魔王様の貯金箱 赤井秀一が僕の城で暮らし始めて半年が経とうとしている。
この城は人間界から見ると深い森の中にある。
しかし実際に建っているのは魔界だ。森の中で人間界と魔界が接しているため、うっかり境界線を越えてしまう人間が稀にだがいる。
城の主が魔王だから魔界に建っているのは当たり前の話で、異例なのはそんな立地でありながら赤井が今日も元気に城の中の図書室で本を読んでいることのほうだ。
瘴気に当てられた様子はないので、なぜかと聞くと人と魔物の間に生まれた半人半魔なのだそうだ。
彼の父親の名前に聞き覚えはなかった。きっと僕が生まれるより前に魔界を出たのだろう。
魔物の中には魔界を出て人間界で暮らし始めるものもいる。
しかし、その逆の魔界で暮らし始めた人間はひとりも存在したことがない。
「貴方、人間界に帰らなくていいんですか?」
「おや、俺を追い出したいのかな?」
「そういうわけじゃ……」
この城には僕と僕の眷属以外は誰も住んでいない。それでいて部屋は数えきれないほどあるし、いつ誰が来てもいいように食器やカトラリーは揃えてあった。
行き倒れた人間を拾った時のためにベッドメイキングだって万全だった。
だから人間がひとり増えたところで別に困ることはないのが、そうだとしても、ちょっと寛ぎ過ぎじゃないか?
「うちの本、そんなに面白いですか?」
「そうだな……」
赤井は本に視線を向けたまま、僕の肩に手を回す。
僕を殺しに来たくせに、図々しい奴だ。
「な、なんですか」
「ここの文字がわからない」
「えっ、どれです?」
魔王城の図書室にある本の大半は魔界の文字で書かれている。僕の代になって人間界の本も集め始めたが、赤井は魔界本のほうに興味を引かれているらしい。
魔界文字を読めなかった彼に読み方を教えたところ、魔王の僕が驚くほどのスピードで習得していった。
ちなみに、魔界では王を決める試験が五百年に一度行われる。実技とペーパー試験があるのだが、魔界の文字を覚えた赤井がこのペースで僕の図書室の本を読み切ったら、人間でありながらペーパー試験に合格できてしまうかもしれない。
まったく、恐ろしい男だ。
さすがに魔力はないので実技である魔界一武道会で優勝するのは無理だろうが、赤井の好奇心は魔王の僕でも図り知れないから、いつかは魔力を得る方法を見つけ出してしまうかもしれない。
「ああ、それは『恋』ですね」
「ホオ、魔界にも恋があるのか?」
「いいえ。モンスターたちが人間の真似をして恋愛ごっこをすることはありますけど、あなたたちのように真剣にお互いを求め合うことはありませんよ」
「ホオ……」
魔物は番を作らない。群れを作って生活するものはいるが、新しい個体を作るために必要なのは魔力であり、人間のように他者を必要としないからだ。
だから僕は魔王になって二百九十九年、この広い城にひとりで暮らしている。
「なるほど。しかし残念だ……俺はすっかり君に恋をしてしまった」
「はあ……そうですか。恋といえば、部下の小池がじゃがいもを持って来てくれたので今夜はシチューですよ」
「それは楽しみだ。確か小池くんは地底人だったな」
「そう、その小池です。じゃあ、ちょっと作ってきますね……」
赤井が根城にしている図書室は城の五階にある。厨房がある地下まで、僕はぼんやりしたまま階段を降りて行った。
厨房と言っても人間のキッチンのように鍋や包丁はない。大きな壺と小刀、かき混ぜるための木の棒などが何種類も並んでいる。
僕たち魔物は人間のように食べ物を必要としない。食べれなくはないが、食べる必要はないため、キッチン用品が乏しいのだ。
僕は人間の生活を研究していたから赤井に手料理を振る舞うことができているが、調理に使っているのは調理器具ではなく、本来は魔法の薬を調合するための道具だったりする。
