里がえり「おい、まだかかるのか…。俺はもう保安検査場に行くぞ」
「いやぁ。空港の中ってついついお土産が多くて迷っちまうんだよなぁ…」
「散々買っただろう。お前は何百人に味違いのハリボーを配るつもりだ?」
「試合のあと…俺とお前の出る、バイエルン日本支部がする子ども向けのサッカー教室もあるだろ? 子どもってグミ好きだし…あげたら喜ぶかと思ってな!それに、南葛にも帰るし…兄貴の子供もいるだろ?それから…」
「俺はグミなんて食べない子どもだったけどな。何にしろ……あと5秒しか待たん」
「ちょっと待て! わかった!わかった! あとは機内で読む雑誌を買ったら終わりにするから……。会計してくるわ」
シュナイダーは深くため息をついて、その、あまりに大きく育ってしまった背中をやれやれ、と見送った。
若林とシュナイダーの二人は、これから、10時間以上のフライトを耐えなければならない。日本の東京に新しく建設されたという、フットボールの総合施設、Jアイランドのスタジアム。その竣工記念の特別試合に、二人揃って招待されたからである。
今は欧州リーグのオフシーズンである6月。同じバイエルンの選手である他国の選手たちも、バカンスや国への里帰りをしていて、バラバラに日本で落ち合う事になっている。二人はそれぞれ、シーズンが終わってからすぐミュンヘンで一ヶ月ほど自主トレーニングのメニューを組んでいたため、この試合が終わってからが、本当の休息のはじまりになる予定だ。
「ふぅ…待たせたな」
「自覚があるならさっさとしろ」
シュナイダーは、少し硬い声で返した。お互いに代表戦でも、CLなどでのバイエルンのアウェー試合(アジアへの遠征なども)でも、国外に出る事は多いので、今更飛行機に乗る事など珍しくも何ともない事だ。
しかし、今回ばかりは少し事情が違う。
「はぁ…それにしても楽しみだ! うちにお前が初めて来るなんてなぁ!」
そう、今回の来日で、シュナイダーは若林の実家に初めて行く事になっていた。
何も気にしていなさそうな笑顔で、若林は続ける。
「ジョンはかわいいぞ…もうおじいちゃんだけどな。お袋によると元気みたいだから、早く会いたいよ」
「……そうだな」
いつもより返しの硬い事に気がついて、彼はやっとシュナイダーを見遣った。
「…なんだお前。もしかして緊張してんのか? 今から? らしくねぇ!」
若林が、隣の固い顔を見てゲラゲラと笑い声をあげる。それにむくれてキッと隣を睨むと、若林はワリィワリィ、と肩をすくめて反省をまるきりしていないという様子で形だけの謝罪を口にした。
そう、今回の来日で、シュナイダーは若林の実家に初めて訪問する事になっていた。
あれは……いつの頃だったろう。若林がドイツにやってきてから、1年ほど過ぎた頃だったろうか。一度、シュナイダーの家に、若林が泊まりにきた事がある。もちろん、今のような親密な関係にはなっておらず、単なる居残り練習をし合うチームメイトという間柄の中の出来事で。それでも、シュナイダーはその後何度も何度も、たった短い1日を、その後の人生で反芻し続けていた。カールハインツ・シュナイダーは、その当時から、若林源三が好きだったのだ。
はじめのきっかけは覚えていない。それでも、かつて誰も止める事のできなかった自分のシュートを、たった一撃で顔面で止められた時から、彼は他の人とはどこか違うと感じていた。日々の中で、ふとした時に目で追っているのが若林だと気付いたのは、練習場の近くの森の木の葉が赤や黄色に変わって、ハラハラと舞う頃で、夏の終わりにやってきた留学生に恋していると自覚するには、あまりにも早すぎる季節だった。
