吾輩は猫である——とは誰が言ったのだったか。
とりあえず私も猫である。かの猫とは違って私には名前もある。《パーシィ》と呼ばれている。ワーグナーの楽劇に登場するパルジファルから名付けてくれたのだそうだ。
「私が何をしたって言うんだ、」
飼い主であるバーソロミューは公園のベンチに座り、項垂れた。
原因は住んでいたアパートを追い出された事。昨夜突然大家から「明日このアパート取り壊すから!借金で首が回らなくなっちゃった、ごめんね!アハハ!」とのこと。
バーソロミューはスーツケースに必要な物を詰め込められるだけ詰め込んでアパートを出た。
そうして今に至る。
数多いる知人に声をかけてみたものの「拙者の家ペット禁止でつ、残念〜」「お前だけなら大丈夫なんだが大家が猫アレルギーだ。知り合いに駆け合うか?弟が99人居るから部屋の一つくらい……」「猫をホテルに預けるなら家事手伝いとして一部屋貸してやる、痛い、メディア痛い!言い方が悪い?悪かった、耳!千切れる!」——私のせいで仮住まいを見つける事も出来ずにいる。
このまま私が去ればバーソロミューは簡単に住まいを見つけられるのではないか。私は猫だし、この公園でも生きていけるはずだ。
凍える様な寒さの中、人間は生きていけない。
私はバーソロミューにそんな思いをさせたくない。ああ、私が人間であれば!
「にゃ……」
「冷えるなぁ……パーシィ心配しなくて大丈夫。私は君と一緒に住みたいんだ。手離したりしない」
せめて、少しでもバーソロミューを暖めてやりたい。私はバーソロミューの膝の上に乗り身体を密着させた。
私の身体は大きいから。気持ち程度でも寒さは和らぐだろう。
「そうだね、寒いな」
バーソロミューはコートを脱ぎ、私の身体に巻き付けた。違う、そのコートは貴方の身体を守る為のものだ。私は貴方を暖めたかっただけなのに。
彼の体温が移ったコートは暖かかった。私が彼の体温を奪ってしまっている。
私は悲しくなった。彼から離れるべきだと分かっているのに、彼の優しい言葉が嬉しくて離れられずにいる。
「おや、猫だ。君の知り合いかい?」
美しい黒猫が草むらから出てきた。首輪の代わりに赤いバンダナが巻かれており、小さな十字架のブローチが付けられていた。
その黒猫にはとてもよく似合っていた。
『——君も家がないのかい?』
『家?あるよ。今はかくれんぼ中かな。割と得意なんだ。君こそ飼い主がいるのに家がないのかな?』
『そうだよ。可哀想にバーソロミューはアパートから追い出されてしまってこんな寒い思いをしているんだよ』
『ふむ。コートは自分で羽織っていればいいのに。何故人間は自分よりも我々を優先するのだろうね。馬鹿だ。馬鹿で、愛しい生き物だよ人間は』
それは私とて思う。
貴方がいなければ私は生きていけない。野良として生きていく事は出来るかも知れない。だが、貴方との愛し愛されした、素晴らしい日々を思い出しては悲しくなる日々を送らなければならない。
黒猫は私に鼻を押し付け、一通り匂いを嗅いでからコートの中に潜り込んできた。彼の瞳は綺麗な海色をしていた。バーソロミューと同じ色だった。
「おや、もう仲良くなったのかい?パーシィは仲良くなるのが上手だねぇ」
『君、パーシィって言うのかい』
『ああ。パルジファルが正式名称なんだけど、彼は私をそう呼ぶ。素敵な名前だろう?君は?』
『私はバート。ブラック・バートだよ』
バーソロミューは私とバートをコートの上から撫でた。本当は直に触れて欲しい。
だがコートを剥がそうとしない彼の優しさを感じる為、素直に受け入れた。
▪️
「バート?どこだい、バート」
バーソロミューも成人男性の中では上背のある方ではあるが、声の主は彼よりも更に大きかった。
白いダッフルコートを羽織り、手には深緑の長いマフラーを手にしていた。バートの耳が反応している所からして恐らく彼の飼い主なのだろう。
出ていかなくていいのかい、と問うと、かくれんぼの途中なんだと笑う。そういえば、先程そんな事を言っていた。
どうやらこれはいつもの事であったらしい。
「君の事じゃないのかな?黒猫さん」
「んにゃ」
男は私達の方を見て、会釈してから通り過ぎた。
バートが《かくれんぼが得意》と言うのはどうやら本当らしい。
**
しばらくして、男が戻ってきた。
手には缶コーヒーが二つ。
「失礼。うちの子とかくれんぼをしておりまして」
「そうだったのか。……君、お迎えが来たよ」
「にゃっ」
「コートの中に居たのによく気付いたね」
「可愛い尻尾が見えていましたので。私がバートを見間違うはずがない」
「へぇ、随分と愛されてるんだね、君。まぁ、可愛さならうちのパーシィも負けてないよ」
「……ふにゃあ」
バーソロミューはいつも私を可愛いと言う。それはとても嬉しい。
だが、昔彼が寝物語に語ってくれた王子様や騎士様の様に私はなりたいのに。
