天邪鬼の皮剥ぐ 繊細な指が、太い背骨をなぞり、大きな肩甲骨に触れ、筋肉と脂肪とが詰まった皮膚を撫で上げている。
白い手が、薄明かりの中に浮かんでいる。白樺の枝のような腕は闇よりは明るく、行灯よりは暗い燐光を放ちながら肌の上で遊んでいる。
木場は煙草を灰皿に放って、その徒な手を捕まえた。いい加減、擽ったくて仕方なかったのだ。その手の感触が、というよりは、そのテの触れ合いが――男として女と対峙したときに起こる情動など、そうしたものが木場の肌には合わない。
女は、苦手だ。
別に女を抱くのが嫌な訳ではない。そうでなくては、こんな安宿で裸になって煙草など吹かしておらぬ。ただ、刑事と市民とか、或いは商売女と客とか、そうした箱書を取り去って一人の男として女に向き合うとき、どうしたらよいかどうにも見当がつかないのである。
木場はだから、箱書きなのだ。
箱の中は空である。
だからこうした、商売の枠を逸脱した愛撫のような触れ合いは好まなかった。それどころか煙草の煙より不確かな睦言すら求めたことがない。寝物語は大抵、仕事の愚痴か下らぬ世間話だ。それも大方のところ木場は無愛想に相槌を打つだけである。女には色気がないと笑われる。
「なんだよ、俺は今日はもう打ち止めだ。他の客あたったらどうだ」
自分で買っておいて素っ気ないにも程がある言い種だ。
笑われてもしようがない。
しかしそいつはツレない客に拗ねる振りをするでもなく、ただ無感情に男を見た。
「身体を――くれませんか」
唐突な強請りだった。
華奢な手が、木場の太い指から抜け出して、また木場に触れる。立派にエラの張った顎、丸太のような首筋、厚く硬い胸。皮膚の下の、肉の層を、血管を、その下の臓器を探るように執拗に手が這いまわる。
色っぽい誘惑にしてはしつこい接触に木場は当惑した。
「いや、勘弁してくれや。もう弾ァねえよ。金が足りねぇなら色付けてやるから、」
「そうではなくて」
黒い眼に木場が映っている。困惑する、硬い身体の、男のような男がいる。
木場はその眼に背を向けた。
素っ気ない男に、そいつは柔らかい身体を擦り寄せると、鳥のように高い声を木場の耳に吹き込んだ。
「交換こしませんか?」
「身体をか?」
「ええ、貴方に成るのは楽しそうです」
女の身体も、成ってみれば愉しいものですよ。
横を向くと、鼻先に笑顔があった。どうやら揶揄われているのだ。木場はもう一度煙草に火をつけて、その癪に障る顔に煙を吐いた。
そいつは咳き込んで木場から離れていった。肩が漸く軽くなった。
「馬鹿言うな。身体はひとり一つだろうが」
「ははァ、正しいですねぇ。先生みたい。もしかして教壇に立ってるんですか?」
「俺は刑事だよ。人前で小難しい理屈捏ねるのなんか柄じゃねぇ、そういう屁理屈に端から噛みついちまうしな」
「わっはは!天邪鬼だ。大層先生に嫌われたでしょう」
「今でも上にゃ嫌われてるよ。なんせ細かいことが気になる質でな」
「へぇ、意外と神経細いんですねぇ」
「意外とはなんだコラ」
甲高い声で怒鳴りつけてやると、きゃらきゃらと笑って布団に倒れ伏す。まるで利いていない。
豊かな緑の髪が白い布団の上で波打つ。
鳥の囀りのような笑い声が鼓膜を擽る。
靭やかな身体がもんどり打って痙攣する。
素っ裸で腹を抱えて笑っている。
部位だけ見れば艶かしいのに、全体はどうも色気がない。
一通り笑ったそいつは、餓鬼のように大の字に寝転んで、頭の後ろに手を組んだ。胸の膨らみも、あらぬ所も、惜しげもなく木場の眼前に曝されている。行灯の頼りない光が白くきめ細やかな肌の上を舐めた。
相変わらず色はない、しかし、独身男の眼には毒である。
木場はその辺を手繰って、モダンな柄の友禅を身体の上に放った。
「恥じらいってもんがねぇのか」
「散々見たくせに今更恥じらってんですか?別に金を取ったりなんかしませんよ。その分旦那さんを見ているから」
不躾な眼が木場の面白味のない身体を上に下に撫でまわす。木場は自分のシャツを引っ付かんで羽織った。下履きも履くと不平を言いながら鳥が笑う。確かに屈強な男の方が生娘のようで、これは可笑しい。
「ねぇ、じゃあもっとお話しましょうよ。旦那さんはどんな人なんです?」
そう、引き攣れたように不自然に口端を上げ、目を細める。その婀娜っぽい表情が、女のような仕草が、似合わない奴だと木場は思った。装う 電燈の薄明かりが木場の小さな目蓋を刺し、角刈りの上を擦り、武骨な開襟を象った。
木場の後ろで扉がのろのろと動いている。完全に閉じると、外側に掛かった歪んだ銅板がカランと音を立てた。その看板には洒落ているのか読み難いのか良く分からない字で『猫目洞』と彫られている。文字通り地下にある、場末のバーだ。
木場はこの寂れた店で他の客を見たことが殆どなかった。 あったのはそう、自分の連れか、主人に紹介された相談者くらいだろうか。
だから今日、はじめて先客というものを目撃した。
「初雁」
カウンターに身を乗り出して何やら楽しそうに話しているそいつは、先日会った私娼である。初雁とは如何にも偽名だが、木場はそれ以外の名を知らない。
「おやぁ、旦那さん!噂をすれば何ちゃらですねぇ」
「アン?なんの話だよ」
「あんたが女泣かせって話よぉ」
そう、カウンターの内側で女がグラスを呷った。琥珀酒を飲み下した表情は、眉間に皺を寄せ、うんざりといった具合である。女は電髪に彩られた可憐な顎で木場を指して文句を垂れた。
「そら、こんなつまんない男の話なんか止めてさァ、仕事したら?」
「そんな顔で男漁る気かって、潤さんが止めたんじゃあないですか」
「身体以外にも稼ぎ口はあんでしょう。山谷とか寿とかさ」
潤と呼ばれた女主人は、また安酒を手酌すると半分ほど呷った。どうも初雁が面倒なのだ。
木場は黙って初雁の隣席に移動した。座面に尻がつくかつかないかというところで、安酒の瓶とグラスがドンと出てくる。今日も酌をする気はないらしい。木場には恭しく酌をされた所で良くなるようなものもないので丁度良い。
木場が黙って飲み始めると、潤はそれを横目にどれ程木場が刑事として不良なのかという話を、心底面倒臭そうに初雁に説教して聞かせた。半ば遊びの犯罪の狂言を真に受けて大騒ぎした、とか、一般人を引き連れて独断で潜入捜査をした、とか。
当然、全て真実なので文句の言いようもない。
木場は箱書きそのもののような詰まらぬ男なのに、箱に書かれた肩書きすら満足にこなせてはいない訳だ。
そんな素行の悪い刑事評を、初雁はやはり身を乗り出してうんうんと聞いていた。そうして心底面白いという表情で、舌舐りをする。どうやら潤の警告は全く伝わっていなかった。
潤が木場の前に小皿を出した。ヤリイカの塩辛だ。暗い明かりの下でも少しばかりパサついているように見える。
「ほら、あんたも警察としてなんか言ってやってよぅ。娼婦捕まえてお説教するの好きでしょう、役人ってヤツはさ」
「あん?俺は警察らしくねぇつったのはお前だろ」
爪の良く手入れされた手がオイルライターを着けた。潤は細長い煙草で肺を満たすと、煙を空に放った。
「餓鬼なんだから」
呆れたような口振りの癖、目尻は楽しげに緩んでいる。裏腹というのだろう、恐らくは。
木場は潤の箱の中身を知らない。
カウンターの向こうから目を離すと、木場は漸くそれに気づいた。いや、木場の座る側からは丁度見えなかったのだが。
初雁の顔の右半分、目元に大きな青痣が浮かんでいた。その上引っ掻き傷のような4本線が額に深々と刻まれていた。
