目が覚めた瞬間、何やら喪失感を覚えた。
やり残した事がある訳でもない。約束をしている訳でもない。それなのに何か、大切な事を忘れている気がする。
私は念の為、携帯電話を取り出して今日の予定を確認した。だが、予定は空白だった。
何だろう、ぽっかりと胸に穴が空いてしまったかの様だ。
液晶画面の一部がボヤけてよく見えない。なるほど、あまり体調が良くないのかも知れない。私は再び布団に潜り直し眠る事にした。
着信音が鳴っている。
まただ。液晶画面がボヤけてしまっていた。
もしやこの携帯電話自体の故障かも知れない。昨今に於いて携帯電話がないと不便で仕方がない。
彼やカルナでさえも持ち歩いているのだ。
使いにくいまま放置して置くわけにもいかない。
——彼って誰だ。
私は今誰の事を想った?
とても大事な人であった様な気はする。けれど、名前も顔も思い出せない。
もしたしたら私はまだ夢の中にいるのかも知れない。大切な人の事をそう易々と忘れられるとも思えない。
再び携帯電話が鳴り響いた。
画面には《カルナ》と表記されている。私は通話ボタンを押し、応答した。
「——無事か」
「今起きた所だよ。どうかしたのかい?」
「——いや、昨夜お前と◾️◾️◾️◾️◾️◾️が激しい言い争いをしていたから気になっただけだ」
脳がその名を聞く事を拒否している。
耳では確実に捉えた筈の名前が認識出来ない。
私が他人と言い争う?昨夜そんな事をした記憶はない。それどころか、ここ最近はカルナとしか会ってはいないのだ。
「——バーソロミュー、聞いているのか」
「あ、ああ、聞いているとも!……カルナ、変な事を聞く様だけど、いいかな?」
「——何だ、お前らしくもない」
「私、何か大切な事を忘れてる気がするんだ。心当たりとか、ないかな」
「——さぁな。俺に聞くよりもさっさと◾️◾️◾️◾️◾️◾️と仲直りして聞いたらどうだ」
「それだよ、その名前がさっきから聞こえないんだ。携帯電話の液晶画面がボヤけて見えるのもきっとそのせいだと思う。私は記憶を失う程の大喧嘩をその人としたのかい?」
「——俺は、お前が癇癪を起こして怒っていた所しか見てないからな」
「私が?人前でそんな事を?」
「——恋人だからこそ、許せない事もあったんだろうよ」
「恋人?誰と誰が?」
「——お前と、◾️◾️◾️◾️◾️◾️が、だ」
私が恋人の事を綺麗さっぱり忘れている?記憶喪失なんてのは今日日アニメや漫画でも使い古されたネタじゃないか!まさか私がそんな事になるなんて!
えっ、なんで?頭でも打った?
