逆鱗にふれる 1 吟遊詩人騒動から数日経ったある日、警備隊の宿舎に続く中庭でインドラがサリエを待ち構えていた。
その日サリエは新しい武器の納品に立ち会うため、宿舎近くの倉庫へ商人を案内していた。用事か済んだサリエは、側仕えとして自分の元に残った下級貴族の使用人と庭園の改装について打ち合わせるため宮殿に戻るところだった。
「サリエ様」
「おや、どうしたんだ。今日はずいぶんと不機嫌な顔をしているじゃないか」
彫刻のような面立ちのインドラは滅多に表情を変えることはないが、顔に刻まれた陰影が今日は普段より濃く見えた。
「オルデア嬢とセレに、私が下戸であると教えたらしいですね」
「あぁ・・・・・・」
オルデアの封印されたデビュー作の中ではそのあたりの描写は省かれていたのでバレていないと思ったのだがとサリエは首をかしげた。
「あなたが一枚噛んでいることが分かったというのに、私が何もせず大人しくしていると思ったんですか?」
昔、インドラが酒に弱いという事実は秘密にしておこうと言ったのはインドラではなくサリエの方だった。
以前のインドラは自分が持つ弱い要素を徹底的に排除したがっていた。インドラが警備隊に入隊したばかりの頃は、隊員のほとんどが下級貴族出身の者で占められていた。隊員たちの多くは、入隊試験でタドールが最終的にインドラを強く推したこともあって彼の強さに感銘を受けてはいたが、一部の隊員とは確執があった。
力で認められるしか方法が無い中で、酒に弱いというのはインドラにとってみっともないことのように思えたのだろう。
克服のために酒を無理に飲もうとするインドラを同僚たちは止めようとしたが、その度に彼らはインドラの抱きつき癖の餌食となったのだった。
警備隊の仕事は危険と隣り合わせで、厄化したエクシルへの対処で命を落とすことも珍しくはない。中には耐えられず自死を選ぶ者もいる。
そのため現在ではインドラが下戸であり抱きつき癖があるという事実はサリエしか知らない秘密だった。
「なぜよりにもよって吟遊詩人志望の女性に私が下戸であるなど教えたのですか」
「もう知られても問題ないかなって思って」
タドールがインドラを気に入ったからといって彼を良く思わない貴族は多かった。併せてサロクディアの最大権力者を後ろ盾に持つサリエを疎ましく思う者たちが、インドラを陥れることによって少しでもサリエの権威を損ねようと日々悪巧みをしていた。
平民たちの希望の星であるインドラが下戸であるなど彼らに知られればどうなるか想像に難くない。
サリエは揶揄いもあったが酒を克服しようとするインドラを徹底的に邪魔することで諦めさせ、酒自体を遠ざけることによって「インドラは強い自制心のため酒を飲まない」というイメージを定着させることに成功した。
インドラがサリエから水だと言われ渡されたボトルに何の疑いもなしに口を付けたのは、サリエが自分に酒を飲ませるはずがないという信頼があってのことだった。
インドラの懐中にあるのは今まで秘密にしていたことをバラされた怒りと、サリエに対しての小さな失望。
サロクディアにおいて誰よりも信頼できる人がサリエだった。
最近起こった騒動の中での彼の言動を側で見ていて、普段の態度はとても褒められたものではないがやはり自分にとってかけがえのない存在であることを改めて自覚したインドラは、サリエを大切に思う分、こういった小さな裏切りに怒りを抱かずにはいられなかった。
「まあ、その話は言わなきゃよかったかなってボクもあとから後悔しているよ」
純真無垢なオルデアの口から飛び出した言葉のあれこれがサリエの脳内をよぎる。
確かに彼女の言う通り、隊員たちからの懇願で一時期はインドラの酒の特訓に付き合ったこともあって、泥酔したインドラに抵抗すれば腕が折れるのではないのかというくらい強く抱き締められたまま朝を迎えた回数はサリエがダントツで多い。
それを他の意味で捉えることも可能な言い回しで語られると流石のサリエも焦ってしまうのだ。
インドラが入隊したばかりの頃、見目の良い彼の顔に惹かれてちょっかいをかけたことがあるサリエではあるが、権力差がある相手をベッドに引きずり込む気は端から無かった。