「赤井が僕に恋……」
小池が運んできた麻袋を開けると形のいいじゃがいもがゴロゴロと出て来た。小池は人間のふりをしてこのじゃがいもを市場に持っていき、人間界の情報を仕入れてくる。
つまり、スパイなのだが、赤井がうちで暮らし始めてからは市場で人間の食べ物を調達してくるという仕事が増えた。
もちろん国王に魔王討伐を命じられた勇者団の一員である赤井には彼の本当の任務は伏せてある。
「恋か……赤井が僕に……ふうん」
指先でピートに触れると、青い炎がたちまち着いた。
僕の炎は人間の食べ物を調理するには温度が高すぎるので、オレンジ色になるまで少し待たなければならない。
火が落ち着いたら壺を乗せ、そこに玉ねぎ、にんじん、じゃがいもを炒めていく。
「恋って、あれだろう?人が人を特別に大切に思ったり、こ、交尾したくなったりする……」
いい香りがし始めたら壺に水を入れて少し待つ。牛乳を入れるのは野菜が柔らかくなってからだ。
「……赤井のやつ、僕が魔王ってわかってるのか?」
その間に他のものを用意するか。
人間界ではシチューをご飯にかける派とシチューにパンを浸す派に分かれると聞いたことがある。
赤井はどっち派だろう。
「どっち派でもいいけど、人間が魔王に恋しちゃダメだろ。なあ?」
眷属のぬいに聞いてみたが、ぬいはない首を傾げて僕を見上げるだけだった。
恋という言葉の意味さえ、ぬいには教えていなかったかもしれない。魔物には必要ない概念だから。
でも、僕は、ずっと恋に憧れていた。
厨房の棚には薬草を保管している小壺がいくつも並んでいる。その中に一つだけ、ずっしりと重いのがある。
これには人間界の金貨が入っている。もしも僕が恋をしたら、その相手のために使おうと貯めてきた恋貯金だ。
「ぬい、赤井にパンがいいか、米がいいか聞いて来てくれ」
「ぬっ」
ぬいが厨房を出て行ってから壺の蓋を開けてみる。何度も磨いてから仕舞った金貨は土でできた壺の中でキラキラと輝いていた。
「赤井……何を贈ったら喜んでくれるかな……」
前に読んだ小説では花を贈っていた。花を嫌う人間はいないらしいが、人間界の花は魔界ではすぐに枯れてしまう。
もっと形に残るものがいいな。赤井がずっと僕を覚えていられるようなものが……。
「明日は僕、ちょっと出掛けてきます」
夕食の席でそう伝えると赤井は「ホオ」といつもと変わり映えしない返事をした。
「人間界に用事ができたので。何か必要なものがあればついでに買ってきますよ?」
「俺も手伝おうか?」
「そういうわけには……会う約束をしている相手がいるので」
湯気を吹いてスプーンを口に運んでみたが、シチューは味がしなかった。
人間の食べ物は大抵美味しいのに不思議だ。人間は風邪を引くと味覚が鈍くなるらしいが、こういう感じなのかもしれない。
赤井を人間界に連れて行きたくないと思っていることに自分でも驚いている。
彼には家族も、仕事も、仲間もいる。魔界にいるほうが不自然で、僕は赤井を見るとドキッとすることもあるのに、赤井が僕の城からいなくなることを『嫌だ』と感じている。
「人間界に仲間がいるのか?」
「黙秘します。魔界を出て人間界で暮らしているのはあなたの父親だけではない、とだけ言っておきましょう」
「なるほど」
僕が明日会う相手について知りたいようだったが、僕が話す気がないとわかると赤井もシチューを口に運び始めた。
「とにかく……赤井は留守番しててください」
言い切った後でちらりと赤井を見ると、僕が出掛けると言った時より明らかに驚いた顔をしていた。
「……ああ、君を待っているよ」
人間の言葉をそのまま信じるほど魔王は素直じゃない。