普段はあまり感情を…特に、好意的な感情を表に出す事がないシュナイダーは、ついつい目で追ってしまうまだあどけないゴールキーパーの男にどのように気持ちを持っていいのか、そもそも、どう接していいのかもわからず、曖昧に若林に接した。それでも、まだその頃の若林は言葉がわからない事もあり、シュナイダーがどんな無愛想な態度を取ったとしても、意に介せず、それどころかドイツ語を話せない自分に気を使って口を開かないのかもしれないと、お人好しな勘違いをしているような節さえ見えるのだった。
「俺、これからホームステイするんだ」
ある日の居残り練習の後、何気なく若林が言った。
「見上さんがさぁ、もうハンブルクでの研修期間が終わっちゃったから、俺も家を出ないとダメになって。ドイツの他のチームも視察するんだって」
3人でボールを片付けながらだったので、カルツがそうかぁ、ゲンさん大変だなぁ、などと他人事のように返す。対して、シュナイダーは何も返せなかった。若林もそこまで深刻そうでない口調で流したので、そこからその話はウヤムヤになり、各々帰りの支度をしていつものように駅で手を振って別れた。
ホームステイすると若林に告げられた時、彼は返事すらしなかったので、多分若林はシュナイダーが自分の状況については、特に何も感想がないと思った事だろう。
でも本当は、彼はそれを聞いてからずっと考えていた。もちろん、若林がいつも家に居たらどんな感じなのだろう、ということである。朝起きた時から食卓に若林が居て、マリーやとうさんやかあさんと朝食をとる。学校へ行く時は今の所別の学校に行っているけれども、最初は慣れない道を案内する為に、若林を送り迎えしてやるかもしれないし、帰りだって練習場に行くまでに、駅で待ち合わせするかもしれない。それから、いつものように練習をして、さらに居残りで練習をして、今は駅で違うホームに分かれるところを、同じホームで駅を待つ事になるだろう。カルツに挨拶して別れた後、二人でスポーツバックを持って並んで、今日あった出来事をポツポツと話したり、練習の具合について、サッカーについて、電車が来るまで、電車が来た後も、電車の中で、シュナイダーと若林はいつもより長く会話できる。逆に、ずっと一緒にいるのだから、話す事がなくて黙っているかもしれない。それでも、ずっとシュナイダーの隣にいるのは若林で、電車を降りた後も一緒の方向に歩いていくのも若林で、一緒のドアをくぐって、同じ家で眠るのも、若林なのだ。
シュナイダーは、その生活はなんて楽しそうなのだろう、と思った。でも、思ってからすぐ、なんて幼い妄想をしてしまったんだ、と思わず頬が赤くなるのがわかった。誰に見られているわけでもないのに、ジャージのファスナーを一番上まで上げて、ゴホンと咳払いもした。電車の中の人たちは、別にシュナイダーの事を知らないので、誰もそんな事に気が付きはしない。でも、それより何より、そんな妹がもっと幼い頃に付き合ってやったおままごとのような想像をした自分自身がとてつもなく恥ずかしかった。見た事もない、きっと見る事もない、若林のホームステイ先の家族が、ずっと若林と居る事のできるその人たちの事が、とてつもなく羨ましくなった。
そしてそんな自分がすごく嫌だった。
カールハインツ・シュナイダーの中で、サッカーは絶対だった。それを揺るがすものは今後現れないだろう。周囲からもそう思われているし、自分だってそう思っている。歴史あるハンブルクのクラブのエース候補として育ててもらっている事も理解しているし、ピッチ内外で冷静沈着な性格の自分が期待されている事もなんとなく感じている。
しかし、若林と出会ってから、サッカーをしている時の自分と、ピッチを降りた時の自分は同じようでいて、少し違う人間なのだとふと気づいてしまった。
自分の中の最優先事項は変わらない。サッカーだ。世界でナンバーワンになる事がシュナイダーの中心だ。それでも、ボールを蹴っていない時の自分は普段の生活を送らなければならない。その日々の生活の中で、自分がサッカー以外にも欲求が存在する事に気付いてしまった。例えば家族と一緒の時間、例えば気持ちがいい昼下がりにサウザーと散歩すること、例えば…例えば……若林。