せっかく平民の入隊が認められた警備隊の秩序を乱してしまうことは避けたかったし、立場上、サリエは安易に肌をさらけ出すことはできなかった。
身体が大人になったばかりの頃、下級貴族出身の使用人や平民の奴隷を誘惑し淫らな生活を送っていたこともあったが、サリエの容姿と身体を見た彼ら全員をエインが始末していると分かると、見た目が好みの相手を見つけても揶揄うことを楽しむまでに留めるようになった。
平民たちからは舞踏会で自分に逆らえない下級貴族の若者を誘惑しているのだと思われ、貴族たちからは見目の良い平民を漁っているのだと思われているが、残念なことにサリエの複雑な立場がどちらも不可能なものにしていた。
素行はよろしくなく評判も悪いが、世間のイメージとは裏腹にサリエの性生活はかなり淡泊だった。
総帥となり権力が拡大した後の宮殿でのサリエは、女王やエインの目を欺きながら協力者を探す危険な生活をしていたので特に気を引き締める必要があった。これらの事実はサリエが今でも側に置いている数人の使用人しか知らない。
「サリエ様。私に対して少しでも悪いと思っていうのであれば下戸を克服する特訓に付き合ってください」
「え、えぇ・・・・・・」
なぜそうなるんだと驚くサリエだったがインドラは有無を言わせぬ気迫で彼を壁際まで追い詰めた。
「あなただったら今更私に抱きつかれたところでなんともないでしょうし」
「ボクは君の顔を好いているんだよ? 酔って寝ているうちにボクに襲われたらどうしようとか思わないのかい?」
「長年観察していて分かりました。実際あなたは部下に手を出したことはないですよね?」
「うっ」
その事実をインドラに指摘されるとなぜだかサリエはとても気まずかった。
「それにしても、諦めてなかったんだね」
「ええ。いつかは克服しようと考えていました」
警備隊や自分の立場を脅かす貴族が一掃された今がよい機会だと思ったのだろうか。
インドラの鋼のように強い意志を曲げることはできないと悟ったサリエは、無駄なあがきを諦めてひとまずインドラに付き合うことにした。
特訓の場はサリエの自室が選ばれた。
サリエと付き合いが長いインドラだったが彼の自室に入ったことはなかった。王族が暮らす領域に警備隊長とはいえ平民が足を踏み入れることは許されなかったし、わざわざ自室を訪ねる必要性もこれまでなかったのだ。
使用人に案内されサリエの自室に通されたインドラはサリエの姿を見て身体をこわばらせた。
いつも黒などの濃い色を好み禁欲的な格好をしているサリエに、薄く白いワンピースのようなロングシャツに光沢のある生地でできた腰布を巻いただけの姿で出迎えられインドラは面食らった。しかも顔に付けているのはいつもの金属で縁取られた仮面ではなく、白いレースで編まれた繊細なアイマスクだった。
普段彼は輪郭をはっきりと縁取る強い印象を与える化粧をしているが、今の彼は白粉も塗っていない。顔の中で最も象徴的な部位の一つである唇からも紅が取られ、イルージアの花弁のような淡いピンクの柔らかそうな唇が緩い弧を描いている。
「どうしたの? めずらしい格好でおどろいちゃった? かしこまった格好するのも面倒だし部屋着のままにしちゃった」
サリエがゆっくりと近づいてくる。
シャツのスリットからサリエの脚がちらりと見える。襟ぐりも大きく開いており今まで目にしたことが無いサリエの肌が惜しげも無く晒されている。
正直、インドラはサリエを常日頃から美しいと思っていた。とは言っても彼の美貌に恍惚となる前にサリエがその饒舌さをもって彼の持つ蠱惑的な魅力を台無しにしてきた。
「ははっ。そんなに見つめられるとこっちが照れちゃうな」
「す、すまない。驚いてしまって・・・・・・」
サリエはインドラの手を引きソファーに座らせると、テーブルに置いてあるグラスに透明度の高い液体を注いだ。
香りは穏やかでサリエが普段飲んでいるものよりもだいぶ弱い酒のようだった。それよりも隣に座ってきたサリエから漂う匂いの方にインドラの意識は持っていかれる。
まずいところに来てしまったのかもしれない。
そう思いながらインドラはサリエに手渡されたグラスを手に取ると中身を一気に飲み干した。
インドラの記憶はそこで途切れた。