知っているのは、ただ一人「ふふっ、クリックくん…」
「テメノスさんっ」
クリックの自室に、濃厚で蜜のように甘い空気が満ちていく。舞台の上ではキラキラと演技をするクリックも、今はただ一人の男としてその逞しい腕で恋人を抱きしめていた。
「やっと休みが出来ました。今日はもうテメノスさんを離したくありません」
「仕方ないですね、子羊くん」
「子羊じゃありません」
「君はいつまでも私の可愛い子羊くんですよ?」
「子羊じゃないことを証明してみせますよ」
そう宣言するとテメノスの唇を奪いそのまま柔らかなベッドへとゆっくりと押し倒した。
「んっ…」
柔らかな唇を堪能しながらテメノスのネクタイをゆるめそのままベッドの下へと放った。シャツの上からテメノスのうっすらとついた胸筋を弄りながらボタンへと手を掛けようとした、その時……
ピリリリリリ………!
「………」
「………」
鳴り響くスマホの着信音にクリックが一瞬逡巡するも無視して続けようとした時に、テメノスがやんわりとその手を遮った。
「鳴ってますよ、クリックくん?」
「………やだ。テメノスさんのが大事です」
二人がちらりとスマホの着信画面をみればそこには「マネージャー」の文字が映し出されていた。
「ほら、クリックくん。わがまま言わないの。急なお仕事の話かもしれないでしょう?」
「………」
クリックが悩んでいる間も着信音は鳴り止まない。
「クリックくん。ちゃんと話し終わったらあとは君の好きにしていいですから」
「……本当ですか?」
「ふふっ、勿論」
テメノスの言葉に子羊の不機嫌の顔が吹き飛び、クリックは慌ててスマホの通話ボタンを押した。
「はい、もしも…え、ああー…。はい、はい。え、それって…!前にもお断りしたいと言っ………あ、切れちゃった…」
「?」
クリックは普段の爽やかな顔に似つかわしくない複雑そうな顔をしながら眉間に深くシワを刻んだ。
(難しい仕事でも入ったのだろうか。こういうのは聞くのは野暮ってものかな…なら、そういう時は……)
「クリックくん」
「あ、テメノスさん…」
今にも泣きそうな顔でしょぼくれながらクリックはテメノスを見つめた。
「仕事の話は終わったんでしょう…なら……」
テメノスはベッドに横たわったままクリックへと両手を広げた。
「さあ、いらっしゃい」
ベッドは再び二人分の重さを受け沈んでいった。
【数日後、都内のとあるスタジオ】
少し暗めの室内に様々なライトがセッティングされスタッフ達のあーでもないこーでもないと言い合う声が飛び交う。
「…社長?こういう企画の時は嫌だって僕言いましたよね?」
「さあ?聞いたっけな?忘れてたようだ」
しれっとわざとらしい言葉を並べながら社長は企画書に目を通していた。
『大人気、セックス特集!今回はアノ人気舞台俳優にせまる‼』
表紙、巻末カラー写真数点(絡みなし)、インタビューなど
「僕、恋人いるって言いましたよね?」
「あーあー聞こえんなあ。世間ではお前は恋人のいないお一人様ってことになってるらしいからそこよろしく、じゃぁな」
「え、あっちょっと社長‼」
企画書をクリックへと放り投げるとマネージャーとクリックをおいて社長は帰ってしまった。
「……嫌だなあ」
「クリックさん、プロでしょ!ほら腹くくって演技でもなんでもしてください」
「はあ…」
クリックは深い溜め息をつきながら撮影準備を始めた。
ポコン♪
「おや、クリックくんから何かおくら…れ……っ ⁉」
テメノスは自分の目に入ってきた画像に衝撃を受け思わずソファへと自分のスマホをぶん投げた。
「はあっはあっ!………………ハッ‼私としたことがソファにものをぶん投げるだなんて。え、今なにが画面に写って……?」
普段冷静なテメノスが珍しく混乱していた。
「………冷静に。お、落ち着いてもう一度確認を…」
そぅっとテメノスはぶん投げたスマホをとり、ゴクリと一度息を飲んでから画面を見返した。
そこには鍛えられたクリックの裸体が表紙を飾っている某有名雑誌の画面が映し出されていた。
「ク、クリックくんっ…?」
はち切れんばかりの美しく鍛えられた筋肉が照明を浴びて浮かび上がっている。そして陰影のはっきりとしたクリックの顔が眼光鋭くこちらを射抜くように見つめていた。柔らかな栗毛の髪の毛を手で無造作に掻き上げるその仕草は普段の爽やかさとはうって変わって男らしい色香が漂っている。
『すみません、テメノスさん。断り切れずにこの仕事を受けてしまって…。明日発売ですが先にテメノスさんに見せておきますね。明日、テメノスさんが僕の部屋に来た時に雑誌、渡したいと思います。…恥ずかしいのでそれまでは読まないでください』
可愛い羊の『お願い』のスタンプとともにメッセージが送られてきた。こんな風に可愛くお願いされてしまってはどんなに気になっても買えないではないか。
「しかし…これは……」
こちらを捉えて離さない熱い視線に、そこに添えられた『大人気、セックス特集!今回はアノ人気舞台俳優にせまる‼』のアオリ文。爽やか正統派俳優として知られているクリックのこんな姿を世のファン達がみたらそのギャップにのまれ卒倒してしまうのではないか。それぐらいこのクリックの写真は色っぽい。
「あの可愛らしかった子羊くんが、ね」
テメノスはまだクリックが自分の生徒だった頃を思い出した。あの頃はまだまだ駆け出しで、演技中に転んだだのセリフを噛んだだの可愛らしい悩みを話していた。先を導く一人の教師として、また彼のファンの一人としてその真っすぐで前向きに頑張る姿を応援したものだ。