翌日僕は、赤井が妙な動きを見せたらぬいに知らせるようテディに言いつけてから城を出た。
城の四方を囲う森を太陽を目印に歩いて行けば人間界に出る。
半径十キロほどの森にはおばけキノコや笑いカボチャがたくさん生えているため、人間の赤井がここを超えるのは骨が折れたはずだ。
赤井たち勇者一行が国王から魔王討伐を命じられた原因もこの森だった。
僕は魔王になる前から家庭菜園が趣味で、魔王城で暮らし始めてからは森を耕して魔界の植物を育ててきた。
これが思いのほかよく成長し、植物が人間界まで伸びていたらしい。
魔界植物が人間界に向かって蔓を伸ばす様子を見た境界警備隊は「魔王が人間界に侵略を企んでいる」と国王に報告。それで国一番の銃の腕前を持つ赤井をはじめとする人間界の強者でパーティーが組まれたらしい。
「馬鹿馬鹿しい」
吐き出すようにそう言うと足元で金切り声を上げていた悲鳴コスモスがシュっと花びらを閉じた。
「驚かせてごめん、君に言ったわけじゃないんだ」
花は僕の機嫌を伺うように少し花を広げ「キイ?」と小さく鳴いた。
人間もこうすればよかったんだ。
事前に魔界の植物が人間界にまで繁殖している真意を尋ねられていたら、僕はこう答えただろう。
『思いのほかよく育っただけです。ご迷惑をお掛けして申し訳ない。すぐに撤去します』
それなのに、いきなりどう見ても強そうなオーラを放っている者たちを差し向けてくるから僕だって……
「僕が魔王です。驚きましたか……?」
不敵な笑みを浮かべて勇者一行を出迎えてしまったんだ。
僕は魔界のモンスターたちを守る義務がある。
魔王として負けわけにはいかない。
勇者たちの前にちょっと大きめの雷を落として見せ、明らかにぼ~っとしていた赤井を人質にとった。
彼らが魔王討伐を企てた理由を聞き出し、僕からのメッセージを人間界の伝えさせるつもりだった。それなのにのに、赤井が僕の城に留まると言って聞かなかった。
結局、王には僕から手紙を出した。人間界への侵略の意図はないことと共に『赤井という男は僕の城で元気に暮らしています。安心してください』と書かなければならなかった魔王の気持ちを考えてみて欲しい。
森を抜けると急に視界が開け、僕は目を細めた。
川面はキラキラと陽光を反射し、草花は風にそよぎ、オレンジ色のカボチャは黒い口を広げることなくただ静かに収穫を待っている。
最後に訪れてから二十五年が経っていても変わらぬ景色に目を細めつつ、僕は頭巾をかぶって角を隠した。
変身術を使えば二本の角は引っ込めることができるし、別人に成りすますことだってできる。
しかし頭の角は触覚の役目を果たしているので、ひっこめてしまうとピンチに気が付くのが遅れてしまう。
それに、これから会う相手は変装術に長けているから、変装することにあまり意味はなかった。
僕はまず、赤井から頼まれた本を手に入れるために本屋へ向かった。
なんでも『ホームズ』とかいうシリーズが面白いそうで「君にも読んでもらいたい」と赤井は言っていた。
僕も人間界の本にはとても興味がある。
しかし本屋に来るのも二十五年ぶりだ。最近はもっぱら部下に買って来てもらってばかりだったのだが、人間界の書店の独特な匂いに鼻先を擽られると当時の記憶が蘇って来た。
漫画という形態の本が流行していて、子どもたちが店主の目を盗んで立ち読みをしていたっけ。
木製のドアを開けると『立ち読み厳禁』というポスターが貼られていた。
二十五年前も同じ文言が張り出されていたと記憶している。いつの時代も人間が考えることは変わらないようだ。
僕は店を一通り見て回ってから赤井オススメの本の前に戻った。シリーズを全て買って帰るつもりで一巻を手に取って裏を見た。
「エッ」
た、高い……!