だが、朝から感じていた喪失感の事もあり合点は言った。私はその◾️◾️◾️◾️◾️◾️を失ってしまい、物悲しいのだろう。
「——おい、バーソロミュー。着いたぞ」
「えっ?何?」
「——やはり聞いて居なかったのか。今からお前の家に行くと言っただろう」
◾️
ドアを開けると、カルナと2メートル近い男が立っていた。カルナとてそこまで小さな訳ではなかったが、男と対比してみると随分可愛らしく見えた。
「バーソロミュー!私を避けているのは分かっている。でも私は貴方と終わりたくない、どうか、もう一度話を」
「カルナ、君が言ってたのはこの人?」
「そうだ。ぐずぐずと泣いて五月蝿いから連れてきた。◾️◾️◾️◾️◾️◾️、お前何をしたんだ、バーソロミューからお前の記憶が消えているらしい」
「そこまで私は貴方を傷付けてしまったのか、許して欲しい、バーソロミュー、」
「待って待って待ってくれ、傷付けたとか言われても私には身に覚えがない!君の事も知らない!恋人らしいが、その記憶も一切ない!」
◾️◾️◾️◾️◾️◾️は酷く落ち込んだ顔をしていた。名前も知らない筈なのに、可愛い男だと思った。
「……だからと言って全てを否定したい訳でもない。とりあえず、話を聞くよ。入って」
この男と過ごした記憶はないのに、酷く懐かしい匂いがする。私はこの男の体臭を心地よく感じている。
多分私は以前にも近くで匂いを嗅いだ事がある。彼の匂いを感じる度に喪失感が埋まっていく。
「私は貴方と同じ大学で、恋人だった。男同士で、と思うかも知れない。だが、私は貴方の事がとても好きだし、貴方からも同じだけの物を貰っていた」
「それが何故、記憶を失うなんて騒動に?」
「これだ」
カルナは手にしていた紙袋を差し出した。よく見れば、形は変形し土に塗れている。
アニメの展開であれば、あれを踏んで頭を打ったりしている所なんだけど——
「これを踏んで、頭を打っていた」
「アニメの展開そのままじゃないか!そもそも何で紙袋を踏むなんて展開になってるんだ!」
「あの、……私から説明しても?」
「あ、ああ……宜しく頼むよ」
——多分義理チョコと言うものなんだろうけれど。その日は女性が挙って私にチョコレートをくれていた。世の男女が浮き足立つ日だとは理解していたし、私は女性よりも貴方からのチョコレートが欲しかった。
それで、待ち合わせをしていた場所に向かったんだけど、途中、突然女性に抱きつかれてしまった。咄嗟の事であったし、両手に荷物を持っていたものだから躱す事も出来なかった。
貴方はそれを目撃して、私に紙袋を投げつけてきた。女性は貴方の剣幕に驚いて逃げた。
それで……貴方は私の側まで来て、私の顔はもう見たくない、別れる、自分の事は忘れろ、私の事も忘れてやるから、と。
それで、踵を返した時に紙袋がちょうど貴方の足元にあり、滑って頭を強く打ち付けたんだ。病院に、と言ったんだが貴方は顔を真っ赤にして帰って行ってしまった。
「え?私恥ずかし過ぎでは?忘れるって宣言して、頭を打って、本当に忘れた?」
「そうだな。もう一度頭を打っておくか?」
「だが断る!!しかも原因は私のはやとちりじゃないか、君が傷付けた訳じゃないだろう」
「いえ。例え誤解でも貴方を傷付けた事には変わりないよ。私は全ての贈り物を拒否すべきだったんだ。どうか許してほしい」
「あまりバーソロミューを甘やかすな、パーシヴァル」
「ぱーし、ゔぁる?」
「記憶が……!?」
「いや。でもその名に違和感はない。君の事も可愛く思ってる。……良かったら、お友達から始めないか?」
先程まで聞こえなかった名前が聞こえた。
彼の名前を聞くだけで心が躍る。恋人だったと言うのは本当なのだろう。
「ああ!ああ!こちらこそ!バーソロミュー!」
パーシヴァルは私に抱きついてきた。大型犬が尻尾を振って飼い主に甘える、あの感じ。
己よりも体格の良い男に形容する言葉ではないのは分かっているが、可愛いしか出てこない。
「ところで、あの紙袋の中身どうやら貴方からの手作りの様なんだけど、私が食べてしまっていいかな?」
「私が踏んだんだろ!?もう食べられないよ、諦めたまえ」
「食べれます。食べます!!」
「また作るから!!落ちた物を食べるのはやめなさい!!!カルナ!それ今の内に捨ててくれ!」
「まかせろ。……じゃあそろそろ出発するぞ」
「どこに?」
「作り直すのだろう?材料を買いに行くに決まっている」
「じゃあ3人で作ろうか、折角だし」
そうして、私はパーシヴァルとカルナの手を取り、スーパーへと向かった。
付き合い始めってこんな感じだったなぁ、なんてぼんやりと記憶を取り戻しながら。