自分の中でも、サッカーを追い求めていれば全ての欲求が満たされると思っていたのに、あいつが目の前に現れてから俺は散々だ、とシュナイダーは駅の改札を抜けながら思った。
サッカーのプレイ中はいい。思考が研ぎ澄まされて、他の事は考える脳のスペースは1ミリも存在しない。なのに、ピッチで笛が鳴って、審判が号令をかけてから、背中から大きな手がポンと肩に乗った時…。こんなに近くにいるのに、いつだってシュナイダーは、若林が恋しいと思ってしまう。だから本当は、ずっとサッカーをしていたい。サッカーだけをして、余計な事を考えないでいたい。どうせ手に入らないものに焦がれるのは辛い。ゴールなら奪える。すべて実力で。だけど、他人は自分だけの力では手に入らないじゃねぇか。自分も、相手も、お互いに奪い合わなければ、相手は手に入らない。
いつものように不毛な事を考えて考えて、どう考えても、若林はシュナイダーを奪ってくれなそうだった。だからもう、彼は半分諦めていて、それでもまだ、やっぱり彼はそんな男だから、若林が好きなのだった。
シュナイダーが若林が家に来る事を幼稚な妄想だと切り捨ててから数ヶ月後、その瞬間は唐突にやってきた。
「来週の土曜日から月曜日まで、ホームステイ先の人がみんな居なくなるんだよなぁ。地方で親戚の結婚式だって。俺も行くかって言われたけど、知らない人の結婚式に出てもって感じだし。メシどうしよう?って思っててさ。お前、この辺でどっか安いところ知ってる?」
彼の気持ちも知らないであろう日本からの留学生は、シュナイダーの青い瞳をまっすぐ見て、何気なく言った。本当に安いメシの店を聞きたいだけ、というような雰囲気だった。しかし、シュナイダーは、突然ドクン、と心臓が自分の体に大量に血液を送り込んだのがわかって、口の中が急に乾いたのを感じ、頭の一番偉い号令を出すところが言ったのがわかった。(ここしかない!)ちょうど、その日はカルツが風邪で練習を休んでいて、歩いているのは若林とシュナイダーの二人だけだった。彼は、咄嗟に口を開いて、その時、すごく遠くの道で、バイクが走り去っていくエンジン音がブォン、としたのを今でも鮮明に覚えている。
「なら、うちに来るか?」
「えっ?」
まだ、かあさんに聞いてみないとわからないけど、と出来るだけ冷静に見えるよう、シュナイダーは続けた。若林の方を見るのが怖くて、思わず顔を伏せてゆっくり息を吐いた。顔が赤いかもしれないが、ちょうどあたりは夕日でオレンジ色に染まっている。ベタなシチュエーションだった。ティーンがテーマになっているドラマでありがちな、むしろ少し見かけるたびに食傷気味になるようなシチュエーションですらあった。それでも、外から眺めるのと、その渦中に居るのではまったく感じ方が違うのだと、はじめてシュナイダーは知った。好きな人を何かに誘うのには、こんなに勇気がいるものなのだろうか。心臓は口から飛び出してしまいそうだし、鼻の頭と頬は燃えるように熱い。体は熱いのに、恐怖心で全身が寒くて凍える時のように、震えだしそうだった。
拒絶されたらどうしよう。生きてい行けないかもしれない。後から考えたらバカみたいな出来事だが、シュナイダーは本気でその時そう思ったし、若林が何か言うまで、永遠に時間が止まったように感じた。ただ、その永遠は3秒ほど後に、案外すぐに終わってくれた。
「いいのか?」
隣で上がった明るい声に、シュナイダーが少しほっとした気持ちで顔を上げると、若林は思った以上に笑顔で笑っている。ほっとしたように、体の力が抜けてしまって、その場で溶けてしまわなくてよかった、とシュナイダーは安心した。
「あぁ。お前がよければだが…聞いてみる。カルツが泊まりに来た事もあるから」
それは事実だった。もっとも、それは二人がもっと幼い、もう何年も前の出来事だったが……嘘ではない。