控えめに言って三倍に値上がりしている。人間界で物価が高騰している話は聞いていたが……
「まさか、ここまでとは……」
「お客さん」
「は、はい」
振り返ると老女が立っていた。目元のホクロから考えるに、雰囲気は随分と鋭くなったが、ここの店主の妻だろう。
「買うの、買わないの」
「えっと」
僕が言い淀むと彼女は頭巾の中の僕の顔を覗き込んだ。
「持ち合わせが足りなかったので出直します」
「そうかい……」
老女はそう言って会計席に戻って行ったが、僕が書店を出るまで僕から視線を逸らさなかった。
本があれだけ高価になっていることを考えると、窃盗を企てる輩がいてもおかしくない。そこへ紫色の頭巾をかぶった怪しい奴が現れたのがから警戒するのは当然だ。
「人間も大変だな」
大変なのは僕のお財布もだった。
さっきは持ち合わせが足りないと言ったが、全巻セットを買えるだけの貯金はあった。
ただ、それを買ってしまうと、僕からの赤井へのプレゼントを買う資金が足りなくなる可能性があった。
「先に魔女に会った方が良さそうだな……」
僕は首から下げている薬入れを手で探った。
これには魔王城で作った薬が入っている。人間界で店を開いている魔女に買い取ってもらい、外貨を得ているのだ。
貯金箱の金貨もそうやって手に入れてきた。
二十五年前の記憶を頼りに魔女の店へと向かうと、そこには前とは違う看板がかかっていた。
「ブラック・ラビット……?」
紫と黒を基調とした看板には店名の他に黒いうさぎの耳が描かれている。
ウサギ専門のペットショップでも始めたのだろうか。
昔は惚れ薬や変身薬などの怪しい薬を専門に扱っていたのだが、時代の流れとともに業態を変えざるを得なかったのだろうか。
まだ薬を買い取ってくれるといいのだが……。
不安を胸に裏口に回ると、魔女が細い煙草から紫煙を立ち上らせていた。
「ベルモット」
「あら、レイ。久しぶりね」
胸元がぱっくり開いたドレスを着た魔女が僕に魔性の笑みを浮かべる。
僕だからなんともないが、これがもし人間だったら一瞬で彼女の下僕に成り下がっていただろう。
「少し見ないうちにお店の雰囲気が変わりましたね?」
「少しってあなた、二十年あったら人間が子どもから大人に成長してるわよ?相変わらず世間知らずねえ」
小馬鹿にされてムッとしたが顔には出さなかった。この魔女の使う魔法は変わっていて要注意なのだ。それに、彼女に比べたら二百九十九歳の僕なんて子どもみたいなものだろう。
「なるほど。では今はもう薬は扱ってないのでしょうか?」
「いいえ?むしろ昔よりたくさん必要なの。種類は限られるんだけど」
「今日は惚れ薬と痔の薬を持ってきました。あとバイアグラと……」
「最高よ、レイ。ちょうど欲しいと思っていたの」
よかった、これで赤井への贈り物を買うことができる。そう安堵した僕を魔女は見逃さなかった。
「それにしても、あなたが人間界に現れるなんて。お金が必要な理由でもあるのかしら……?」
「えっと……」
僕は若気の至りでこの魔女と血の契約を交わしている。うっかり彼女の秘密を知ってしまった僕に無理矢理契約を結ばせた彼女は、僕の前で嘘を吐けないし僕も嘘を吐けない。
「そういえば、あなたのおうちに人間の男が住んでいるそうね?」
「は、はい……まあ」
「男を飼うのにお金が掛かるのかしら?」
「……そんなところです」
「ふうん。じゃあ、お金がたぁくさん必要なんじゃない?うちで働いて行きなさいよ」
「え……?」
淡い紫の唇が怪しく微笑む。
「大丈夫。人間にお酒を飲ませるだけの簡単なお仕事だから……」
魔女ベルモットから渡されたのは簡素すぎるお仕着せとウサギの耳の形をした頭飾りだった。
人間に酒を飲ませると言っていたから街の酒場のようなものを想像していたが、店内に入ってみると想像していたよりもずっと広く、椅子は柔らかな毛並みに覆われていて、低いテーブルの下には椅子よりも毛足が長い絨毯が敷かれていた。
そのどれもが薄紫を基調としていて、どこか秘密めいた印象がある。
「えっ、開店は夜なんですか?」
「そうよ。何か問題でも?」
「……人間に留守番をさせているんです」
「あっはっは!あなたって、本当に面白いボウヤね。魔王のくせに人間に留守番をさせるなんて」
ベルモットはそう言うと指先で僕の角に触れた。
「あ、ちょっと!」
「耳があるのに角があったら変でしょう?」
魔女は変身術の達人で、魔王である僕の角でさえ簡単に隠してしまえる。
今の僕は魔族から見ても人間から見ても、ウサギの耳を付けた薄着の男にしか見えないだろう。
まいったな、触覚である角を隠されると城と連絡を取ることすらままならない。
仕方ないのでお供のぬいを一体、裏口から逃がして赤井に遅くなると伝えさせることにした。
人間界の時間の流れは魔界のそれよりもずっと早い。
椅子のガタつきを直したり、ランプの煤を拭っているうちに、開店時間になっていた。