長い前髪に血が媚りついたまま、額はべたりと血濡れていて、手当てどころか拭った様にも見えない。
「お前、ひでえな。誰にやられた」
「イロですよ。ああ、旦那さんも何度か相手してる、立ちんぼの」
初雁は掠り傷だとでも言うように薄笑いさえ浮かべていた。木場はその笑顔が気に触った。とても笑っている場合には見えない。
「あんたのせいよ」
「はあ?」
言い掛かりだ。あの夜きり会ってはいないのに、なぜ間男じみた扱いを受けねばならぬ。
「イロと言っても偶に寝ているだけなんですがね。こないだ旦那さんとヤったって話したら浮気がどうのと始まって、客を寝盗る気か、お前みたいな変態身請けできるかと、大層怒られちまいました」
間男扱いはどうやら初雁の方らしかった。
木場は正面に向き直って安酒を注いだ。木場が何か良からぬことをしてしまった訳ではないのだが、それでも木場のせいで修羅場に陥ったというのは事実のようである。それでこの大怪我とは、直視に耐えない。
しかし初雁も初雁である。私娼同士の爛れた関係だけならともかくも、その修羅場をしかも本人の前でこうも淡々と、恥ずかしげもなく語るものだろうか。
初雁は友禅の袖を使って、えらく荒っぽい手付きで額を擦っていた。気にする為の気すら持たないような調子だ。
「痛くないから平気と思ったんですが」
「あんたの平気は平気だった試しがないのよ」
「まあ私のことはいいんですよ、それより旦那さんの」
「まァた始まった」
成程ずっとこの調子なのだ。
潤は赤い唇で煙草を咥えると、濡らした手拭いを取り出し初雁の顔に押し付けた。嫋やかな手は案外優しく初雁の傷を拭った。
その手は木場のささくれだった気を幾分落ち着かせた。酒を舐めながら塩辛をつつく。
「生臭くてただ塩辛い。乾いている。硬くて筋がある」
舌にのせた烏賊はまさにそのような味だった。
声の方を見る。
黒い眼が木場を直視している。
「お前も食べたのか」
「いや……」
「出さないわよ。この子さぁ、何出しても味ないっていうんだから」
「味はありますよぉ、うんとしょっぱいか甘いかしたのなら」
潤は黙って空の小皿に味の素を振った。初雁は特に驚く様子もなく人差し指を酒で湿らせ白い結晶を掬い取っている。本当に何時もの事なのだろう。
「人の味ならわかんのに」
不可思議な呟きだった。
肉厚の舌が指先の化学調味料を舐めとる。舌はさらにぐるりと唇を湿らせ、咥内で楽しげに働いた。
鳥の声が今度は木場を揶揄う。
「詐欺師との会話ってのはどうしてこう、人の気持ちを逆撫でするんでしょうねぇ」
木場は目を見開いた。
今夜ここに足が向いたのは、そのささくれのせいだった。
「相手の肚ん中を知った風に語ってみせて」
横を見なくとも分かる。
「図星だと思うと今度は無いことを騙って此方を誘導するんです。真っ赤な嘘ならまだしょっ引けるけれど、勘違いされただけと言い逃れできるようにしている」
黒い眼が見ている。
「そして騙された奴は騙された事にも気付かない」
木場の裡、箱の中身を黒い視線で暴いている。
ゾッとしない心地がした。
「お前のそれも、」
詐欺か?
「俺はアンタに取り憑いている」
鳥が嗤う。
「いい加減にしなよ」
二人の間に煙草色の息が吹き込んだ。
潤の白魚の手が静かに鳥の目を塞いだ。湿気た下駄男が二人に増えちゃあ酒が不味くなる、そう溜め息交じりの囁きを初雁の耳に落とした。
「嗚呼――私、今」
ごめんなさい、と短く呟いて初雁は席を立った。今にも折れそうなヒールで右足を踏み出して、そして、そのまま崩折れた。白い手が右太股を抑えている。まるで怪我でもしているかのように。
木場も思わず己の右足に触れた。そこにも青痣がある。詐欺の片棒担がされた憐れな加害者が蹴ったのだ。木場は特に気にも止めていなかった。しかし、踞る初雁を見ているとじくじくと膿むように痛みが主張しはじめた。
木場は息を呑んで初雁を見下ろしている。
まさか、その傷は木場のものなのか。
長く伸びきった濡羽色の前髪の下、脂汗が滲んでいる頬。
頬が、引き攣れたように上がる。
笑っている。
目が合った。
前髪の隙間から、黒い眼が、木場を盗み見ていた。
潤子が大きな猫目を眇め初雁を凝視した。まだ長い煙草を硝子灰皿に押し付けて、ゆっくりとカウンターをまわると、緩慢な所作で初雁の前にしゃがみこんだ。初雁はひとつ身震いして、平気だ、と口走った。
「言ったでしょう」
――アンタの平気は平気じゃない。
潤子はカウンターに戻りコースター裏にペンを走らせた。『中野区目眩坂上――』
そこまで見て、木場は目を瞑った。刑事や役人の仕事ではないのだ、化物退治は。落とす 東風が張った太股を、厚い胸板を、エラの張った顎をしとりと触っていく。
木場は肩を思い切り怒らせて地面を踏みしめた。そうして外見を強く装ったところで、風が木場を避けて行くわけでもない。ただ、肌の粟立つような冷気に負けられぬという反骨精神もまた木場には避けがたい。木場は天邪鬼だ何だと言われながらも、結局のところ、木場修太郎であることだけには反抗のしようもないのだった。
雨の匂いが近い。
木場は鼻の急かすまま、目眩坂を登った。
だらだらと土塀の続く急勾配が終わると竹藪に囲まれた古書店がある。
『京極堂』
もう目にタコが出きるほど見上げた筆書きの看板をまたしても見上げた後、裏の玄関に回った。あんな電話で呼び出されたのだ。どうせ書店は閉まっている。
玄関には見慣れた下駄の他に縫い目のある標準靴が脱ぎ散らかされてあった。木場はそれを端に揃えてから自分の底の減った革靴を脱いだ。
いつ来ても本以外のものが視界に入らぬ家である。木場などは肩幅があるから狭い廊下を両側から圧迫する書架に当たらぬよう歩くのに苦労する。
声も掛けずに開けた居間も、書物に溢れていた。床の間にも花や書でなく本が堆く積まれているのだから徹底している。隙間に押し込んだような塗りの茶卓と座布団が辛うじてこの部屋を居間として成立させている有り様だ。
床の間の前、本の谷間に上手く収まっている男がこの本屋敷の主、中禅寺秋彦である。中禅寺は三年矢の雨が降っている最中のような仏頂面で木場を労った。
「急に呼び出してすまないね。この御仁から憑き物の相談を受けたのだが――どうも旦那が必要なようでしたので」
中禅寺の視線が木場から離れ、卓の向こうへ向けられた。対面には穴の空いた空軍ジャケットを着こんだ少年が胡座をかいて居心地悪そうに俯いている。総髪をだらりと背に流し、――いやこの華奢な背は少年ではない。
「おめぇ初雁か」
「先日ぶりですねぇ、旦那さん」
初雁は強張った口元をひきつらせる様に婀娜っぽい表情をつくった。女のような仕草はやはりぎこちなく、化粧もせず男のような装いとはちぐはぐだ。
「俺は工藤雪子と言います。こんな場所で褥の名を呼ばわれるのは気が引ける」
初雁はそれだけ言って目を伏せた。中禅寺に無言で席を勧められるまま、木場は中禅寺の隣に膝をついた。
「さて。工藤さん、確認しますが貴方が取り憑いているのはこの男で間違いないのですね」
中禅寺が顎で木場の方を指した。工藤と名乗った初雁は頷いた。
「はい」
「もう一度、どのような事が起きたかお話していただきたい」
「夢ん中で俺は旦那さんになっているんです。旦那さんの目で見ているものを見て、旦那さんの体で動き回っている。そんときの俺は俺じゃない。刑事の木場その人になっている。それで取締りだの検挙だのをやっている。仕事仲間や友人と酒を浴びるほど飲んだりする。その事を不思議にも思わない。そうして、目が覚めると」