「そっか。お前ん家行ってみたい!日本でも、友達の家に泊まった事なんてねェからさ。もし行けたら、なんか楽しそうだなぁ」
自分が思ったよりも、若林はこの申し出に喜んでくれているようだった。そして、若林の性格からして、そういった友人同士の気安い振る舞いをしてこなかった事が意外で驚く。
「そうなのか?」
「あぁ。まぁ、友達が居なかったわけじゃねえけど…ちょっと、そういうのは無かったから」
もしOKが出たら、日曜日の練習の休みの日の夜に懐かしいゲームでもするか、というような他愛もない話をして、ちょうど到着した駅で別れた。
帰宅してすぐに母親に話をする。もともと、若林とは試合を見に来た時などに顔見知りになっていたので、すぐに承諾をもらえた。母親としても、あまり同年代の友人とつるむ事のない息子がこのような子供らしい”お願い”をしてくるのは嬉しい事だったのだろう。何かあった時のために、若林のホームステイ先の人の携帯番号と、日本の親御さんへの連絡の仕方をきちんと聞いておいてね、と念を押されて、微笑んで頷く。
シュナイダーはこの日、当日の楽しい想像をしていたら嬉しくてなかなか寝付けず、翌日の朝少し寝坊した。髪の毛をきちんと梳かす時間がなかったため、寝癖をクラスメイトに笑われた。それでも、シュナイダーはなんとも思わなかったどころか、いつもよりも上機嫌だった。髪の毛が跳ねていようが、ほんの少し寝不足だろうが、来週の週末には若林が、シュナイダーの家にやって来るのだ。
「どうも!よろしくおねがいします!」
約束の日、若林はいつもかぶっている帽子を外して、大きな声で挨拶をしつつ、シュナイダーの母に一礼した。
「ゲンゾー、よく来たわね。ゆっくりしていってちょうだい」
「ありがとうございます!おじゃまします!!」
あ、これ、おみやげです。と、彼の母に高級菓子を手渡した。まぁ、といって母も喜んでいる。
普段のガサツな性格を見ていて気づかなかったが、この歳でドイツ留学が出来ているわけだし、若林はそこそこいいお家柄なのかもしれない。思ったよりも、母親受けのする品のいいふるまいがなかなかどうして備わっているではないか。後でみんなで食べましょう、さぁさぁ入って、とりあえずカールの部屋に行きなさい、と、若林はすんなりとシュナイダーの家の敷居をまたいだ。
「若林、お前思ったよりお上品だな」
「そうかぁ?人の家に行く時はこれくらい当然じゃねェのか?」
若林は、頭をボリボリとかいてシュナイダーに返しながら、彼の部屋に入った。
「おー、こんなところに住んでるんだな、お前」
「こんなところとは、何だ」
「いや変な意味じゃなくてさ、人の部屋なんてそんな入る事ねェだろ?新鮮って意味だよ」
ああだこうだと言いながら、若林は荷物を置いて、部屋の中をぐるりと見回した。シュナイダーは、面白いものは別に、何もない…と言って、自分はベッドの上に、若林にはデスクチェアをすすめて座らせた。普段の自分のテリトリーに、若林が居るのは変な感じだ。なんだかムズムズするというか、ソワソワするというか…嫌ではないが、やはり何だか恥ずかしい。
「あっ、これ!」
若林が机の上の写真立てを見て、嬉しそうに声を上げた。
彼が初めてハンブルクのジュニアチームでゴールキーパーとして出場し、勝利した試合で撮影したチームの記念写真だ。
「これ、飾ってるのか!俺も机に飾ってる」
嬉しそうに試合を振り返る若林を見ながら、シュナイダーは思わず微笑んだ。同じ写真を飾っていた事も嬉しい。それに、絶対に告げられないが…間接的に、自分の写真を机に飾ってくれている事もうれしい。彼が感慨にふけっていると、若林は机の上に置いてあるいろいろなものをシュナイダーに何かと尋ねては、何が面白いのかわからないけれど上機嫌に笑った。
