羽根 薄い靴底の下で固く柔い何かが潰れた。足裏の皮膚が粟立つ。虫を踏み殺してしまったらしい。
幼子が気付けば酷く嘆くだろう。
しかし、水木が足を止めることはなかった。戦地で足を止めること、行軍を乱すことを、許されたことはない。だからこの足は藪の下に咲く野花を踏み、土竜塚を蹂躙し、珊瑚礁に切り裂かれ、人の死体を踏み越えようとも機械的に進行を続けた。
その先が死地と知ってなお。
水木は眼前の濃緑を睨みつけた。掻き分けても掻き分けても、葉の重さに頭を垂れた木の枝や鋭利な葉を惜しげもなく身に付けた笹竹が、視界を塞ぐ。その先を垣間見ようとしても繁った森の中は奈落のように暗く、閉じている。
足下に視線を落としても路はない。当然だ。獣道じみた林道からはずれて既に数時間は経っている。
一寸先すら見通すことはできない。薄暗闇を、水木は目的地の方角だけを頼りに黙々と歩みを進める。止まってはいけない。止まっては……。
息が上がっている。
いつの間にか斜面が急になったらしく、足首が痛みはじめた。転ばぬよう、木に手を付いて行く。木肌は硬く乾いているのにその奥に湿った水の気配がした。水木の脳はいつかの痩せ細った戦友の腕を想起した。そいつは小指を切ってから密林の何処かに埋めた。
努めて無感情に、次の木に手を伸ばす。その先にも木が生えている。木、木、木が。途方もない数の、木の、歪な列がシンとした薄闇の奥へ、延々と続いている。
不意に、鬱蒼とした森が背に被さってくる錯覚を覚えた。水木は背に取り憑いた何かを振り払うようにまた一歩を踏み出す。ざくり。
さくり。
重い足音に呼応して軽い音が追ってくる。連れは疲れを知らぬ足取りだ。数歩後ろでひょいと木の根を飛び越えた気配がした。休憩はもう暫く先になるだろうな、と水木はぼんやり思考した。それがいけなかった。
ずるり。落葉の層に足を取られた。咄嗟に細木に縋りつく。生白い木が軋んだ音を響かせた。辺りに木霊した異音に水木は身を固くして、それからゆっくりと身体を屈めた。
二人の呼吸がやけに耳につく。耳と鼻の神経を尖らせて周囲を探る。黒緑の底は風で擦れた葉の音だけがある。人の気配は、ない。
否、そうだろうか。不信が水木に語りかける。現地人は森を歩き慣れているために足音が本当にしないものだ。その上、両軍が賄賂を送って仲間に引き入れるものだから敵か味方かも判別ができなかった。とんだ歩く罠である。
突っ立ったままの連れの腕を引き水木たちは藪に身を隠した。
ああ、駄目だ。水木は唇を噛み締めた。しゃがみ込んだ足がぶるぶると震えている。だから止まるのは危険なのだ。歩き出すには歩き続けるよりもずっと力が必要だ。音を立ててしまったのだから早くこの場を離れなければならないのに。
「水木さん」
早く進まなければ。
止まってはいけない。止まっては。
「水木や」
「ハイ!申し訳ありません、隊、ちょう」
藪の中、子供らしいどんぐり眼がキョトンと水木を映している。彼の厚い赤毛の前髪で隠されている左目も、今は赤い瞳孔を覗かせて水木の様子を伺っていた。
「どうしたんだ?」
子供――鬼太郎は心配しているのだか呆れているのだか、感情の希薄な声で水木を気遣った。
水木は笑みを作りながら、やってしまった、と思った。義理の息子とのたまの遠出だったのに、朦朧として驚かしてしまった。不甲斐なさで胸が詰まってしまう。
「否、すまん。少し――気が遠くなっていたみたいだ。同じ風景が続くから」
「ウウム。ここらでご飯にするのが良いかもしれんのう」
赤い左目がのんびりと提案した。
比喩でなく、眼球に口と人形のような身体がついていて喋るのである。ついでに、この珍妙な目玉は鬼太郎の左目ではない。彼の父親の左目が化けて出て、息子の生まれつき空いている左眼孔に上手いこと居を構えたという、妙ちきりんな化け物である。
「昼時にはちと早いかもしれんが、何しろ朝から歩き通しじゃ。一度しっかり休んだ方が良いぞ」
目玉の親父はこういう時、水木の失態などなかったように振る舞ってくれる。すると、水木は父親に慰められているような、有難い羞恥で尻がモゾモゾするのだ。優しくされるよりビンタでも飛ばされた方が良いような、悪いような、悩ましい気分になる。
「僕はお腹はあんまり空いていませんが……。おじさんは体を休めた方がよさそうだ。顔色が良くない。何処か、開けた場所を探してきます」
「いや、此処を少し整地しよう。弁当といっても店を広げる程作った訳じゃないんだ。尻がつければ休める」
背嚢に差した円匙を取り出した。目玉がぴょんと肩に飛び乗ってくる。
「そうじゃのう。折角のお弁当じゃ、せめて彼方の明るい方にしよう」
「そうか?まあ手元は見えた方がいいよな」
「いやいやハイキングの醍醐味というのはな、」
「水木さん」
鬼太郎が、やはり起伏の小さな声で呼ばわった。
「抱っこ」
そう、両手を広げてみせる。
