【トル団】彼の名前にまつわる小品 名前といえば、トルペは自分の名前が好きではなかった。異国の言葉らしいが、調べてみれば鈍いだの間抜けだの、その意味は散々だった。元々自信のないトルペには、否定もできないのでさらに辛かった。
「響きだけなら、花のようで可愛らしいがね」
団長が言った。トルペもそうだろうと思った。この名前を付けたのは、幼い頃に亡くした母だった。だが彼女も学は無い方だったので、花の名を付けるはずが綴りを間違えてしまったのだろうと、トルペは思っていた。というよりも、そう思いたかった。
「母は、幼い僕にピアノを教えてくれた人なんです」
トルペは語った。小鳥の羽音よりも、さらに小さな声だった。
「その頃からあまり裕福ではなかったので、今の僕が覚えているのは、毎日少しずつ食べられるパンの味と、ちょっとだけ火が燃えている暖炉と、母と一緒に弾いたピアノの音だけです」
彼の小さな家にあったピアノは、音がカラコロと安っぽくて、玩具のオルゴールのようだった。それでも毎日のように鳴っていたが、父が帰ってこなかったその日だけは、母の啜り泣きしか聞こえなかった。両親の顔は覚えていないのに、そういう事ばかりよく覚えていた。
「案外、この名前も間違いではないのかもしれません。僕はいつも不器用です。大事な事を忘れながら、周りに助けられて、なんとか上手くいっているふりをするだけです。きっとこの先もずっと、そうです」
団長は目を閉じてそれを聞いていた。トルペが自嘲的に語る人生を、音楽として聞き取っているような、そんな風だった。やがて薄く目を開いたが、視線はトルペを抜けて遥かに遠く、今ではない時を見ているようだった。
「……君の本質が、本当に名前の通りだったとしよう、トルペ君。だが音楽において、鈍さも不恰好も、それは技法の一つに過ぎない。同じ表現しかできないなら、それは奏者の技量不足ではないかね」
トルペは身をすくませた。団長の言葉は、合奏練習の時みたいに堅く、真っ直ぐだった。自分の名前といえば、揶揄いの種になるか、下手な慰めを聞くだけのものであったのに、なんだか不思議な気分だった。
「まあ、本人次第でどうにでもなるということさ。期待させてもらうよ、トルペ君」
トルペの頭を、穏やかな手がいつものようにぽんぽんと撫でた。
◆
「それにしても、もしかするとチューリップかもしれない、とは。品があって良い名前ではないかい」
「……そうですか?」
トルペは首を傾げた。チューリップというのは、公園の花壇にとりあえず赤白黄色と咲いていて、時々やんちゃな子供にむしられてしまう、そんな庶民的で大したことないイメージしかなかった。
「まさか。チューリップはかつてどんな物よりも価値のある花だった。鮮烈な色と模様は多くの人々を狂わせ、その球根は投機の対象にもなったらしい。当時の経済は荒れに荒れたと聞くよ」
トルペはもっと深く首を傾げ、ついでに眉間に皺を寄せた。それだけ聞くと、品があるというよりもむしろ下品な感じだ。なんとも言えないトルペの様子に、団長は声を立てて笑った。
「まあ、そんな話もあるがね、元々あれは良い花だよ。君、チューリップが何故あの姿か知っているかい」
「姿、ですか? ワイングラスみたいな形だとは思いますが」
団長は笑みを潜めて、柔らかな、優しい眼差しになった。
「昔、ある少女が、三人の若者からプロポーズを受けた。三人はそれぞれ、家宝の冠と、剣、そして黄金を彼女に捧げた。誰も傷付けたくない少女は悩んだ末、神に願って花に身を変えてしまったという。即ち、冠は花に、剣は葉に、黄金は球根に──そして少女の純潔は、固い蕾となって現れた。これが、チューリップの原初の逸話さ」
トルペは眉尻を下げ、指をもぞもぞさせた。派手な歴史とは打って変わって、なんだかもの寂しい話である。静かな曲でも奏でたい気分だ。
「チューリップの花言葉は、楽しいものばかりではない。白いものは失われた愛を、黄色いものは望みのない恋を表す。それもこんな話を知った後だと、悲しくも美しい花言葉だと思わないかい」
トルペは目を伏せた。毎年のように見るあの花が、まるで華やかに着飾りながらも孤独に佇む少女の姿のように思えた。自分は、彼女のように優しく在ることができるだろうか。団長を見上げれば、冬の一番星みたいに澄んだ瞳と目が合った。
「……あの、団長さん。もし花になりたいと思ったら、神様に祈る前に僕の所に来てください。団長さんが花になる前に、せめてピアノの音をあげたいんです。それが、どんな形になって現れるか分からないけど……それで、あなたが花になったら、僕ずっと側に置いて、大事に大事にお世話します。だから、お願いします」
それを聞いた団長の目元が、かすかに染まった。
「君は時々、本当に不思議だね。花になるのを止めるでもなく、音を捧げて、ずっと側に置くだなんて、まるで……」
青年の真剣な表情をまともに見ることもできず、その視線は、草の萌える地面に落とされてしまうのだった。