シュナイダーの父親は仕事で家に居なかったが、今回の日曜日は試合もなく練習もなかった為、シュナイダーと若林には普通の休日だった。普段は自主練習をしにいったりしていたものだが、せっかくだから、とシュナイダーの母親が車で移動遊園地に連れていってくれる事になった。
シュナイダーの母親、妹のマリー、シュナイダー、そして若林の四人は、出店でプレッツェルやカリーヴルストなどを適当に買い、プラプラと歩いた。シュナイダーの母親は、少し礼儀正しい日本の留学生に、あれは何、これは何、と逐一説明してやって、何だか楽しそうだった。若林も若林で、へぇ、などと毎回感心してみせて、いろんな事に興味を持ってあれこれ足が向く。前に、年の離れた兄に甘やかされて育てられたと言っていたので、人から構われるのが好きなのかもしれない。ただ、これじゃあ、誰と誰のデートだかわからないな…と彼は妹のマリーと手をつなぎながら思ったが、好きな人と家族の仲が良いのは嬉しい事だ。彼は二人の背中を見ながら、久々の休日らしい休日もたまにはいいな、と思った。
日も暮れかかってそろそろ帰ろうかという頃、若林にもだいぶ慣れてきたマリーが、その大きい手を引いて少し目立ったアトラクションを指差す。
「ねぇ、ゲンゾー!あれに乗ろうよ!ねぇ、ねぇ、カールも好きだよね?」
それは、ピカピカとピンクや青に光りながらメルヘンな音を立ててグルグルと回っている、この移動遊園地でひときわ存在感を放っている、一周7分程度の小さな観覧車だった。
「あんな小さな観覧車があるんだなぁ」
若林が感心したように言った。係りの人にお金を渡すと、定員は1つのポットに二人だという。
「どうせなら、あなたたち二人で乗りなさい。マリーは私と乗ればいいわよね」
「えーっゲンゾーと乗りたい!」
マリーが若林から離れないので、母親が少し困ったように言い聞かせた。
「マリー!あなたの年じゃ、大人とじゃないと乗れないのよ」
ほら、今のうちに、と彼女はシュナイダーと若林を先に行かせた。背中の方で、マリーをなだめすかせ、乗ったら誰とでも楽しいわよ、と言い聞かせている声がきこえる。
若林が、チラリとそちらを振り返って、良かったのか?と聞いてきた。シュナイダーは少しだけ肩をすくめて、ゆっくり動きながら扉の開いたポットに乗り込んだ。若林もそれに続く。
二人用のポットは、お互いの膝頭がぶつかるどころか、足を交互に入れないとうまく座れないほどの大きさだった。
「…狭いな」
「しょうがねェ」
シュナイダーと若林は顔を見合わせて、思わず苦笑した。普通の観覧車よりもゆっくり動く個室は、扉の向こう側で鳴り響くメルヘンな音楽も相まって、不思議な非現実感を演出している。
「ここ、子どもっぽかったろう?でも、マリーが来たがっていたから…」
若林の脚の温度を自分の脚で感じながら、シュナイダーは気持ちを落ち着けるために適当な事を言った。正直、する会話なんて何でもよかった。密室で、サッカーとは関係のない場所で、若林と二人きりなんて…今後もう、味わう事のできない体験だろうとうっすら感じていた。
「そうか?移動遊園地なんて、日本にはないから色々初めてで楽しかったし」
俺は好きだよ。
彼はいたずらした後みたいに、笑って言った。
一瞬、シュナイダーは固まってから、絞り出すように、そうか…と返した。
自分の事じゃないのはわかっている。それでも、こんな密室で、相手の体温を感じながら言われてしまっては……。たまらず涙ぐみそうになる。なんて残酷で、優しい偶然なんだろう。
「シュナイダー?」