工藤は左手の甲のガーゼをしっとりと撫でた。
「夢の中でした怪我や二日酔いがこの体に」
木場は左手を握りしめた。その甲には昨日つくった引っ掻き傷がある。常なら傷とも思わぬ程、些細な赤い線が走っている。
「眠っている時だけではないのですよね」
「はい。はい……先日、」
猫目洞で偶さか出会い、呑んだときの出来事を工藤は語った。静かな、というよりは夢見心地のような浮わついた語り口で、娼婦同士の修羅場の事まで話すものだから何故か木場の方が狼狽えてしまった。
話の最中、工藤は何度か木場を見た。その白い右手が左手や右足をゆっくり撫でさすっていた。
嫌な感じの手つきだ。
話が大方終わると、中禅寺は手荒な仕草で尖った顎を撫でつつ口を開いた。
「旦那、間違いないんですね。この人は旦那の感じた味を当て、話してもいない旦那の仕事の愚痴を吐き、感染しようもない足の不調が感染した」
「ああ、そうだ。だが京極堂、そんなもんはよ、」
「少し黙っていてくれ」
中禅寺はそう言って、木場の足をつねった。木場は言われた通り口を閉じて中禅寺を睨み付けるが、中禅寺は目もくれず正面向いて顎を擦っている。
目線の先には工藤が居る。
工藤はじとりと木場を見つめていた。不気味なほど黒い眼は木場の制動だけを映している。
真っ直ぐに木場を射貫く視線。
その眼が木場の身体の裡に触れているような心地がして、嫌なものが背を流れる。
木場は、目を反らさない。
何の勝負でもないのに降りるということができない。
こちとら天性の負けず嫌いなのだ。
視線が空でぶつかっている。
「失敬」
突如、中禅寺が木場の頭を思いっきり叩いた。枯れ枝のような腕のすることだから痛くはない。痛くはないが気に障る。
「何すんだテメェ」
木場が甲高い声で中禅寺を怒鳴り付けるのと同時に、
――ガタンッ
茶卓が揺れた。
中禅寺は正面を向いている。
そこには工藤が倒れている。
卓についた右手。
後頭部を抑える左手。
白いガーゼ。
黒い眼。
眼は真っ直ぐに木場を映している。
鏡のように瞳に木場が映っている。
「成程」
中禅寺は細い手で己の痩せた頬を撫で、それから頭をがしがしと掻いた。
手荒な真似をしたと工藤にだけ謝罪をして、言った。
「やはり、僕の所見では憑き物落としを受けるのは貴方の方です、工藤さん」
「しかし、しかし取り憑いているのは俺です。あの人に乗り移っている」
「旦那、君はこの人に取り憑かれているのか?」
「いや、そんな覚えはねぇな。第一刑事なんかやって背負ってる恨み辛みなんていちいち覚えてねぇよ」
「だそうだ」
「でも、」
俺の生霊はその人に取り憑いている――
まるでそうでなくては立ち行かないとでも言うような訴えに聞こえた。中禅寺は首を横に振った。
「憑き物とは憑かれた者の裡にいるものです。貴方のそれは名付けるとすれば天邪鬼でしょう」
「天邪鬼とは、ええと。よく仏様に踏まれている?」
「まあ間違いではありません。天邪鬼は仏教においては四天王像で踏み付けにされている小鬼であり、毘沙門天の鎧の鬼でもあるとも言われています。ただし、塵袋壒嚢鈔という室町の辞典によればあの鬼は河伯という。河伯は荘子にも登場する水神です。壒嚢鈔十巻『毘沙門天ノ鎧ノ前ニ鬼面アリ。其名如何』の項で『常ニハ其ヲ河伯面ト云』とする。天邪鬼説については『子細知ヌ人ハ帯頭ヲアマノジャクカ頚ト云ハ僻言ト云云』と否定し、『或書ニ云。河伯面是ヲ海若(アマノジャク)ト云』。つまり海若の訓読みを混同したのだとしています」
常の事ながら立て板に水の解説だ。こと妖怪について語らせるとこの男は饒舌が加速する。
「じゃあ天邪鬼というのは一体?」
「天邪鬼は人に悪戯を働く小鬼です。瓜子姫という民話は存じませんか?」
「学の無いもんで」
「瓜子姫は東北の各地で伝わる童話です。瓜から生まれた瓜子姫は天邪鬼に騙されて家から連れ出されてしまう。そして木に縛り付けられるか殺されるかする」
「拉致に監禁殺害かよ、物騒な童話だなオイ」
「もっと物騒さ。天邪鬼は瓜子姫を始末するとその服や皮膚を剥ぎ取って身に付け、瓜子姫に成り代わって瓜子姫の家に帰ってしまうんですから」
「成り、代わって」
「そうです。天邪鬼はよく人の心中を読み、人真似をする鬼です。山形や茨城のある地域では山彦を天邪鬼が声真似していると言います。他にはそうですね――」
木場は天邪鬼と散々評されてきたが、当の天邪鬼の怪談をこの時はじめて知った。本心と裏腹な、素直でない化物という印象だったが、この鬼は自分自身よりかもう少し大きなものに反抗しているように聞こえる。
「民間説話に語られる天邪鬼の起源を辿ると一人の巫に辿り着く。日本書紀にも登場する天探女です。この人物は神託を伝え、その末に悲劇が起きるという役回りを演じています。神託を歪めたのだと解釈されることもある。鬼にされてしまったのはそのせいでしょう」
天邪鬼は、天に逆らう鬼なのか。
中禅寺はここでひとつ茶を啜ると、工藤に向き直った。
「貴方は神憑かりの巫のように、木場という男を自身に憑依させている状態です。であれば憑き物を落とすのは貴方ということになる」
ただし――
重々しい口調で続ける。
「僕の見たところ、天邪鬼は貴方を助けてもいる。自覚があるでしょう」
「はい」
憑き物に助けられる、とはなんとも面妖な話だ。木場は一人で少々面食らっていた。
工藤はまた黒い眼に木場を映した。
「憑依は貴方自身の苦痛を和らげる一つの防衛反応です。これを落とすのであれば今感じてらっしゃる以上に辛い目に合うでしょう。それでも、憑き物落としをお受けになりますか?」
「俺を、『普通』には、していただけぬのですか」
唐突な強請りであった。
「普通とは」
「男にはしていただけぬのですか」
「ええ」
「女にも」
「左様」
男の憂いた視線が工藤に注がれている。
「誰も、生まれもった人格を根本から矯正することはできません。壊すことは可能ですが、それは殺人と同義です。憑き物落としを受けて貴方は、貴方の人格のまま、ままならぬ身体を持って、貴方にとって冷酷な社会を生きることになる。それは如何な苦悩か私にも想像がつきませんが――決して楽な道ではない」
それでも良いか、と再度拝み屋は問うた。工藤はようやく中禅寺を真っ直ぐ捉えた。
「嫌です」
嫌だ、と工藤ははっきりと口にした。
「俺は、俺は俺らしい身体が欲しい。でも、でも!それが叶わぬのならせめて、痛みからは逃げたくありません。一番嫌いな奴から逃げ続けるのはもう、無理です。もう目を反らしていたくない、嘘を吐き続けたくない、楽でいたくない」
工藤は後退りして、それから畳の上に三つ指をつき、深々と頭を下げた。空軍ジャケットを纏う背がいやに小さく感じた。
「お願いいたします、どうか俺の天邪鬼を落としてください。俺を、俺の身体に戻してください」
「承知しました」
工藤はもう一度頭を下げた。
中禅寺は小さく頷くと、どこからか陶器の置物を取り出した。掌ほどの小さな置物がコトリと軽い音を立てて卓に上がった。球のような胴に角が二つ。腰の辺りに縦縞の模様が施されている。
小鬼だ。
「まずは、天邪鬼の憑依を旦那からこの人形に変えます。どうぞ、手にとってよく観察しなさい。その小鬼が今から貴方になります」
工藤は神妙な面持ちで人形を取り上げた。白い指先が、小さな角をなぞり、大きな丸い頬に触れ、出っ張った腹と虎縞の腰巻きを撫で上げている。触らぬ所、知らぬ部位があるのが許せぬとばかりに、手に象を焼き付けている。