いつだって彼を守れる存在になりたい。この男の様な人間であれば、と何度も思った。何度も祈った。朝目覚めたら人間になってはいないか、と。
だが、現実は相変わらず私は猫で、猫としてバーソロミューからの寵愛を受けている。
よろしければ、と男はバーソロミューに缶コーヒーを差し出した。バーソロミューは礼を言い、バートと引き換えにそれを手にして暖を取った。
「宜しければ、このコーヒーを飲み干すまでお話ししませんか」
「ンッフフ、ナンパみたいなセリフだね」
「……あー、えっと、その、……ナンパです」
男の頬は赤くなっていた。
寒さによる物ではないと思う。
バーソロミューは男の言葉を冗談と受け取り、笑った。
それから色んな話をした。
男はパーシヴァル・ド・ゲールと言う名である事。私の飼い主がバーソロミュー・ロバーツであると言う事。バーソロミューが家を突然追い出されたと言う事。
その間、パーシヴァルは缶を開けようとはしなかった。
「君は飲まないのかい?」
「……浅ましいとお笑いください。その、……少しでも長く貴方とお話ししたくて」
「ナンパ師としては100点満点の答えだ」
「初めてのナンパは成功という事でしょうか」
「私がタッパもそれなりにある男だと言う事以外はね。その辺の適当な女の子にやれば連れ帰れると思うよ。……今日は冷える。もう帰った方がいい」
バーソロミューはそう言って缶の中身を一気に飲み干した。話は終わりだとでも言う様に。
けれど、私には分かる。ずっと一緒にいたから分かる。バーソロミューは絆されてしまいそうな己を律しているだけだ。
パーシヴァルと話している時のバーソロミューはとても楽しそうだった。
膝を温める事しか出来ない私とは違う。
ごめんね、と謝らせる事しか出来ない私とは違う。
私はパーシヴァルを酷く羨ましいと思った。
「貴方も一緒に来ませんか」
「……ナンパしてきた男に着いて行く程危機感が無いわけではないよ」
「ならば貴方は今夜からパーシィと2人、何処で過ごすのですか?凍える様な寒さをどう凌ぐのですか。それこそ危機感がないのでは?」
「それは……、」
「パーシィ、貴方はどうです?貴方の飼い主さんと一緒に私の家に住みませんか」
パーシヴァルは私に手を差し出してきた。
選択肢などあったものではなかった。一晩ここで過ごすだけでバーソロミューは凍え死んでしまう。
私はパーシヴァルの手を取った。厳密に言えば、パーシヴァルの手のひらに手を乗せた形ではあったけれど。
「パーシィは来てくれる様ですが……」
「パーシィ!こっちに来なさい!駄目だよ!……初対面でそんなに甘えたら迷惑がかかるだろ!」
「あ、あの、」
「うん?」
「私もパーシィです。私は迷惑だとは思っていないし、猫のパーシィも賛同してくれている。……どうかな?パーシィ2人分のお願いでも、駄目、ですか?」
パーシヴァルは私の頭を撫でながら、バーソロミューに向かって小首を傾げた。
バーソロミューがこういう仕草を好んでいる事は知っている。なにせ、ずっと一緒に居たし私がこういう仕草をすると彼は喜び私を抱き締めてくれたからだ。
パーシヴァルよりも私の方が長く一緒にいた。
パーシヴァルよりも私の方がバーソロミューを理解している。
利害の一致で今は手を組むだけだ。
「ふ、その言い方は狡いなぁ!そんな事いうなら私だってバートだよ。バート、君は飼い主さんと2人きりでいたいだろう?」
「んにゃっ!」
バートはパーシヴァルの持っていた深緑のマフラーを咥え、バーソロミューの首にかけた。
「ほら、バートも貴方の事を心配している」
「……あぁ、もう。——本当、出会ってすぐの君にお世話になるのは心苦しいんだけども……いいのかい?」
「はい!」
「もし私が盗人だったらどうするんだい」
「再発行が面倒なものだけ置いておいて下されば助かりますね。あと、バートの私物も困ります。他はご随意に」
「ンッフフ……!何だ君!そんな返答が来るなんて思いもしなかった!ちょっと君の事が好きになったよ」
「ちょっとと言わず、是非たくさんお願いします」
「アハハハハハ!じゃあ、新しい住まいが決まるまでお世話になろうかな。その間に私を口説き落としてくれたまえ!」
「最善を尽くします。どうかお覚悟を」
ちょっと、だよ。パーシヴァル。
ちょっとだけ好きになっただけだ。バーソロミューは私の方がきっともっと好きだ。
——長年一緒にいたけれど、バーソロミューが人に向かって好意を伝えているのを初めて見た。きっともっとパーシヴァルの事を気に入っていくのだと思う。
邪魔をしてしまいたい様な、したくない様な妙な心地だった。
どちらにせよ、バーソロミューの膝の上は私の特等席。それだけは譲れない。
隣なら譲ってあげてもいいよ。
隣に座って、朗らかに笑っていてやって欲しい。