店には僕以外にもウサギの恰好をした男女が増えていた。バニーボーイ、バニーガールと呼ばれる給仕係なんだそうだ。人間にたっぷりお酒を飲ませて金貨を巻き上げるために、隣に座って付きっきりで酌をするらしい。
なんで魔王の僕がこんな仕事を、と思わなくもないが、一晩で僕の貯金箱に入っている金貨が倍になると言われれば魔王だってウサギにでもなる。
「さあ、お客様がご来店よ。たくさんかわいがってもらいなさい」
魔女がそう言うとドアが開き、人間の男女が入って来た。どうやら女が主で男は従者のようだ。
「ごきげんよう、ベルモット。今日は素敵な男の子がいるんですって?」
「ええ、そうなの。トール、こっちに来てちょうだい」
魔女は上顧客らしき女性の前に僕を呼んだ。赤井よりいくらか年上だろうか。
「こんばんは、マダム」
愛想のいい笑みを浮かべながら名刺を渡す。といってもこの店のコースターに名前を書いただけのものだが。
「まあ、本当に綺麗な子。トールというのね。私が初客だなんて幸運だわ」
マダムは指で僕の首をなぞった。その付け根には宝石をちりばめられた指輪が嵌められていて、年齢のわりに白く柔らかな手を彩っている。
相当な金持ちなのだろう。
でも、どう見ても大した量の酒を飲めるようには見えない。
店の給与は時給の他に歩合があって、客に酒を飲ませた分だけ多く賃金を受け取ることができる。
せっかく働くのだから、もっと麦酒をジョッキでゴクゴク飲むような大男の相手をしたいものだ。
「トール、お客様を席までご案内して」
「はい……」
とはいえ、客の選り好みができる立場じゃない。
僕は魔王だけどこの時間はしがないバニーボーイでしかないのだ。
マダムをテーブルまで案内すると、従者は「またお迎えに上がります」と言って店を出て行った。
「さて、何を頼もうかしら……」
そう言いながらマダムは僕を見ている。
「何がお好きですか?昨年カボチャが豊作だったので、スクワ酒の新酒が人気のようですよ」
「あら、あんな子どものお酒が好きなの。ふふ、見た目もボウヤだけど中身もかわいらしいのね」
マダムに鼻で笑われて、僕は頬が引きつるのを覚えた。
顔が幼いのは魔力が豊富な証拠だ、なんて言い返せるわけない。
でもこの店で働いているのはほとんどが魔物だ。おそらく魔女と何かしらの契約をして働かされているのだろう。
「私のかわいいトールのためにカボチャの馬車をお願い!」
マダムが声高にそう言うと店内にどよめきが起きた。
いつのまにか店のテーブルの半分に客が入っていて、それぞれにウサギの恰好をしたスタッフに給仕をさせている。
そんな店内を横目にマダムと世間話をしていると、店の奥から特大のカボチャが運ばれてきた。
まさか、これって……!
「姫!カボチャの馬車が到着しました!」
店員の一人が跪いてそう言った。
店の中央へとマダムをエスコートせよ、と僕の耳元で魔女が言う。といっても彼女の姿はどこにもない。きっと店の奥で優雅に過ごしているのだろう。
言われた通り中央へ行くと、カボチャは中がくりぬかれていて並々とオレンジ色のスクワ酒が注がれているのがわかった。
「さあて、カボチャの馬車で姫と王子のご出発でぇ~~~す!よいちょ!」
いや、僕、魔王だけど。
「よいちょ!」
「よいちょー!」
店のいたるところから謎の掛け声が上がる。それとともに姫と呼ばれたマダムが盃を掲げ、注がれていたスクワ酒を一気に飲み干した。見た目からは想像できない飲みっぷりだ。
「はあ~この一杯のために生きてる~~!さあ、トールあなたも飲んで!」
「は、はい」
僕が五杯飲むうちに、彼女は日々の暮らしの愚痴を吐き出しながらスクワ酒を七杯飲んだ。へべれけになったところで先程の従者が迎えに来て、抱えられるようにして店を出て行った。
「トール、あなた初日にしてはやるじゃない」
「はあ」
これと言って何かしたわけではないから褒められてもピンと来ない。
「結構歩合が付いたけど、もっと稼ぎたい?」
「そりゃあ、まあ……滅多に来ませんから、外貨を稼げるだけ稼いでおきたいとは思いますけど」
「そう……じゃあ今度はあの個室に行ってちょうだい。あそこには『特別』なお客様がいるの。かなりいいお金になるわよ」
その部屋は店の一番高い場所にあった。螺旋階段を上った先にあり、一面がガラス張りになっている。部屋からは店内を見下ろせるのだろう。いかにも特権階級が好みそうな造りだ。
僕が入室するとちょうど別のウサギ(スタッフ)が部屋から出てくるところだった。相当酔っているのか、すれ違っただけなのに酒の濃い匂いがした。
「おお!見慣れない顔のウサチャンだな?」
「は、はじめまして、トールです」
黒いなめし皮で出来た下着のような形のお仕着せから名刺を取り出そうとすると、部屋の中にいた男に手を掴まれてしまった。
「は!?」
「おお、引き締まったいい尻だ!」
男は僕を引き寄せるとその勢いのままパン!と尻を叩いた。
信じられない!これまで一度もそんなところぶたれたことないのに!