ああ、と木場は合点した。初めの夜に触れられたのと同じ手つきだ。あの執拗な指の感触がまた背を這いまわるような心地がして木場は一つ身動ぎをした。
黒い眼は木場の動揺も構わず一心に小鬼を視ている。
1分か、10分か、長い時間をかけてから工藤はようやく小鬼を卓に置いた。
「憑けそうですか?」
「はい」
「では旦那はこれを持っていてください」
中禅寺はまた何処ぞから退魔と書かれた札を取り出すと、面を工藤の方にわざわざ見せてから、木場の胸に押し付けた。工藤よ見よと言わんばかりである。少し可笑しくて、笑わぬよう眉をしかめた。
考えれば可笑しくはない。
なにせ憑き物落としを受けているのはあくまで工藤なのだ。木場に札を持たせるのも工藤に対するパフォーマンスに他ならない。
木場は黙って札を対面から隠れぬように持った。
中禅寺はそれを確認した後、立ち上がった。
黒い羽織が翻る。羽織の下にはこれまた黒い着物、袖から覗く手甲も黒。羽織に染め抜きされた五芒星の紋は輝くように、白い。
「工藤さん、今から貴方から木場を落とし、代わりにその小鬼を降ろします。貴方は小鬼だけを見ていてください」
拝み屋は羽織を脱いで工藤に着せた。
そして黒い着物の袂から数珠を取り出す。
「数珠と経文は私が代わりに」
拝み屋の手が数珠を捏ねる。
ざらざらとした玉の音が書架に響く。
歌うような節をつけて呪文が唱えられる。
禰宜の祝詞とも僧侶の念仏とも違う、独特の抑揚である。日本語のようではあるが上手く聞き取れぬ。
黒い眼は静かに小鬼を見詰めていた。
黒にはよく映るのだ、像が。
鏡のように。
小鬼が鏡の中にいる。
短い呪文が終わり、数珠の音が止んだ。
「旦那、その小鬼に触れてみてくれ」
「お前の仕事じゃねぇのか」
「僕の仕事は憑き物落としだ」
いいから、と促されて木場は渋々置物に手を伸ばした。その様子を黒い眼が観察している。硬い指先が小鬼の背に触れる。黒い眼が細まる。工藤は身震いして、堪らずといったように、ほう、と息を吐いた。
「感じますか?」
「熱い、です。背中が」
「うむ」
成功したのだ。
木場はなんとも変な気分で、置物の背をなぞった。面白味もない冷ややかな陶器だ。この無機物が工藤に憑いているのだという。
「旦那、何時までそれに触れているんだ。他人の身体を断りもなく。そんなに不躾に触るものではありません」
「オメェが触れっつったんだろうが」
人の身体という言葉にドキリと心臓が強張った。
木場は慌てて手を引っ込めた。解放された小鬼は白い手に連れ去られてしまった。工藤は熱心に小鬼に構っている。木場を見向きもしない。
薄情な、とは思わない。
木場はこれでお役御免だ。ようやく面倒事から離れられて清々した。
「次はその小鬼を落として、また別のものを貴方に降ろします。準備があるので暫くここに居て下さい。旦那、貴方はここまでです。礼は後日するから、今日のところは」
「は?ここまで付き合わせて帰れって?何だそりゃあ」
「あのな、頼み事はもう終わったんですよ。だいたい刑事は非番だって呼び出しがあるんでしょう」
「そうさな、もう俺は用事なんざないわな。だから俺は俺の自由でダチの家で寛がせてもらうぜ。茶は自分で入れるから構わなくて良いぞ」
早速急須を手に取ってみせると、中禅寺は顰めっ面をさらに顰めた。この凶相に比べれば小鬼の方が遥かに優しい表情だ。
「拝み屋さん、別に旦那さんが居たって構やしませんよ」
「しかし、この先は貴方の裡、もっと深い所に触れることになります。意味はお分かりでしょう。知られたくない情報がこの男の耳に入ってもよろしいんですか」
「結構です。そもそも俺はそれを隠してもいませんし、」
小鬼に向けられていた顔が、ようやく木場に向いた。
「旦那さんはむしろ知る権利もあるんじゃないですか。なにせ一夜限りの恋人のことです」
臆面もないとはこういう態度を指すのだろう。一夜の恋人、という言葉に木場はたじろぎ、腕を組んでフンと鼻を鳴らした。
中禅寺は頭を抱えて深い深い溜め息を吐いた。
「工藤さんが宜しいなら結構ですがね。じゃあ旦那、折角いるなら準備を手伝ってください」
中禅寺は木場を伴って居間を出た。本の溢れる廊下を歩き、寝室に入る。この部屋も本が山程詰めこまれている。
あれを運んでくれ、と木場に仕事を示した。
「この先の儀式で僕は彼の人の個人情報に触れるが、その中には彼の人が法に抵触する事柄に関わっている箇所があります。ただしそれは彼の人が悪いと言い切れる内容ではない。むしろああいう稀有な例を想定していない立法府に問題があるのです」
「はあん?花売りも正直怪しいとこだが、他に何かやらかしてんのか?」
「逮捕されるとすれば彼の人ではありませんが。あの法を潜らねば生きられぬという人もいる。つまりですね」
「言いてぇ事は分かったよ。俺は今日は非番だ、仕事しに来た訳じゃない。大層な犯罪って訳でもないんなら胸に仕舞っとくよ」
「助かります」
赤い鼻緒の下駄を突っ掛けながら拝み屋は悲しそうに笑った。
「準備ができました。ついてきて下さい」
工藤は小鬼を大事に抱えて立ち上がった。今度は3人で狭い廊下を進み、母屋の玄関へ出た。本屋敷を囲う竹藪の中、踏み固められた小道を抜ける。黒い着物の背を追って木の門戸を潜るとまた竹藪に囲まれた、朱塗りの拝殿が目前に現れる。中禅寺家が代々禰宜を務める晴明神社である。
拝み屋は回廊に上がる階段に立つと後ろを振り返った。
「これより先は神域です。頭を垂れたまま進んでください。良いと言うまで決して前は見ぬように」
工藤は言われるがまま頭を垂れた。木場もその後に続く。工藤に掛けられたままの黒い羽織りの端を追って回廊を通り、拝殿のなかに足を踏み入れた。
中はシンと冷えている。
工藤は拝み屋に手を引かれ、用意されていた座布団の上に腰を下ろした。
木場は入ってきた木戸を閉め、そこに凭れた。この先、木場に出来ることは何もない。
「頭を上げてください」
工藤がおずおずと頭を上げる。
向拝の格子戸から入る光が、床の上に白く、黒く、線を描いている。光と影は黒い羽織の上を縦断する。そして桜木の姿見を照らし出す。
黒い眼は眼前の鏡台を呆然と映した。
「おかあ、ちゃん」
「これは貴方です」
拝み屋が微かな呟きを両断した。
「今からこの人を貴方に憑かせます。それで憑き物落としは終わりです。勿論、ここで止めることもできますが」
「それは嫌です」
「では始めます。先程と同じ、経文と数珠は僕が代わりに。降ろすのは貴方だ。さあ、目の前の人をよくご覧ください」
長い数珠の音が凍った空気を振動させた。低くよく通る声が呪いの文言を唱える。
白い手が羽織った黒を手繰り寄せた。
「では、左手を右手で握ってみてください」
中禅寺に促されるまま、工藤は震える手を握る。
「目の前の人はどうしていますか?」
「手を、握っています」
「どんな感触です?」
「細くて、温い。甲が痛い」
「自分の手元をご覧なさい。感触はどうです」
「同じ、です」
「そうですね。目の前の身体は貴方と通じている。貴方の動き通りに動きます。次は」
それから中禅寺は工藤に身体のあちこちを触れさせた。皮膚の感覚を隅々まで思い出させるように、執拗に。工藤は従順に指示に従った。小さな鬼はその膝の上で転がっている。
「小鬼の置物があるでしょう。取ってください」
「は、はい」
「目の前の人はどうしています」
