スランプと怪物(後) 夜が更けた頃、眠りの最中にあったトルペの意識がふっと浮き上がった。薄く目を開けてみると、すっかり暗くなった天井が、体の真上で視界を押し潰すように黒々と広がっていた。
夢も見ない、ぬかるみのような眠りであった。目覚めても恋心は落ち着くどころか、深い孤独感となって心を満たしていた。寂しさに寝返りを打つと、窓から月明かりが部屋の中へ滔々と流れ込んでいるのが目に入った。照らされた一帯は、まるで水面みたいに輝いている。ならばきっと、ここは夢も届かぬ冷たい水の底なのだ。夜闇の中で、トルペは泣き出しそうになった。
背中を丸めると、きゅうと腹が虚しく鳴った。思えば朝食以来なにも食べていなかった。
(何か入れておいた方が、気が紛れるかもしれない……)
のろのろと寝台から起き上がり、重たい体を引きずって、机の上を探ってみた。些か窓辺に近いそこには、置きっぱなしの恋愛小説と、使い込んだ水差しとコップ、それから木の実を入れた布袋があった。
袋は、貰った時よりも随分しょぼくれてそこにあった。中を覗くと、子リスらの食欲から逃れた木の実が、底の方に少しばかり残っている。干し葡萄を探したが、どこにも無かった。食われたはずの心臓がつんと痛んだ。
トルペは側にあった椅子に力無く座り、木の実を手のひらに出すと、適当に一つ摘んで齧ってみた。味はよく分からなかったが、ぽりぽりと、そこまで悪くない食感がした。
窓から注ぐ月光の波は、彼の足元まで迫ってその爪先を青白く濡らしている。トルペはそれを見ながら、この木の実を差し出してくれた優しい指先を思い出していた。澄んだ光は記憶によく染み通って、それが今の彼にはよくなかった。トルペは木の実を噛みながら、ぽろぽろと涙がこぼれてくるのを感じた。
(食べながら泣くなんて、子供じゃあるまいに……)
心でそう思っても、涙は空っぽの胸にさんさんと降り注いだ。意地になって、手のひらの木の実を全て口の中へと放る。ぼりぼり、がりがり。噛み砕くほどに、はらはらと涙が流れた。それが情けなくて、いよいよ嗚咽が洩れ始める。
(団長さんに、会いたい……)
トルペは泣きじゃくった。口の中の物をなんとか飲み込むも、後から海みたいな塩辛さが流れ込んで鬱陶しい。トルペはぐしぐしと袖で涙を拭うと、乱暴に水差しから水を注いで、それを煽った。しゃくり上げながらでは上手く飲めず、溢れて顎を伝った水がシャツを濡らした。けほけほと溺れそうに咳をして、そのまま机に突っ伏して、泣いた。
夢でいいから一目会いたいのに、彼をあれだけ翻弄した幻影は、今はちっとも現れてくれなかった。恨めしささえ覚えるも、追憶の中の白皙はいや増しに美しく、返ってこちらが惨めになるばかりだ。トルペが面影に縋って手を伸ばしても、その指は虚しく空を掻き、部屋には泣き声がこだまするだけだった。
月が光度を上げて、部屋の中をすっかり青く染め上げる頃、ようやくトルペは泣き止んだ。
ぐす、と鼻をすすり、夜の青さに少し眩んだ目を上げると、視線の先には月明かりに濡れたピアノがあった。今日だってこのピアノはずっと側にあったのに、もう随分長い間触っていない気がした。
しばらく泣き腫らした目でじっとそれを見ていたトルペの体が、糸で吊られるようにのろりと立ち上がった。ゆるゆる歩みを進めて、結局、いつもみたいにピアノ椅子に腰をかけた。トルペの頭から爪先までが、青白い光にとっぷりと浸った。
蓋を開ければ、そこには鍵盤が秩序正しく並んでいる。秋の夜に青褪めた、八十八鍵のモノクロームの景色を前にして、トルペの心がようやく静かになった。自分が弾かない限り、この世界はどこまでも無音である事を、彼はその静寂と相対する度に思い知るのだった。
トルペはごく自然に、盤面に指を置いた。
指を沈ませると、低い、深海のような和音が滑り出る。演奏は始まった。目の前に湛えられた水面を探るように、青年の指が動く。低い揺らぎから高い煌めきまで、何よりも簡単に、彼は世界を音で満たすことができた。
いつか星のようだと思った音は、涙の水底に細かな泡となって浮かび、夜空の月と同じ色に輝いた。聞いた者の胸に潜み、内から優しく引き裂くような、切ない音だった。今までに弾いたことのない旋律だったが、彼は少しも驚かないまま、魔術にかかったようにただ弾き続けた。
トルペは作曲をしたことがなかった。きっとこれからも無理だろうと思った。感情のままに次から次へと湧き上がる音たちを、ここへ留める術を彼は持っていなかった。そもそも孤独であった青年は、誰も聞かない音を奏でるのに慣れすぎていて、そうしたいとも思わなかった。それが幸か不幸か教えられぬまま、彼はこんな感情を抱えるに至ってしまったのだった。
浮かび流れる音の泡は、いつの間にか青年そのものの形に凝って、トルペの胸中へと深く潜った。誰にも届くことのない旋律は、それでも伝えられる何かを求めて、青暗い夜をひたすらに泳いだ。