水木は少々面食らった。鬼太郎が齢十を越した今ではめっきりしない甘えた仕草をしている。あの、鬼太郎が。
慌てて円匙を仕舞い彼の身体に腕を回した。水木よりも随分薄く、小さな体だ。胴に腕を回してもお釣りがくる位の。
歳の割に落ち着いた、というより寧ろ不気味なほど大人びているが、やはり子供は子供なのだ。
水木の背に紅葉のような手がまわってくる。微笑ましく思った瞬間、水木の足が地面を離れた。鬼太郎が水木を肩に担ぎ上げたらしい。
「確り掴まって」
そう聞こえるや否や、地鳴りのような音と強烈な重力が水木の全身を襲った。落葉が、枝が、木々が、どんどん遠ざかっていく。
バサバサと葉が後頭部を叩く。
水木は思わず目を瞑った。
次に目を開けると、水木は眩しい青の中にいた。
初夏の、抜けるような蒼天と若葉を湛え青々とした地平線が遥か先で交じりあっている。
爽やかな夏風が木々の頭を撫であげると、陽光の目映い反射が波立ち、地平の彼方まで駈けていった。
水木はただそのうららかな大空に圧倒された。胃の腑の浮くような浮遊感すら晴々とした感動を彩るものになった。
視界の下方に下駄履きの、小さな足が踊っている。この華奢な足が大の大人を大宙に連れ出したのだ。文字通りのひとっ飛びで。なんと出鱈目な膂力だろう。笑いが込み上げる程に、化け物だ。
青空の真ん中で黄色がヒラリと翻った。
子が好んで着るちゃんちゃんこの、目が醒めるようなダンダラ縞が燦々と陽を受けて輝いている。
水木の脳裏を黄色の尾羽が過った。
いつか、南方で――極彩色の地獄で見たあの小鳥が想起された。飢えに苦しむ愚か者たちの遥か頭上を羽ばたいて行った、鮮烈なイエロー。
名も知らぬあの鳥も自由だったろうか。
軽快だったろうか。
「あ、」
不意に鬼太郎が声をあげた。
「どうした!」
「少し跳びすぎたみたいだ」
「着地できなそうか!?」
水木はジタバタと身を捩って丸い赤毛の頭を胸に抱え込んだ。中年の肉頭巾でも無いよりはマシだと思いたい。
鬼太郎は煩わしそうに頭を一振りした。それからキーンと耳鳴りのような口笛が空に響く。
蒼穹の彼方から黒い風が矢の如く現れた。
鳥だ。それも何十羽、何百羽という鳥の群だ。夜闇で染め上げたような鳥たちの大群は鬼太郎の周りを自在に飛び交っている。
「大烏だ」
「すまない、背を貸してくれないか」
阿々、と大烏たちは口々に応える。鬼太郎はひとつ頷くと彼等の背を一歩、二歩と、飛び石のように歩きだした。どうやら『跳びすぎた』という分を戻っているらしい。
右、左、と鬼太郎が踏み出す毎に、担がれた水木もまた、右、左、と振れる。小舟に乗っているかのようなゆったりした揺れは何故か水木の気持ちを安らかにしてくれた。
暫く揺すられた後に、鬼太郎は大烏の飛び石から宙に躍り出た。
当然、鬼太郎は真っ直ぐに地球へ引っ張られる。地面まで凡そ10メートル。水木はちゃんちゃんこにしがみついた。
カラン、とやけに軽い音と共に浮遊感が終わった。
「おお、此処はまさしく日和坊殿の岩壁じゃ」
声につられて、水木は辺りを見回した。水木たちは開けた川原に立っている。その少し先、白い断崖が森から立ち上がり大空を切り裂くようにして延びていた。
どうやら一足飛びで旅の目的地に辿り着いたようだ。
目玉の親父さんが妖怪アンテナがどうこうと講談じみた長台詞で息子を褒めちぎる。水木には内容がイマイチ理解できていない。当の本人はしらっとした顔で父の褒詞を浴びていた。いや、少し頬に紅が差している、かもしれない。
苦笑する水木に気づいたのか、まん丸の眼が振り向いた。
「ここなら安全だ。おじさん、ゆっくり休んで」
「いやあ此処まで来たなら日和坊殿への挨拶が先じゃ!」
「よし、親子で行ってこい。その間に焚き火を用意しておくから」
風呂の準備も頼む、と目玉が調子の良いことを言う。はいはいと適当に返事をするとハイは一回などと怒るのでなお可笑しい。
ケラケラと目玉を誂う、その袖を鬼太郎が小さく引いた。
水木さん。そう呼ばわれるままに顔を向ける。
「帰りもちゃんと送るから心配しないでくれ」
鬼太郎が真剣な態度で言う。
――ああ、背負わせてしまっている。
水木は心臓を引っ掻いたような痛みを覚えた。その罪悪感よりも、何倍も大きな喜びを感じてしまうのは、親としていけないことだろうに。
どうして、心は晴々としていた。
水木は歯を見せて笑った。
「応、三人一緒で帰ろう」
そら行け、水木はしゃんとした薄い背を押してやった。親父さんにばっかり喋らすなよと声をかけると柔い頬を膨らませて分かってるなんて反発してくる。
黄と黒の鮮やかな後ろ姿を見送った後で、水木はトラックジャケットから煙草を取り出した。
その拍子に肩から艶やかな漆黒の羽根が一片、転がり落ちた。濡れたように煌めく羽根を掌で転がしながら、極楽の鳥の羽根もこんな風だろうと水木は思った。