「小鬼を、持って」
「貴方と同じですね」
「はい」
「ではその小鬼を放してください。置くのでなく、落として」
「そ、そしたら落ちてしまう」
「そうですね」
「俺は、俺は母ちゃんとは違う。こんな身体じゃ、」
工藤は憐れなほど狼狽して後退りした。鏡像の自分を、何故そのように恐れるのか。木場には理解できない。
工藤の箱の中身が暴れている。
拝み屋が蓋に手を掛けた。
「工藤雪子 さん、よくご覧なさいと言ったでしょう。目の前に居るのは母親ではありません。それは紛れもなく工藤雪子 の身体です。証拠にほら、その身体には卵巣が在りません」
卵巣がない、とは。
呆気に取られた木場を置いて、憑き物落としは続く。
「手術をしたでしょう?貴方が稼いだ金で、貴方が病院の戸を叩いて、貴方が貴方の卵巣を捨てた。その身体でやった事です」
「しかし、しかし、」
「自分自身とは思えぬほど、あっては立ち行かぬ程拒絶していた異物は、その身体にはありません。それで良いではないですか」
「良くない。良くなかった。だって何にも変わらなかった。皆が俺を、女だと言うから。こんな身体は、嫌だ」
白い手が薄い身体を掻き抱き、深く爪を立てた。背は痛々しく丸まり、眼は頑なに閉じている。
木場は居ても立ってもいられなかった。
「ま、待てよオメェ!卵巣を取ったってそりゃあ、優生の」
「そうだ。この人は優生保護法で許可されていない優生手術を受けている」
拝み屋が箱の中を暴いた。
「優生保護法は優生思想に基づいて、『健全でない』と断じた病人や障害者に必要のない手術を行い、強制的に生殖機能を取り上げています。一方で、この人のような手術を必要としているが5項の条件には当てはまらない『健全な』人間から手術を取り上げてもいるのです。それでもやり様はあるらしいが、いずれ後ろ暗いことではある。ただし、」
「国会が想定していない稀有な例ってことかよ」
「そうだ」
拝み屋は憂いた視線を小さくなった背に落とした。
見下ろされた鬼は歯噛みしているように見えた。
「ヒトの発達は段階的に進んでいく。性徴に先んじて脳の機能はある程度完成し、自己認識が形成されている。それゆえ性徴と自己認識上の性、性同一性と呼ばれるものが異なる人が一定数発生する。彼ら彼女らの存在は異常でも何でもない、生物学的なヒトの発達から見れば全く自然な存在だ」
裏腹なのは自己認識と肉体なのか。
生まれ持ってしまった自己像と鏡像との致命的な解離は裡を焼く炎となってその身を苛むという。人間では居られなくなる程に。
「お前、じゃあ女じゃなくてオナベだったのか」
「俺は女じゃあねぇです。でも、オナベでもありません」
工藤は長い髪の中で薄笑いを浮かべた。この期に及んで。
「性がないのでしたね。少なくとも女でも男でもない」
「わかるんですか、俺が」
「貴方は隠していらっしゃらないのでしょう?」
「待て待て、俺は何も分かっちゃ居ねぇぞ。生まれは女だが、男にも女にもなりたくなくて、でもどっちもって訳でもない?」
拝み屋が木場を睨む。その薄い唇が動く前に、工藤の鳥の声が語りだした。
「ずうっと、身の置き場を探していました。尋常の頃になると、男と女で別れて遊びはじめるでしょう?俺は女子の輪の端に連れていかれるんですが、同級生の気持ちが段々分からなくなってゆくのです。長じるにつれ女子と俺の溝は深まってゆくようでした。しかし俺は身体が丈夫ではないから、男の輪には到底入れなくて。みんなが身売りされたり嫁いだりしはじめても俺は家で小さな畑の世話して、父の漁についてって、母に女らしくないと嘆かれる日々でした。全部嫌になって、尋常の先生に金借りて東京に出ました」
初雁は乗ってきた汽車の名前です。恐らくは一大決心で乗ったであろう夜行の名を、いやに無感動に口にするのだった。
「一月程は先生の紹介で女工やりました。でもすぐ、辛くなった。先輩方には良くしてもらったのに。俺は、同僚と一緒に銭湯行ったり、寮で寝たり、一緒に飯食って男や子がどうこうみたいな話をしたり、そういうのがすごく居たたまれなかった。いつも何か間違っているような感じがしていました。誰も理解してくんなかったけど、すごく気持ち悪くて」
拝殿に鳥以外の声はない。中禅寺も木場も口を閉ざして、その苦しい呼吸を聞いていた。
白い手が小鬼を握りしめた。
「たまたま上野に行った時、女の格好した男娼を見て、あれは私だと思いました。それから新宿通って私と似た、オナベの人たちとも会って……性器を変える手術があるって言うから金を貯めるために娼婦をはじめたのです。変な話、仲間にも何人か居たので、女辞めるために女売ってるような人が」
「そして貴方と似たような男性の方に病院を紹介してもらったんでしたね。ただし生殖腺の手術だけをして、性器の再建はしなかった。よく説得しましたね」
「お医者様にはさ、意気地無しとか偽物だとか文句言われたけど、大枚はたいて拝み倒して、なんとか中のモン取るだけで終わらせてもらったんです。それで、暫くは良かった。やっとマトモになれたと思った、でも、何も変わっちゃいなかった」
「女扱いですか」
工藤は頷いた。良く聞くような、やりきれぬ話だった。
「女工には絶対戻りたくない。でも、女のナリじゃ男として雇ってくれる仕事なんかない。男として生きたい訳でもない。結局、女のフリして男から金を貰うけど、今度はそれがすごく辛くなってしまった。俺が俺でなくなっていくようで。身支度するのに鏡見るのも億劫になりました。でもある日、それが何ともなくなった」
無感動。
無感情。
無感覚。
本当に感じられないのだ。
その背は痛みすら、拒絶している。
とても自身とは思えぬ鏡像から目を瞑っている。
「貴方は性に関する身体の違和と女ではない人格を否定され続ける精神の苦痛に耐えかねて、無意識の内に身体感覚を閉ざしたんでしょう。味覚も嗅覚も触覚も鈍くなる、代わりに不快感も感じない。でも何も感じないのでは生きてゆくのに不便だから、貴方の無意識はもう一捻り工夫をしたのです」
「憑依か」
「そう。どうにもならなかった自分の身体の感覚だと思うから辛いのであって、他人に共感している分には他人の身体の話だ。潤さんからお聞きしましたが、旦那の前にも4、5人ほどの客相手に憑依を繰り返していますね」
「女相手もいるから、思えば憑いた奴、いや憑かせた奴は切れたことがありません。寝物語に武勇伝や愚痴をうんときいて、寝てる間に俺はその人になるんです。一晩相手のフリして起きたら元通り、それで何の問題もなかったのに」
工藤は木場をちらりと見た。
「でも、今回は、旦那さんは、何か少し違った。旦那さんのときは起きてるときも俺は旦那さんになったし、怪我もうつった。お潤さんにも不気味がられて、怖くなったから」
「それは単に情報の質と量の違いでしょうね」
工藤が拝み屋を仰ぎ見る。拝み屋は真正面からその目を受け止める。粛々と憑き物が解体された。
「それまでは相手の寝物語だけで憑依を行っていた。でも、旦那は自分語りが下手くそだ。共感できるほどの事情は聞けなかったでしょう。だから貴方は知人や仕事仲間から木場修太郎の情報を集めてまわった。愛人に頬を張られるくらい執拗にね。そして得た情報は寝物語とは比べ物にならぬほど、微に入り際を穿つ莫大で多角的なものとなった。それで憑依させるのだから当然、完成度は高くなる」
「やっぱりそういうことかよ」
憑依とは突き詰めれば思い込みのことなのだ。
