恒例の父への帰宅催促のため忍術学園を訪れた利子。
入門表にサインをして父がいるはずの職員室へと向かう最中、突然吐き気に襲われその場にうずくまってしまった。
学園外でなくてよかったがさすがにで嘔吐するわけにもいかない。
幸いにも強い吐き気ではないので口元を手で押さえながら水筒を取り出す。
「あれ?利子さん?」
少しずつ水を飲み進めていると背後から声をかけられ振り返ると、この学園内でも特によく知る一年は組の生徒である乱太郎、きり丸、しんべヱの3人がいた。
「こんなところでうずくまってどうしたんすか?あっ、もしかして小銭探し!?」
「そんなわけないでしょきりちゃん!」
「わかった!お腹が空いちゃって動けなくなっちゃったんだ!」
「もうしんべヱったらぁ…」
「あはは…」
いつも通りの様子の3人に少し気が楽になる。
「利子さんもしかして具合が悪いんじゃないですか?」
「そう、実は少し気分が悪くて…」
「えっそうなんすか?だったら早く医務室に行かないと」
「利子さん大丈夫ですか?動けますか?」
「ありがとう。なんとか動けそうだよ」
「あんまり酷いようなら新野先生を連れてきますから言ってくださいね」
あまり心配はかけたくなかったが、取り繕えるほどの余裕もなく素直に従うことにした。
医務室に到着すると、中では伊作、伏木蔵、そして雑渡が談笑していた。
「乱きりしんに…利子さんまで。こんにちは」
「ああ…こんにちは…」
「伊作先輩、実は利子さん具合が悪いようで休ませてあげたくて」
乱太郎が伊作に説明をする横で、利子は顔を青くして震え出した。
「わかった。乱太郎、新野先生を呼んできてくれ。きり丸としんべヱは桶と水を持ってきてほしい。伏木蔵は寝間着を用意して」
「は、はい!」
利子のただならぬ様子に伊作はその場にいる下級生に急ぎ指示を出し、みな部屋を飛び出していった。
「利子さんすみません、布団を敷くので少し待っていてくださいね。雑渡さんはそのままここにいていただきたいのですがお時間は大丈夫ですか?いや、次があってもいてください」
「わかった」
珍しく強い口調で雑渡に告げ、伊作は布団を敷き始めた。
雑渡は入口で青い顔のまま立ち尽くす利子の元へ行き、体を支える。
「大丈夫?」
「…ええ…」
「利子さん、布団と寝間着の用意が出来ました」
「ああ、ありがとう…」
利子が着替える間、一同は医務室の外へ出る。
「…あの、雑渡さん」
「なんだい伊作くん」
「利子さんは」
「「「伊作せんぱ~~~い!」」」
伊作が雑渡に話しかけた瞬間、乱きりしんが医務室に戻ってきた。
「新野先生を呼んできました!」
「桶持ってきました!」
「お水持ってきました!」
「3人ともありがとう!新野先生も突然お呼び立てしてしまいすみません」
伊作は一瞬雑渡を見たが、すぐ乱きりしんと新野の方へ向き直った。
「いえいえ大丈夫ですよ。利子さんの具合が悪いんでしたよね」
「ええ、吐き気などがあるみたいで。あと、雑渡さんにはいていただいた方がいいと思います。利子さん、入りますね」
「…ふむ」
伊作が医務室の戸を開けると寝間着へ着替え終わった利子が横になっていた。
依然として具合は悪そうだ。
新野と雑渡は利子のすぐそばに座り、きり丸としんべヱは持ってきた桶と水を利子の枕元に置いて心配そうに様子を伺う。
乱太郎と伏木蔵も医務室の中へ戻ろうとしたところ、伊作がそれを制した。
「あとは新野先生にお任せしよう。きり丸、しんべヱこちらへ。…利子さんお大事になさってください」
利子は伊作たちの方を見ると弱弱しく微笑んだ。
乱太郎たちは心配そうな表情をしていたが伊作は笑い返し、そっと戸を閉めてその場を後にする。
「ではまず、吐き気はいつごろから出るようになりましたか?今日突然ですか?」
新野は部屋の前から生徒たちが去ったのを確認し、利子へ質問を開始した。
「━━それでは最後の質問です。最後に月のものがきたのはいつですか?」
「……ひと月、以上前です」
「なるほどわかりました。うん、そうですね利子さんは妊娠している可能性が高いです」
雑渡は自身の頬に手を添え瞑目し、利子は顔を歪めて新野に向けていた視線を外した。
「…突然のことで混乱しているでしょうし少し席を外しましょうか。雑渡さん、利子さんのことお任せしていいでしょうか?」
「ええ、かまいません」
「よろしくお願いします。すぐ近くにいますから利子さんの具合が悪くなるようなことがあればすぐ呼んでください。お薬はここに置いておきますから」