若林が、どうした?というように首をかしげてシュナイダーを見ている。彼はその事だけで、今時が止まればいいのに、と柄にもない事を思った。若林に出会って、柄にもない事ばかりだ、とシュナイダーは思う。こんな安易なシチュエーションで嬉しくて死んでしまいそうになるのも、心臓が握りつぶされそうに切ないのも、話には聞いていた。でもそれは、きっと自分のような冷めた人間には訪れない瞬間で、いつかの誰かの出来事で、そもそも全部バカみたいだと思っていた。だけど、今……そのバカみたいなのは自分で、これが恋をしているという事なのかもしれなくて、半分他人事みたいに思いながら、ずっと目の前の黒い瞳から目を反らせない事が、嬉しくて、だけどすごく辛くて叫び出したいくらいだった。
今だって、本当は若林に好きだと言ってしまいたい。早く楽になりたくて、喉の奥まで、自分の気持ちの一文字目が飛び出しかかっている。思い切ってそれを告げて、そうして、この観覧車が下についてしまう前に……体を少しだけ乗り出して、彼にキスしてみたらどうなるだろう?。若林は、俺が告白したらどんな顔をする?きっとびっくりする。それで?その先は?気持ち悪いと思われる?ギクシャクしてしまう?でも、どうだろう、もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら……
「おい、大丈夫か?ボーっとしてっけど」
もう一度、若林が彼に確認した。
「…あぁ。やっぱり、ここ狭いな」
シュナイダーは、目線を下げてつぶやいた。やっぱり彼はサッカーが……若林とやるサッカーが一番大事だったから、想像した事を1つもしないまま、観覧車はもとの位置に戻った。
「楽しかったね、カール。ゲンゾー」
帰りの車の中で、シュナイダーに体を預けながら半分まぶたのおりたマリーが言った。
「二人とも疲れてるのにありがとう。とくにゲンゾー!ごめんね、最後ほぼ子守だったわね」
「いえ、俺…ずっと弟だったので、妹できたみたいで嬉しくて……楽しかったです」
若林が、優しい顔でマリーを見て笑った。シュナイダーは、その顔を見て……少しだけ妹に嫉妬した。そしてそんな自分が、本当に嫌になった。
「楽しかったな。シュナイダー、誘ってくれてありがとう。あーあ、もう日曜日も終わっちゃうのか!」
「なんだ、改まって」
「いや、友達の家族と遊ぶ事なんて本当になかったからよぉ」
彼はシュナイダーの方に拳を突き出して、小指を立てて言った。
「プロになって、日本に遠征に来たら俺ん家にも来いよ!田舎だけどな…約束しようぜ」
「ゆびきりか?こどもっぽいんだなお前。しかも一方的だ。俺は行きたいなんて言ってない」
「いいだろ!来いよ。水がきれいだぜ。富士山の雪解け水が……」
「水がきれい?」
ぷっ、とシュナイダーは吹き出した。水がきれいな事を一番に押されて、わざわざ彼の実家に行きたいと思うだろうか。
「まぁ、考えておく。俺たちはプロには絶対になるからな。気が向いたら行ってやるかもな」
「おう!絶対来いよ」
シュナイダーが出した小指を、若林は自分の大きな小指でギュッと握りこんだ。大人になって、プロになっている頃には若林への想いも友情に変わっていてくれるだろうか。あの頃の気の迷いだったと思う事ができるんだろうか。
シュナイダーは小指だけから伝わる相手の体温を感じながら、きっとそうあってほしい、と車のシートにもたれかかって自分の中のくすぶる炎が消えてくれる事を願った。
試合も仕事の日程も全て終わり、若林とシュナイダーは新幹線のグリーン車に隣り合って座っている。
東京駅から、彼の実家の最寄の駅まではおおよそ1時間30分ほどかかるらしい。そこからさらに30分ほど車に揺られたら、やっと南葛市だ。シュナイダーは、となりの線路をものすごい速さで走っていく車体を見送りながら、後ろに誰もいないために限界まで倒したシートにもたれながら言った。
「おい!また横から追い越されたぞ。本当にこれが一番早いのか?」
「静岡ってのぞみ止まんねぇからしょうがねえんだって!」
「ノゾミ?」
「あぁ、こっちの話!黙って寝とけよ、もう」