拝み屋は、憑き物は憑かれたものの心の裡にいると言ったが、それは当然、妖怪がいると思い込んでいるから居る気がするというだけのことだ。そして、情報が多ければ多いほど、思い描く妖怪の象は鮮明になっていく。
工藤はこの数日の間、調査員よろしく木場の行動を洗っていたんだろう。さらに木場と直接サシで飲む。ホシに見て聞いて触れて、得られる情報は段違いだ。
それでもって木場に成り代わる。木場が味わった物の味が解る気がする、痛い所が痛い気がしてくる。ただし、工藤の目に映らぬもの、例えば茶卓の影で足を抓られた痛みなどは感じない。見えぬものは工藤の頭の中に存在しないからだ。
そうして知らず知らず、工藤は自分を騙し続けていた。
たったそれだけの話だった。
不思議など何処にもない。
木場はばつの悪い気持ちで、工藤を見詰めた。
工藤は木場から目を反らした。
拝み屋は二人の間の沈黙を十分観察してから、工藤の肩に触れた。
「やはり、ここで終わりにしますか?」
「嫌です!嫌、嫌だ。このまま何にも感じられないなら死んだ方がマシだ。でも、嫌だ、嫌なんだ。怖い、嫌だ、怖い」
男でも女でもないその人間は、恐慌状態で嫌、嫌とだけ繰り返す。悲惨な金切り声は無情に堂に木霊するだけだ。
木場はどうすることも出来ず、木戸に寄りかかってその悲しい背を見ていた。其の人の、顔を覆う白い指の隙間から、黒くギラついた眼が覗く。瞳孔は、今までにない明確な感情の色を乗せて、木場を視た。
「羨ましい――」
敵意。
首筋がゾワリとして、木場は木戸に預けていた姿勢を正した。
二体の鬼が睨み合う。
黒い男が交わる視線を切るように、立った。
男は教師のような口調で、宥めるように言った。
「少し昔話をしましょう。先程、話に出た天探女という巫の伝説です。日本書紀によれば、天探女は葦原中国平定の説話に出てきます。天照大神の命を受け葦原へ下った天稚彦に仕えていました」
黒い男が堂のなかを弧をかいて歩む。
「葦原中国っていや、国譲りだろ。建御雷神じゃねぇのか?」
「尋常の教科書じゃ大国主は喜んで国を譲ったように書かれているが、本来はもっと紆余曲折があるんです。なにせ一国の治権を巡る争いだ。記紀の記述では建御雷神の前にもう二神派遣されている。――昔々、天照大神が葦原中国を自分の子に支配させようとしました。しかし葦原中国は大国主の治世で、とても高天原の一柱がいきなり行って治められる場所ではない。八百万神々が相談して、まずは天穂日命が派遣されます。しかし命は戻ってこない。しょうがないので今度は天稚彦を派遣します。天鹿児弓と天羽々矢を持たせてね。だが、天稚彦も一向に戻りません」
「なんだそりゃ、寝返ったのか?」
「天穂日命は明確な記述が出てこないが、天稚彦はまあ謀反とも言えるでしょうか。高天原がやきもきと待っている間、彼は現地で大国主命の娘、下照姫と結婚していたんだから。そして葦原中国を自分で支配しようと目論んだと記されています」
天稚子がどうというよりか、大国主命が刺客を上手く懐柔した様な事案にも聞こえる。
「天稚彦から何年経っても音沙汰がないものだから、痺れを切らした高天原は、雉を遣わして事情を聞くことにしました。天探女は、この雉が天稚彦の門前に止まるのを見つけて、奇妙な鳥がいると天稚彦に告げます。古事記では射殺すように進言までしたとされる。これを受けて天稚彦は天鹿児弓と天羽々矢を使い雉を討つ」
「バレたんでしょうね」
「勿論バレます。雉を討った矢はその勢いで高天原まで届いた。高皇産霊尊が血濡れの矢を見つけ、『天稚彦に与えた矢に血がついている、国津神と戦っているのか』と問い矢を葦原へ投げ返す。すると矢は真っ直ぐ天稚彦にあたって死んでしまう。――この後に喪山ができた逸話が挟まるが今はいいでしょう。大事なのは天探女です」
拝み屋はまた工藤に向いた。黒い足袋が、光と影の境界を横断してゆく。
「ここで天探女は高天原におわす神々から神託を受ける巫です。しかし、信託の結果、一柱であった天稚彦を死なせてしまった。天探女はこの神話の成立から今日に至るまでに悪い巫と考えられるようになり、心を読み人まねをする鬼として語られるまでになってしまう」
拝み屋が工藤の横に辿り着く。死神のごとき男が工藤の上で身を屈めると、工藤は怯えるように身を堅くした。黒い手甲を嵌めた手が、白い手に握られたままの小鬼を拐かした。
「しかし、天探女は本当に悪い鬼なのでしょうか?」
黒い男が小鬼を二人に掲げて見せた。
天探女は悪か、否か。
たぶんそれは問いたいことの本質ではないのだろう。今、この男が遡上に上げたいのはのは良し悪しとは別の話だ。
つまり――巫か、鬼か。
しかし答えは明白ではなかろうか。
天探女は鬼になったのである。
黒い男は早計を諌めるように言葉を重ねた。
「良い悪いというときは、基準が必要でしょう。少なくとも審判がいる」
「ああ、法律が犯罪を決めるみたいな話か」
犯罪者は犯罪を侵した時点では、厳密に言えば被疑者に過ぎないのだ。裁判官が法に照し被疑者の行為を検証し判決を下してはじめて行為は犯罪になる。
木場はその理屈が気に入らぬ。
何故、悪事は常に悪事ではないのか。
黒い男が苦笑した。
「相変わらず分かるような分からないような喩えですね。今回の場合は審判は高天原であり、この系譜で記紀を纏めた大和政権と奈良朝廷です」
「それで高天原に有罪言い渡されたんだろ」
「時の政権にとっては都合が悪かったというだけですよ。大国主からしたら、高天原は武器を持って政権を強請る侵略者だ。折角、天稚彦を懐柔できたのに、また心変わりして高天原につかれてはたまったものじゃない。天稚彦にしたって、葦原中国で妻を貰って楽しくやっているのに、今更盃を交わした義父に弓を向けろと言われても困る。此方から見たら天探女は巫として正しい信託をしているわけです。残念ながら、結果は振るいませんでしたが」
黒い男が手の内の鬼を振ってみせた。
鬼を見詰めて、工藤が重々しく口を開いた。
「天探女にとっては、どうなのです。巫なのですか」
「それは僕らには判断しかねます。本人が巫だと思えば巫なのだし、悪鬼だと思えば悪鬼です。また、それは他の基準から見れば違う結果になる」
「気の持ちよう、と?」
「例えば――腕の悪いイタコがいるとするでしょう」
「蛸オ?」
また唐突に話が飛んだものだ。
木場が顔をしかめるのを見て、中禅寺はイタコですよ、と丁寧に訂正した。クスクスと工藤が声を潜めて笑っている。こいつはその蛸を知っているらしい。
「イタコは東北の津軽地方や南部地方でいうシャーマン、巫師です。村にいて家神の祭司やお祓い、病気治癒なんかをする。イタコといえば死者や家神を口寄せして相談や悩みを解決するのが特徴だ。降霊を媒体とした村の相談役とでも思えばよろしい」
「じゃあ腕が悪いってのは、相談や悩みなんかが上手く解決できなかったってことか」
「そういうことです」
ここで黒い男は咳払いして、また堂を巡りはじめた。
「腕の悪いイタコは村人に紛い物だとか詐欺師だとか言われるようになる。その評価はおそらく妥当だ。何せ相談役として役に立っていない、これはイタコらしくない」
「まあ金なんかとられて何も解決しませんでした、じゃ堪ったもんじゃなえやな」
「このイタコは今度は別の村に身を置く。ここではイタコとして良好に村人と関係を築く。村人はもしかしたらこの人こそ本物のイタコだと言うかもしれない」
黒い男は向拝の前で足を止めた。光と影の境界上に立ち手を打ちならす。冷たい堂の全体が揺らいだ。