新野はそう告げると医務室から早々に去って行った。
「新野先生たちに気を遣わせてしまいましたね」
「そうだね」
「学園内の誰にも私たちのことは言っていなかったんですが…善法寺くんにも気まずい思いをさせてしまった」
利子は普段と変わらない口調だが雑渡と目線を合わせることはしない。
「利子ちゃん」
「……」
雑渡は利子を呼ぶが、利子は沈んだ表情で黙り込んでしまう。
「利子」
もう一度、利子の名を呼びそっとその頬に手を添える。
「わかっていたね」
「…はい。確信していたわけではありませんが、そうだろうとは」
利子は観念したように目を伏せる。
「今請けている忍務が終わったらタソガレドキ城に来なさい。お産のサポートは全面的に行う」
「お気持ちはありがたいんですがお断りします」
ぴくりと雑渡の眉山が動く。
「何故かな」
「フリーの私が城で生活をするとなるとタソガレドキに腰を据える他ないじゃないですか。私はフリーの忍者であり続けたいんです」
利子は身を起こして正座をし雑渡の方を向く。
「子のためを思えばタソガレドキで産み育てるべきかもしれません。だけど、この子の将来はこの子に決めさせてあげたい。忍者ではない道も選択できるようにしてあげたいんです。だからどうか私の実家で子育てさせてください」
その瞳には今にもあふれんばかりの涙が溜まっている。
「お前も子も私の手の届く範囲にいてほしい。お前は名の知れたフリーの忍者だ。どんな仕事もこなし引く手あまたな売れっ子である分、恨みも相応に買っている。これからどんどん体調は変化しやすくなり腹が大きくなればもっと制限が出る。利子を私の知らない場所で喪いたくないんだよ」
雑渡はまっすぐ利子を見据えた。
「雑渡さんのお気持ちはとてもよくわかります。でもごめんなさい私…お伝えしたことは曲げられません」
三つ指をつき頭を下げる利子に、雑渡は普段より強く名を呼ぶ。
「利子」
「貴方とは一緒になれません」
「…」
「雑渡さん、貴方との子を成せて私は嬉しい。貴方にここまで想っていただけて、貴方との子を持てて幸せです」
頭を上げた瞳から一筋の涙が利子の頬を伝う。
「…私も幸せだよ。好いた女が真剣に将来を考えてくれていることも嬉しく思う」
雑渡は利子を優しく抱きしめた。
利子はこれが最後の逢瀬だと雑渡の胸の中で微笑む。
「お前と離れることは絶対にない」
「!!」
雑渡の言葉に利子は目を見開き雑渡を見上げる。
「そう一人で結論を急ぐことはない。利子は私と終わりにしたい?」
「したくないです…」
「よかった。まず、利子は客人として招くからタソガレドキ忍軍に腰を据える必要はないよ。強要する気もない。もちろん入ってくれたら嬉しいけど」
そう言うと雑渡はニヤリと笑い、利子は眉を顰めた。
「子の将来に関しては利子の意志を尊重したい。直近どうするかに関しては落としどころを見つけたい。次の利子の忍務明けに話し合おう。今日は具合が悪いところにすまなかったね」
利子はそういえば…という顔をする。
「あ…話している内に気がまぎれたみたいで随分と楽になりました」
「そう。でも大事を取ってもう少し休みなさい」
「そうします。…雑渡さん、ここに私たちの子がいるんですね」
利子は愛おしそうに自身の腹を優しく撫でる。
好いた人との子を成したことの喜びとわが子への愛おしさで利子の瞳に再び涙が込み上げてくる。
雑渡はその様子を目を細めて見つめ、口元の布を下に下げた。
「利子」
名を呼ばれた利子が雑渡を見上げると、そっと口付けられた。
「ん…」
互いの唇を優しく啄むような口付けをし、名残惜しげに唇を離す。
雑渡は当て布を上げて立ち上がった。
「もう行くよ。身体には気を付けて」
「はい。雑渡さんもお気をつけて」
戸の方へ向かった雑渡が立ち止まり振り返る。
「君のご両親への挨拶もしなければならないね。それもまた次のときに話そう」
「ええ、タソガレドキの皆さんへのご挨拶もしないと」
雑渡は頷くと、医務室から去って行った。
楽になったとはいえ本調子ではないので布団の中へ潜る。
(あとで新野先生と善法寺くんに謝らないと)
自分たちの様子を目の当たりにして気を遣わせてしまった。
きっと気まずいだろうなあと利子は申し訳なく思う。
(乱きりしんと伏木蔵くんにもお礼を言わなければ…)
具合の悪さと気疲れのせいか睡魔が襲ってくる。
(いつ死んでもおかしくないこの身に守るべきものが増えるとは)
腹を撫でその事実を噛み締めながら瞼を閉じた。