「や、やめてください、暴力は!」
「へへへ、初々しいなあ」
男は鼻の下をこれでもかと伸ばして僕を見ている。
「ベルモットを呼びますよ!」
「そうだなあ、そうしよう!」
男が柏手を打つと同時にドアがノックされた。
しかしドアの向こうにいたのは魔女ではなく、先程すれ違ったウサギだった。よく見ると首筋や太ももに赤い痕が残っている。彼も男に折檻されたのだろうか。
「おっ待たせしました~!恋する蜂蜜酒で~~す!」
それにしてはやけに明るい。酔っていて叩かれたことさえ忘れているのか?
「おお、これこれ!」
男は嬉しそうにグラスを受け取ると、刺さっている棒を引き抜いた。
「それは……!」
道端に落ちていそうな木の棒だが魔力を感じる。
間違いない、魔法の杖だ!
「人間がそんなものを持ってはいけない!」
慌てて止めようとした僕に向けて、あろうことか男は杖を振った。
魔王に杖を向けるとはいい度胸だ。ベルモットの顧客とはいえ、ただではおけない。魔界のメンツにかかわる。
「えっ!?」
男を取り押さえようとした僕を例のお仕着せが阻んだ。
「服が縮んでる!?」
元々面積の少ない服がさらに小さくなり、僕の身体に食い込んでいく。魔女め、お仕着せに何か仕込んだな……!
「おお~今夜はこういう趣向か」
男の脂ぎった手がむき出しになったの尻へと伸びる。
「やめろっ」
触られまいと部屋の奥に逃げると、男はさらに笑みを深めた。
「いいのかい?店中のお客に見られてしまうぞ?」
振り返るとそこは例のガラスの壁だった。下からはなにやら声が聞こえる。魔女に嵌められた僕をあざ笑っているのだろうか。
実のところ、僕は臀部にコンプレックスがある。魔物にしては丸々としていて、人間の小娘のようだと言われたことがあるのだ。僕にそんなことを言った命知らずは、そう、ベルモットだ。
「その杖を折れ!そうすれば許してやる!」
「気位の高いウサチャンだ。よし、では私にキスをしてごらん。そうすれば杖は君に渡そう」
「……わかった」
こんな男の言いなりになるのは癪だが仕方ない。まあ、キスなんて挨拶みたいなものだと赤井が言っていたし、杖さえ手に入れば男を懲らしめるのは簡単だ。
男の顔が迫ってくる。うわあ、嫌だ……。人間はよくこんな至近距離で挨拶をする気になるものだ。赤井ぐらい顔がいい男だったらいいが、こんな潰れたジャガイモみたいな顔と挨拶したら、それだけで一日が台無しになる。
ジャガイモ男の唇ととあと数センチで触れる。
そう思った時、急に発砲音がした。同時に壁のガラスは割れ、僕の体はガラス片と共に落下していった。
しかし、床に落ちる前に逞しい腕に受け止められていた。
「あれ、赤井?」
顔がいいはずの男がなぜか魔物もびっくりするような顰め面で僕を見下ろしている。
「なんでここに!?留守番を頼んでおいたじゃないですか!」
「君が怪しい店に入ったと聞いたから慌てて追いかけてきた」
「えっ……?」
赤井の肩にはぬいが、心配げな表情で僕を見ていた。
「帰るぞ」
赤井は着ていたマントを僕の肩に掛けると、魔女の店に背を向けた。
「トール、忘れ物よ~」
店を壊されたというのに楽し気な声が聞こえて振り返ると、ベルモットが僕に向かって小さな麻袋を投げた。中には想像していた倍の金貨が入っていた。
「やった!」
喜ぶ僕を、赤井はさらに強い力で引き寄せ、足早に歩きだした。
帰り道、赤井は一言も口を利かなかった。
そして城に着くや否や、僕をバスルームに放り込んだ。
「赤井っ、痛いっ、もっと優しく洗ってください!」
「お仕置きだ」
「は?なんで!?」
赤井のために働いたのにどうしてこうなる!?