「さてここに一人のイタコに対して二つの異なる見解が出た。彼女は詐欺師だという主張と正真正銘イタコだという主張、相反する評価はどちらも同様に正しい。何故なら根拠とする物、参照しているイタコの実績が異なっているからだ」
当然と言えば当然の話である。犯罪者とて四六時中犯罪をしている訳ではない。人物評価はだから、まちまちになる。そんなことをする人とは思わなかったなどと目撃者が口を揃えて言ったりする。
「ではイタコ本人の認識はどうか。彼女は一貫して自身のことをイタコだと思っているかもしれない。しかもその根拠は彼女が立てた実績ではなく、彼女がイタコとして修行を修めたという経験的事実だ。経験をして自らをイタコと認識する彼女は、イタコの任務を遂行できなかった村でも、あるいはイタコとして成功した村でも、自己認識が変わるわけではない。村人が彼女を詐欺師と断じる、それと同時に彼女自身がイタコと名乗る、相反するように見える主張は実はどちらも同様に正しい。二つの判断は同時に成立しうる。何故なら基準が違うからだ」
「分かってきたぞ、参照法が違うってことだな。刑法では合法だが民法上では責任に問える事例がある」
「あるいは法制度では合法だが、ある地域の習わしに照らせば禁忌な行為もある。その場合は成文法の方が上等で優先される謂れは実はない。実際地域内では合法か否かより禁忌かどうかの判断の方が優先されたりする。僕はそうした習俗の方が大事にされるべきと言っているのではありませんよ。逆に習俗を捨て法に従うべきというのも暴論です。それらはいずれも正当性のある規範であり、異なる規範に従って出された異なる判断は精々等価値だと言っています」
そしてまた小鬼が掲げられた。
凸を光が白く、凹を影が黒く染めている。同じ置物の上に斑をつくっている。
見える色は実は光の反射、その振動数の違いなのだという。光こそが視界に色をもたらすのだ。
そして光を介さぬ色は他者に観測されることがない。
「天探女が自身を鬼と思うか巫と思うかもまた、天探女自身の採用する根拠と基準で異なる。天探女は自身のしでかした結果を見れば自身を天に背いた鬼だと考えるかもしれない、或いは自身の出自をもって自身を巫なのだと確信しているかもしれない。天探女がどう思っていようと後世の評価も、大国主側から見た彼女の正当性も変わりないし、どれかが間違っている訳でも、嘘を付いている訳でもありません。外部の評価にあわせて天探女が自己認識を変えなければいけない理由もまた、ない。鬼と巫、どちらを割り当てても正しいのです。自己認識は気分とか解釈とは全く違う意識のレヴェルで導き出される一つの確かな事実にすぎません。自身を含め誰かの意思でころころと変えられるようなモノではない」
拝み屋はひとつ沈黙の後に、また口を開いた。
「このようにある人物に対して複数の根拠、複数の基準、それらによる複数の判断が並列に存在しうる状況はままある。性別も似た構造を持っています」
工藤は、は、と嘲笑とも溜め息とも取れるような息を吐き出した。気持ちは分からぬでもない。
聴衆に構わず、拝み屋は必要なだけ言葉を紡いでいく。
「赤子の性別を判断するとき、医師は外性器の形状を根拠にする。親は医師の診断を根拠に子供の性別を確信している。子供はそうした親の育て方にある程度影響を受けるかもしれないが、それでも独自に自分の性同一性が育ってくる。そして大人になって、自らの性同一性とその性を生きてきたという経験的事実を根拠に性別を名乗る。もしかしたらその人は外性器の形状と内性器が異なる発達上の特性をもっているかもしれないが、だからといってその人の性同一性が嘘で、その人の生きた性別が紛い物だということにはならない。単にその性別らしくない要素を少しだけ持っていただけのこと」
「はは、それでは何でもアリじゃあないですか」
「何でもありではないですよ。どれも正しいと言うと無茶苦茶に聞こえるでしょうが、一つ一つの性別判定は基準と根拠に縛られている。そうですね、生物学に置いて雌雄の別は遺伝子、ある染色体配列と関係があると分かっています。染色体だけで判断するならばXX型なら雌、XY型なら雄、もし配列に異常があってもY遺伝子があれば基本は雄として発達する。ただし、性徴は必ずX-Y染色体の通り発現する訳ではありません。ヒトの胚はある段階までは雌雄どちらにも発達する可能性があり、子宮などに発達するミュラー管と雄的な内性器に発達するウォルフ管を両方持っています。どちらが発達するかは分泌されるホルモンバランスによって決まる。実はこの生殖腺発達にX-Yの他に関わる遺伝子があることが発見されています。即ち染色体で判断された性とは異なる非典型的な生殖器が発生することがある。ついでに思春期になると二次性徴がありますが、これもホルモンバランスによっては女性でもヒゲが生えたり、男性でも乳房が膨らんだりすることがあります。生物学に限っても、性別という現象はそもそも斯様に多層的なのです」
「多層的?」
天邪鬼はただ復唱した。科学的な事実というより、言葉の数に気圧されている様にも見受けられる。
拝み屋は少しだけ饒舌の速度を落とし、諭すように喩え話をした。
「女性にも様々な人がいるでしょう。声の高い人、低い人、華奢な人、筋肉質な人、男勝りな人、嫋やかな人、男性が好きな人、女性と付き合う人。一つ一つの要素は女性的男性的と別ける基準になり得るが、どれかの要素だけが真実になるわけでも、他の要素に優越する訳ではありませんね。ある時に男のようだと言われた、また別の場で女だと言われる、性別が揺れる状況は実はありふれている。しかし性別の揺れは摩擦となって人を苦しめる」
自己像と、鏡像の解離。
それは木場の言うところの、箱の中身と箱書きの矛盾と近しいのだと思う。空なのに外見ばかりが堅牢で、だからどこか、居心地が悪い。
しかし、工藤の身を削った摩擦はもっと苛烈な痛みなのだ。遠ざけなければ生きていられないほどに。
性の認識というのは木場の思うよりずっと人間の意識の根幹に近い部分にあるらしい。
「工藤さん、貴方はその身体が貴方を苦しめていると思っているでしょう。それは半分正しいですが、半分間違いです。貴方を苦しめているのは貴方の身体的特徴を根拠にして貴方を女性と断じる視線、周囲からの女性という判定と貴方の性同一性、経験する性別の間に生じる摩擦です。性別が多層的であるからこそ――矛盾する結果が苦しい。身体感覚を失わせるほどに」
「だがそりゃ、法も違えば証拠も違うんだろうが。違う判決が出て当然だ」
少なくとも拝み屋の話を総合すればそういう結論になってしまう。
工藤は座り込んだまま、獰猛に木場に噛みついた。
「でも普通の人はそうならないでしょう。旦那さんだってオギャアと産まれたときから男として揺らいだことがありますか?俺は、俺の身体が可笑しくないなら、俺の頭がイカれている!」
「確かに多くの人はあらゆる基準で性別が一貫している。けれど稀にですが性が揺らぐ、性の境界に近い人や規範の外側に放り出された人は自然に在るのです。生き物の間に境界を引き、基準を設ければ必ず例外が、外れ値がでる。その意味で貴方もまた『普通』です」
拝み屋は労るように工藤の肩を撫でた。
「貴方が女性と誤解されながら、時に女性を装いながらも、性別のない人間として生きてきたこの数十年、貴方の性同一性と半生も確かで尊重されるべき事実です」