意識の深い深い底、心臓を超えたもっと先まで行き届くと、そこに誰かの姿があった。薄紫の髪と黒いコートが、水草のように揺蕩っていた。トルペは、彼を苛む恋の姿を、自身の内にようやく見つけたのだった。
(ああ、僕の、僕の好きな人)
懐かしさに手を伸ばせば、その指先は白い波となり、鍵盤の上で静かな音を奏でた。音の泡が、燐光に似た光で彼の人の顔を照らした。
泡を纏って淡く光る恋が、団長と同じ顔で微笑んだ。本当に、なんて甘く笑う人なのだろうか。その檸檬色の瞳をもっと輝かせたくて、さらに音を重ねれば、彼の姿が青年の音を手に取って、水底で緩やかに踊るのだった。
誰も聞かない演奏は、こうして胸中の恋へと捧げられた。あくまで穏やかな旋律であった。トルペは、あの激しい奔流の内の、一条の銀糸のような痛みに気がついてしまっていた。今はもう、ただ寂しいのだ。だが青年の滑らかな頬に再び伝う涙が、恋の白い指に払われて星屑のように砕けるのを、トルペ自身、見ることはなかったのだった。
彼が正気に戻ったのは、空が白んだ頃だった。窓の外では、夜に置き去りにされた星達が、今にも空の向こうへ溶けそうになっていた。トルペは呆然とそれを見上げた後、子リスらの座っていた窓枠にぽとりと視線を落とした。
彼女は、恋は恐ろしいのだと言った。果たして今の自分は、それを否定することができるのだろうか。少し、悩む必要があった。
野鳥が高く鳴くと同時、山の端から差した日の光が、さっと彼の静寂をつんざいた。
ようやく、夢は覚めたのだった。
◆
その日の練習が終わり、他の団員達が楽器を片付けている間も、トルペは身動きができないでいた。演奏中、また例の恋の感じが蘇って、ずっと心が乱れたまま必死に弾いていたのだった。恋を見出すことと、それを物にするのとは別問題なのである。
合奏として成り立たなかったかというと、そんな事はなかった。指揮者の事は不思議と見えているもので、むしろ、指揮する指に絡め取られたように、没頭の具合は深く深くなっていた。それが尾を引いて、演奏が終わった後もずっと胸の辺りがじくじくと熱を帯びて、そこから抜け出しきれないのだった。
「ピアノ、上手になったねぇ! すごく迫力があったよ!」
帰り際なのだろう、鞄を肩にかけたタンバリンの子に声をかけられる。他にも何人かの団員に褒められて、なんとか会釈を返したが、ちゃんと笑えているか自信がなかった。視界の端に、アコーディオンの少女が怪訝そうにこちらを窺うのが見えた。自分は誰かに心配をかけてばかりだ。トルペは苦しくなって目を逸らした。
目の前のことをやり過ごしている内に、団員達のざわめきがさざ波のように引いていく。すっかり静かになった部屋の中に、トルペはぽつんと取り残されてしまった。
「──トルペ君」
呟きのような囁きのような、ひどく曖昧な声で呼びかけられる。躊躇いがちに視線を上げると、未だ指揮台の上に、団長が立ちすくんでいた。彼の耳は聡すぎた。だからトルペと同じように、胸にうつろを抱いたような顔をして、そこから動けないでいたのだった。
「トルペ君。さっきのは、良かったよ」
多分、今日の演奏のことだ、とトルペはぼんやりと理解した。でも、いつも明朗な団長らしくなかった。言葉がぶつ切れて、感情が上手く乗っていない声だった。トルペは何を言うことも出来ず、団員達にしたのと同じようにぎこちなく頭を下げた。
再び降りた沈黙の中で、先に動いたのは団長だった。指揮台を下りて、するすると糸に引かれるような、ぼやけた足取りで、トルペの傍らへと立った。
「今日は、とても素晴らしい演奏だったね。胸に迫って、今にも張り裂けるような、そんな音だった。……何か、あったのかい」
何か、を問われてしまい、トルペはとうとう団長を見上げた。二つの目が、見たことのない不思議な色を宿してぽっかりとそこにあった。これはきっと、自分の恋慕が鏡のようにそこに映ってしまって、それでこんな色なのだと、トルペは強いて思おうとした。そうとでも思わなければ、少し怖いくらいの深さが、そこにあった。
「……あの、団長さん、貴方の言うとおりでした。僕は恋をしています。僕は、僕は……」
言葉にした途端、胸を埋める熱は強い衝動へと変じた。目の前に立っているこの人を掻き抱いて、本当に自分の鼓動を、体温を、その体に飲み込ませてしまえたらと思った。だがそれを抑えているのもまた、彼との安寧を願う、透明なトルペ自身だった。だから震える声で、自分の言葉で、大事に大事に言葉を紡ぐしかなかった。
「僕は、団長さんが好きなんです」
祈りに似た、掠れた告白だった。
団長は何も言わなかった。薄紫の睫毛がその言葉を掬い取るようにゆっくり瞬きをすると、彼の瞳は幾分潤んで、夜の岸辺のように星を含んだ。
やがてトルペの金色の髪を、白い指が優しく梳いた。彼の浮かべた微笑みがあんまり透き通って綺麗だったから、トルペはあの時の月の光を思い出すのに、そう時間はかからないのだった。