ、あります!食べますか!?」
「ああ、ぜひ」
赤井が会いに来てくれた。お世辞にも上手くはない誘いを断らずに部屋まで来てくれるという。
そのことに浮かれていた降谷はあることを失念していた。
「ホォ……?」
赤井は降谷の部屋にでかでかと貼られたポスターと向かい合い、睨みつけるように強い視線を向けている。
「こ、これは、部下からもらったんです!僕が買ったものじゃないですから!」
「そうか」
赤井は唇にだけ笑みを浮かべると、何を思ったかそのポスターを壁から剥がし始めた。
「なにするんです!?」
「貰い物なら剥がしても構わんだろ」
「貰い物だけど大事なものなんです!!」
「その部下と、いい仲なのか?」
「はあ!?そんなわけないでしょう!?」
「じゃあ、いいだろ」
「やめろ!!!破れる!!」
僕がどんな気持ちでそのポスターを部屋に飾っていたか知らないくせに……全部お前のせいだぞ、赤井!
「こんな男は君に相応しくない」
「はあ!?こんな男ってあなたでしょう!?」
「違う!コイツはドン・ガバチョだ!ここにそう書いてあるだろ!?」
確かにポスターには赤井が演じた役名が大きく書いてある。とはいえ、目の前の男とポスターの男が同一人物なのは間違いない。
俳優業が忙しすぎて、疲れているんだろうか。
「なんで俳優になったんだよ……」
思わず本音でそう問いかけた。
「君が言ったからに決まってるだろう……FBIとは付き合えないと」
降谷は驚き過ぎてポカンと口を開けてしまった。
赤井にその台詞を言った時のことは今もはっきり覚えてる。
別々の組織に属している捜査官同士が上手く行くとは思えなかった。
でも、それは赤井に生き方を変えてくれと頼んだつもりはなかった。
「なあ、黙らないでくれよ……」
降谷の様子に気付いた赤井が問う。その表情はスクリーンの中で美女に愛を囁いていた時よりも人間臭く、セクシーだった。
「僕のせいで……赤井が……」
「ちがうよ、君のためだ。俺は君と生きていきたいんだ……ん、ふ、降谷くん!?」
降谷からのキスに驚いた赤井は降谷の知らない赤井だった。この男の全てが知りたい。もう一度重ねた唇はしばらく離れることはなかった。
降谷にとってファーストキスだが、ポスターに毎日キスしていたおかげで鼻や歯をぶつけることはなかった。
「練習しておいてよかった」
「どういう意味だ?」
「あ……」
赤井の眉間にできた深い皺が、降谷に長い夜の始まりを予感させたのだった。