そして、卒業式の日。いつも話を聞いていた生徒指導室で夕日に照らされたクリックから想いを告げられた。
『もう、僕は生徒じゃありません。テメノス先生…いや、テメノスさん!僕は一人の人間として、一人の男として、一人の大人として…貴方のことが好きだ‼』
真剣で、真っすぐな瞳にテメノスは射抜かれた。一人の生徒が、いちファンとして応援していた相手が、いつの間にかかけがえのない存在になっていたとその日気付かされた。
『私も、君が好きです』
口が勝手に想いを伝えていた。色々と思うところがあったはずなのだが、そんなものは彼の花咲く笑顔と共に霧散した。
「ふっ…いつの間にか、こんな表情をするようになっちゃって。これは大人向け作品への出演が増えちゃうかな?」
皮肉まじりにひとりごちながら画面の中のクリックを見つめる。クリックの活躍の場が広まるのは喜ばしいところではあるが売れる前から彼を知っているテメノスにとってなんだか釈然としない気持ちが渦巻く。
「セックス特集、ねえ…?」
どんな記事が書かれているのか気になるところだがクリックが「読まないでくれ」と言ったからには明日会うまで待つしかない。
「ま、どんな記事が書かれてるか知らないが。クリックくんの情事は私しか知らないのでね」
誰にともなくテメノスは呟いた。
ピンポーン♪
テメノスがクリックの部屋のインターホンを鳴らせば、中からどたどたと急ぎ足でかけてくる音が聞こえガチャリとドアが開いた。
「そんなに慌てなくても私は逃げませんよ」
「テメノスさんに少しでも速く会いたくてつい…」
はにかんだ笑顔で笑いながらクリックはテメノスを迎え入れる。
(やっぱり、クリックくんの笑顔は学生の時から変わらず可愛いな…)
「どうかしましたか、テメノスさん?」
「いえ、なんでもありませんよ。君が学生時代に寝坊して校門前で私を吹き飛ばしたのを思い出しただけです」
「も、もうっ!そんなこと思い出さないでくださいよっ‼」
後ろ手でドアを閉めながらクリックは顔を真っ赤にして抗議してくる。
「今回の取材はちゃあんと寝坊せずにいけたんですか?」
「ちゃ、ちゃんといけましたよ!………………五分遅刻しましたけど」
「もう、また遅刻したの?学生の時から治らないんだから」
やれやれ、とテメノスが呆れた調子で勝手知ったるクリックの部屋へと入っていく。
「アノお寝坊子羊くんからまさかあーんな画像が送られてくるとは思いも寄らなかったですよ」
「う……。前々から何回か話はきてたんですけど僕には恋人が、テメノスさんがいるからって断ってたんですよ?」
「え、そうなの?」
「そりゃそうですよ!テメノスさん以外の人とそういう意味の絡みのある写真とか撮りたくないし、その…セ、セックスの話だって僕はテメノスさんしか知らないし世間にテメノスさんとのえっちなことか言いたくないし………それなのに、社長が無理やり話進めちゃって止められなくて……」
ぽかんとテメノスは口を開けて驚いていた。真面目なクリックのことだ。素直に仕事だと割り切っててっきり受け入れていたのだと思っていた。
「他の人と絡みが無い単独の写真撮影だから良いだろうと社長が判断したらしくて、気がついたらもう撮影日になっていて……。インタビューも決まってて……今まで黙っててごめんなさい、テメノスさん!」
クリックが勢いよく頭を下げてテメノスへと謝った。
「あ、いや謝らなくても良いのですが……断り続ければこれまで頑張って君が気づいてきたコネや経歴に響いてしまうかもしれませんし……」
そう言うテメノスに、クリックは下げていた頭を上げて真剣な眼差しでテメノスを見つめた。
「僕の大切な最初のファンを傷つけてまで仕事を受けたいとは思いませんよ」
テメノスを見つめるクリックの目は、逞しくそしてテメノスを包み込むような優しい目をしていた。
(君はいつのまにこんな目をするように……)
テメノスの心臓が早鐘を打つ。トクトク、トクトクと心臓がうるさく鳴っている。
「だから、インタビューでも当たり障りのない話しかしてません。テメノスさんの事を想像出来そうなことは何も話してないつもりです。……テメノスさんのことは、僕だけが知っていればいい」
「クリックくん……」
トクトク、トクトク、トクトクと心臓がうるさく鳴っていて、体がじんわりと火照ってくる。
「テメノスさん……」
クリックが慈しむようにテメノスの左手を優しくとった。
「僕は仕事とはいえ自分の裸体とセクシャルな話を世間にしてしてしまいました、すみません…でも、」
一度言葉を切るとクリックはテメノスの手の甲へ口づけたあと、その指先を一本、一本、親指から順に丁寧に喰んだ。そして薬指を喰むとそのまま根本まで咥え温かな吐息を混ぜながら舌先で丁寧に撫でていった。爪先までその舌で濡らすとゆっくりと離れていく。クリックの唾液で濡れたテメノスの指先を自身の唇にあてながらクリックは語る。
「ここ、と……」
舌を見せつけながら、クリックは今度はテメノスの右手をとり自身の股間へと持って行く。そこはもう、熱を帯び昂っていた。
「ここは、貴方しか知りませんから……」
熱い視線がテメノスを捉える。
───あの雑誌の、薄闇の中こちらを見ていたあのクリックの目が過る
(ああ、あんなものよりも……)
ずっと…ずっとずっとずっと熱い、テメノスしか知らないクリックの瞳へと囚われていく。
「ねえ、クリックくん。私にだけ、君を教えて……?」
そう告げるとともに、ゆっくりと深く二人はベッドへと沈んでいった。