「君、なんて店で働いてるんだ!」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか!!僕の仕事に口出ししないでください!」
そもそもお前が望んだ本が高いからこんなことになったんだぞ!!
僕が睨みつけると赤井はぐっと何かを堪えたような表情になった。
「すまない……職業差別をする意図はなかった。ただ、あの魔女は危ない。俺も昔、ひどい目に遭わされたんだ」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ……ちょっとしたイタズラで魔女の機嫌を損ねてな。気が付いた時には魔界の森まで飛ばされいた」
「うわあ……あれ?魔界の森って」
「そうだ、この城を囲む森だ。そこで君と出会った」
二十五年前、と言われて、すぐにあの子のことを思い出した。
おそらくまだ一桁歳であろう子どもを森の中で拾ったことがあった。
賢そうな子どもで、泣くこともなく、木の上でじっとしていた。僕が「迷子かな?」と話しかけると、僕に向かって手を広げた。その腕の柔らかさ、甘い匂い。柔らかな黒髪が僕の鼻を擽った。
危うく城に連れて帰りそうになったが、すぐに理性を取り戻し彼を人間界へ連れて行った。
「また遊びに行ってもいい?」
男の子は僕を見上げて言った。
人間にそんなことを言われたのは初めてだった。
「……うん。大人になったらね」
「やった!約束だよ!」
人間はあまりにも変わりすぎる。
生まれたての小鹿のように可愛かった子が、たった二十五年こんなにいかつい男になっていたなんて!
僕が人間の生活を研究し始めたのは、あれがきっかけだった。
部下の手前、森に人間が迷い込んだ時のためだと言い訳していたが、本当はあの子が遊びに来るのをずっと待っていたんだ。
本が好きだと話していたから人間界の本を図書室の本棚に並べた。人間の恋は彼のために買い集めた本を読んで知った。
「本当に来てくれた……」
「ああ。森に入ることは禁じられていたから、時間がかかってしまった。魔王討伐のパーティーに参加したことでやっと森に入れたんだ。まあ、俺は君に会ったら君側につくつもりだったが」
「……人間のくせに生意気」
温泉の浴槽の中で赤井の胸に背中を預ける。
赤井はいつものように僕を抱き寄せた。
親しい人間同士はこうするのだと教えてくれたのは赤井だった。
「言っておきますけど、あの店に行ったのは初めてですから。あなたが子どもの頃は薬屋だったんです。だから、薬を買い取ってもらおうと……」
「ホオ……それにしては客とキスしようとしていたように見えたが?」
「別にいいだろ……キスは挨拶なんでしょう?僕の城に来た初日に僕のベッドの中で言っていたじゃないですか」
「う」
「それにしても最近の人間はスキンシップが好きですねえ。あなたもよく僕の体に触れますけど、店の客たちも……赤井?」
まだ数分しか湯につかっていないと言うのに、赤井はまるで湯に酔ったかのように顔を片手で覆っていた。
「レイ……君に謝らなければならないことがある……」
「え?」
その夜、キスをするのも体を触るのも基本的に好いた相手だけ、恋人であっても同意がなく触れてはいけないという本当の常識を聞かされた僕は、赤井を初めて地下の厨房横にある牢屋へ放り込んだ。
でも結局、顔を見たくなってしまって牢屋で一緒に寝たことは、人間にも魔物にも絶対に言えない。
二人だけの秘密だ。