口では悪態をつきながら、若林も限界までシートを倒して体をもたれた。時間は少しかかるようだが、いい席らしく、そこまで体が痛いと感じるわけではないから、たまにはのんびりするのもいいかもしれない。飛行機と違って映画が観れるわけでもないから、新幹線は暇だ。
「ゲンゾー、手、握れ」
シュナイダーは、若林が座っている方の手をちょっと上げて命令した。彼はあきれたように笑って、ハイハイ、とシュナイダーの手を握りこんで、体を少し起こしてその頬にキスした。
「おい、外だぞ」
「いいじゃねェか。誰もいないし、居てもみんな知ってんだから」
「……たしかにな」
ハァ、とため息をついて、若林の方に頭を寄せる。あの頃の自分に教えてやりたい。諦めるどころか、こんな事になっている。多分、若林は何も覚えていないと思うが、こうしてきちんと約束を守って実家にも連れて行ってくれるのだ。いろんな事は、すぐに諦めない方がいい。
新幹線を降りると、初老の女性と大柄な若林に似た面影のある男性が改札の向こう側に立っている。女性は初対面だが、昔から馴染みのあるハウスキーパーさんだと聞いている。男性は去年ドイツにも遊びに来た、若林の一人目の兄だった。
「兄貴!それにトメさん!来てくれてありがとう」
「源三。それにカール君!よく来たなぁ」
「ぼっちゃま、お久しぶりでございます。ますます立派になられて…」
「んなこたねぇよ!トメさんも元気だったか!」
少しは勉強中だが、まだ理解しきれない日本語が飛び交う中、少し緊張して立っていると、車で来てるからとりあえず乗ろう、とキャリーを強引にとられてしまう。サッカー選手なので自分たちの方が腕っぷしはあると思うのだが…若林にアイコンタクトを送ると、俺、弟だから、とだけ返された。つまり、いつまでも子供扱いという事らしい。
ドイツでは若年寄などといわれて、年齢よりも年長者扱いされているというのに、ここでは一番子供扱いをされているのが何だか面白くて思わず吹き出すと、ハウスキーパーさんとお兄さんが不思議そうに顔を見合わせた。
「そんでさァ源三、お前の部屋のベッドはもう小さすぎるだろ?んで、客間の布団は小さすぎるんだよ。母さんが大丈夫だっていうから別に準備してなかったんだけどさぁ。俺測ったら、お前らの身長に全然掛け布団も敷布団も合わないの。だから、敷布団は4枚引いて、たてを継ぎ足せばいけるんじゃないかと思うんだけど。上は…足はもしかしたら出ちまうかもな」
「えっマジかぁ。じゃあ、マットレスみたいなの持ってきた方がよかったァ?」
「や、とりあえず初日はそれで我慢してもらって、明日買い物ついでに買うんでもいいんじゃねえか?多分、お袋は現状を見たらポンと買うだろ。今後も来るんだし。あの人、お前らに直接何度も会ってるのに、サイズ感がさ。ちょっと離れると昔の源三ちゃんのままだから……」
「そら無理があるなハハハ……まぁ、なんならたしかに買ってもいいなァ」
何がやりとりされているかはわからないが、若林の表情がドイツに居るときとはまた違う、リラックスをしきった顔になっている。時々自分に向けてくれる事もあるが、やはり兄弟は家族なのだな…と身にしみて思ってしまった。
つらつらそんな事を思っていると、隣から手をぎゅっと握られる。家族がいるのに大丈夫か?と聞こうとしたら、「ちゃんと約束守っただろ」と小さい声でささやかれた。
「約束…?」
「何だよ覚えてねえのか?いつか俺の実家に連れてくって言ったじゃねえか」
「なっ…覚えてたのかゲンゾー」
「人をバカみたいに言うな!!ちゃんと覚えてるよ」
だけどあの頃のお前は…と、言いかけて若林に遮られる。
「観覧車のお前、かわいかったよな」
「えっ?それって、どういう…」
「ナイショ」
若林はおい、兄貴ラジオつけてくれ、と頼み、カーステレオからの聞きなれない会話が溢れだした。
最後の話をどうにか聞き出そうと若林の脇腹をつつき出したシュナイダーが、彼の家の大きさに驚いて、それどころではない状態に陥るまで、あと10分。
おわり