工藤は息を詰めた。与えられた労りが、尊重が、恐ろしいものかのように血の気の引いた表情で拝み屋を見上げる。そして怯えるように黒い手甲を振り払った。
黒の羽織りが床に散った。
「そんなの、じゃあ、性別とは一体なんなのですか――」
「性別とは総体です」
拝み屋は断言した。
「ある個人の多層的な雌雄の特徴、身なりや振る舞いや人間関係などの社会的な行動、個人の性同一性や経験などの要素を総体的に考慮し、その時々の場でその時々の基準によって導き出される判断、それが性別の正体です。そして総体であるからこそ、性別は移行できる。そういう人を貴方はよく知っているでしょう」
工藤は思案するように俯いた。
「貴方は卵巣を摘出した。要素をひとつ、女性から貴方の認識する性へ動かした。しかし総体としてまだ女性と断じられる要素が多いから、行く先々で女性扱いを受けてしまう。次は装いも変えてみる。今の洋袴を履いてジャケットを着こなす貴方を見て直ぐに女性と断じる人は半々と言ったところでしょう。次は筋肉をつけてみたとする。旦那のような厳つい見た目の人を女性と見る人はそれ程多くないでしょう」
木場は己の身体を見下ろした。柔らかさを知らぬ身体。確かに性器や染色体などという話を態々せずとも、女には到底見えぬ。木場の場合はその外見は中身と一致している。
「どれか一つが貴方の性を決定するわけではありません。要素を少しずつずらして行ったとき、総体が傾ぐ瞬間がある。その瞬間が性別移行の一つの終点です。だからこそ性別移行は長い時間がかかり、難しい営みになります」
「俺に、できるでしょうか」
「貴方はもう実践しているはずですよ」
工藤は訝しげにしている。
木場は既に思い当たる節があった。
「医師に男性だと思われたようですが、その判断を傾かせたはずです。少なくとも貴方と医師の間で、工藤雪子 は女性的な生殖腺はないが男性器もない人であるという点で同一の見解を得ている」
工藤の独白では無理を押して手術を強要したかのような言い方だったが、医師がまずそんな危ない橋を渡る事はしない。何らかの納得と了解はあった筈だ。
それは確かに性別の判断を傾かせたとも捉えられる。
工藤はハッと目を見開いた。
「一貫して性のない人として認識されるようになる迄には途方もなく長い道程が待っているでしょう。なにせこの日本では男女以外の性別は存在しないことになっている。終わりのない否定を味わうことになるかもしれない。あるいは世相に逆らうのを辞めて事実を胸にしまって女性を装って生きてもいい。それでも――貴方は貴方だ」
工藤雪子 は工藤雪子 でしかありえない。それは誰にも変えられぬ事実でしかない。
そしてまた、天邪鬼が誰の真似を続けようが天邪鬼は他の何かには決してなれない。工藤が性を移行するにしろ、しないにしろ、天邪鬼の存在がそれを決定的に邪魔することは出来ない。
「さて、もう一度だけ確認します。貴方を助く天邪鬼を、貴方を騙した巫を、落としますか?」
「もう自分から逃げるのは、嫌だ」
「宜しい」
拝み屋が工藤の手に小鬼を握らせた。
工藤は姿見に向き直った。
鏡の中にも工藤がいる。
豊かな緑の髪に、空軍のジャケット。
相反する二つの要素と、男女では別けられぬ人格。
工藤はあべこべな像を真っ直ぐ睨んだ。
「では、置物を落としてください」
「はい」
呆気なく、鬼は落ちた。憑く 京極堂から出る頃には、雨が降りだしていた。
木場は肩を竦めて歩きだした。当然傘など持っていない。それに多少濡れたところで風邪を引くような殊勝な体でもなかった。我ながらうんざりする程に頑丈なのだ。
急勾配を中程で下ると、横手から傘が指し掛けられた。大きな花柄のこれまた派手な傘である。
「置いてくなんて冷たいですねえ」
「別に送ってくこともないだろう」
工藤は自然に木場を己の傘に入れた。狭い円の中に密接している。
目を合わせるのは躊躇われた。
こいつはある意味では木場のせいでこの坂を登ったのだ。
鳥の声が素っ気ない男の耳に囁いた。
「旦那さんは濡れてる女をほっとけない人でしょう。傘を差し出さずにはいられないっていうか」
革のジャケット越しの、細い腕が筋肉質の二の腕に絡み付いてきた。
「優しい御方」
「別に、そんなんじゃねえや」
本当に柄でもない話をされて、木場は肌が泡立った。
「女のフリなんざやめろ、似合ってねぇんだよ」
女じゃねえんだろと突き放すと、工藤は拗ねたように口を尖らせた。しかしその黒い眼は安心したように緩んでいる。
裏腹だ。
工藤は素直に木場の腕を解放した。
「確かに違いますね。聞いたところ、旦那さんはお天道さんに殴り込みにいくという方が正しい」
そしてその間、女が濡れそぼろうが水に拐われようが構うことが出来ないのである。
「分かってるなら俺に構うんじゃねえよ」
「そこが旦那さんの良いところでしょうに。まあ、でも。絡むのはもう止しておきます。恩を仇で返すのは良くない。それに、潤さんにまで引っ掛かれたら堪ったもんじゃありません」
工藤は手を丸めて顔まであげ、にゃおんと鳴いた。全く似ていない。
何故そこで潤がでてくるのかは木場には分からない。工藤のどことなく寂しそうな理由も知る由もない。
木場は黙りこくって歩を進めた。
いずれ木場の知らない、中身の話だ。
雨がポツポツと傘を叩いている。
「胸を切ろうと思います」
「やっぱり、つれぇのか」
天真爛漫のフリをしているが、耐えているだけなのだ。
中禅寺も初めに言っていた。工藤は痛みを取り戻しただけだ。それ以外は何も変わっていない。救われていない。男でも女でもない人格はそのまま、ままならぬ身体で、冷たい雨のなかを歩く。
工藤はうんと唸って足を止めた。木場も止まって工藤を見た。総髪、穴の開いた空軍ジャケット、白樺の手、襤褸の標準靴。
「旦那さんにはどう映りますか、私は女?それとも男?」
「どっちでもねえんだろうが」
憑き物落としは、木場の中にあった工藤に対する認識というのも綺麗さっぱり落としてしまった。今、木場という男の前にいるのは箱書きのない、弱っちい見た目の人間にしか見えない。
「じゃあやっぱり取り憑いてるのは私のようですねえ」
白い箱は鬼のように笑った。
「私という名前のない存在が貴方の思考に入り込んでしまったんですよ」
怖いですか、と名前のない何かが問う。
木場は鼻を鳴らした。
「言ったろうがよ。刑事が背負いこんだ恨み辛み覚えてられるか。精々、他の怨霊に振り離されんよう頑張るんだな」
工藤はツレないですねえと文句を垂れながら傘の骨組みを仰いだ。そのまま流行りの歌を鼻歌し始める。
満足そうである。
「私は他人の目に映るところの私をほんの少し自分に近づける、それだけですよ。円滑な社会生活とやらの為にね」
あの人の話じゃあ、そういう理屈になるんでしょう。
そう言って、工藤は心底晴れ晴れとした表情で笑った。本当に何でもないという口振りだった。
木場は存外、ホッとした。
「ついでに髪も切っちまえ。見てるだけで鬱陶しいんだよ」
「そうさねえ、ハサミ持ってます?」
「床屋行け」
公道のど真ん中でいきなり自分の髪を切っていたらそれは某かの禁忌に触れていないだろうか。
外聞を気にしないのは天性らしい。
「じゃあ行きますかねえ」
そう、愉快な声をあげると、工藤は走り出した。
女物の傘はいつの間にか木場の手に握られている。
オイ、と声を荒げ木場は追いかける。工藤は軽やかに雨の坂を駆け降りて、その一番下で振り返った。
「俺は雨が好きなんですよ!」
天邪鬼が笑った。