ひみつま5用クル監SSその2【押しかけ女房】
学園内ではかなり高い位置にある学園長室は大変見晴らしがいい。
すべてを俯瞰して見られるこの窓際は、学園長に相応しい場所だった。
「どーこーにーしーよーおーかーなっ♪」
歌うようにリズミカルに。飾り爪のついた指を振って、ナイトレイブンカレッジのあちこちを指し示す。各教室、各種実験室、各種特別教室、講堂、運動場、体育館。そうして止まった指の先、クロウリーがいつもの『気まぐれ特別授業』のために飛び込んだのは錬金術の実験室だった。
ガシャーンと窓ガラスを割って入り、その破片が生徒へ降りかかる前に修復魔法で元に戻す。いつも通りの所業にいつも通りの光景は、教師も生徒もクロウリー本人も、あまりに慣れすぎてしまっていて、突如乱入しているはずなのにどこか退屈でもあった。
修復魔法がかけられたガラス片はしゅるしゅると元の位置に隙間なく戻って一枚の窓ガラスになる──はずだった。何かの陰に隠れていたのか、それともマンネリ化してきたなどと思うクロウリーの慢心か。破片がひとつ、修復魔法から外れてそのまま教室に落ちる。
「……あ、」
「ん?」
トスッと小さな音を立ててガラスの破片が実験机に突き刺さり、ぺきりと折れた。ついで、ぼたたたたっと赤い染みが垂れ落ちる。「ユウ!」「子分!」「監督生!」悲鳴を上げたのは周囲の方が先だった。目に入った光景に堪らずクルーウェルも「仔犬!!」と叫ぶ。
「なんですか、今から学園長の特別授業が……って、きゃああああああ!?」
一番うるさいのは元凶であるクロウリーだった。
スプラッタと化した実験室の一角を見て、絹を裂くような甲高い悲鳴を上げる。
修復魔法から外れてしまったガラスの破片はその鋭利な刃で使う素材を計測していたユウの左頬と左前腕の手首より少し肘寄りの内側、皮膚の薄い部分をスパッと切り裂いて机に刺さった。もう五分も遅ければ実験開始で防護グローブをしていたのだが、その前の計量という絶妙なタイミングの悪さで乱入してきたため、教科書なりノートなりで破片の降ってくる方向をガードすることもできなかった。ナイトレイブンカレッジに通う一般学生であればそれでも反射的に防護魔法をかけるなりなんなりして防ぐ手立てはあるところなのだが、生憎ユウは一般学生ではない。魔力がなくて魔法が使えないのだ。そもそも魔法なんて存在しない異世界から飛ばされてきたのだから、そんなことはかけらほども頭に思い浮かばない。ノーガードで切り裂かれるしかなかったのだ。
そんなわけでユウがいる机は流血の大惨事となった。
(患部を心臓より高い位置に上げて圧迫止血、と)
教室にいる誰よりも冷静だったのは怪我をした張本人だった。ハンカチを細長く畳んで実験着の白衣の上から患部をきつくぐるぐる巻きにすると右手の平全体を使って強く握り止血する。頬はどうしようもないのでそのままだ。ぬるりとした流血する感触はあるが仕方がない。
「すみませんクルーウェル先生、保健室行ってもいいですか」
常と変わらない声色でユウが中座の許可を求める。
「許可する! というか俺が連れていく。クローバー、ハント、今日の実験は中止だ。薬品と素材の管理はお前たちに任せる。サイエンス部員は二人を手伝え。学園長はその机を綺麗に片付けろ、あとで仔犬を連れて部屋に行くから首を洗って待っておけ!」
はっと我に返れば立て板に水でクルーウェル口から指示が飛び出た。つかつか大股で歩いて監督生の元へ行くと、有無を言わさず姫抱きに抱え上げる。
「ふおっ」
「じっとしてろよ、仔犬」
そう言うと大股のまま競歩の速度で保健室へと向かうのだった。
自分で歩けると主張する仔犬を「俺が歩いたほうが早い」と封じたクルーウェルは保健室のドアノブを仔犬の膝裏を抱えた左手で回し、扉を背で開ける。
「ダルム、手当てしてくれ」
「あらヤダ、なになになに」
クルーウェルの声に即座に反応したのは養護教諭のダルムだ。奥の席から白衣の裾をひらめかせて駆け寄ってくる。血まみれの仔犬を見て「あらーやっちゃったわね」と声をあげた。そして治療スペースの丸椅子を指して座らせるように指示する。
「寝かせなくていいのか」
「なに言ってんの、ただ切っただけでしょうが。貧血で倒れそうってわけじゃないんだから座らせればいいわよ」
彼の言葉を鼻で笑って一蹴すると、ダルムは薬棚から消毒液や止血軟膏、滅菌ガーゼなど必要なものを作業用ワゴンの上に手早くピックアップした。なおこのジューク・ダルムという養護教諭、女性口調で話しているが声は野太くれっきとした男である。菫色の短髪に緋の瞳、ぱきっとした濃い目のメイクでオレンジのニットシャツと極楽鳥花のようなド派手な出で立ちは極彩色で目に優しくない。しかしこうみえて魔法医術士と魔法理学療法士の資格を持つナイトレイブンカレッジの守護神だ。小競り合いなどで揉め事荒事に事欠かない我が校の怪我人治療を一手に引き受けている。
「ちゃんと圧迫止血してるわね、えらいえらい。どのくらい押さえてる?」
「んー、まだ十分も経ってないでしょうか」
「じゃあ先に顔やっちゃうからそのまま止血してて。腕はここに置いていいから」
「了解です」
昇降式の注射台をユウの腕の下に置くと高さを上げて心臓より高い位置で固定する。そして彼女の左脇につくと膿盆をクルーウェルに差し出した。
「センセ、悪いけど手伝って。この凹みをほっぺに押し付けて持っててちょうだい」
クルーウェルが指示通り空豆型の浅いトレイを彼女の頬に押し付けて持つと、ダルムは精製水をスポイトで患部周りにかけて付着した血と汚れを洗い流す。洗い流した水は彼の持つ膿盆へと溜まった。手早く消毒をして軟膏を塗布し、ガーゼを被せて留める。頬の傷の処置が終われば今度は腕だ。「ありがと」と言ってクルーウェルから膿盆を受け取るとワゴンの上に置いた。前腕に巻いていたハンカチを解いて傷口を診る。
「洗浄は?」
「まだです」
「じゃあそこのシンクで流してちょうだい。そっとね」
「はい」
仔犬が腕を洗い流しているうちにささっとゴミなどを片付け、新たにガーゼなどを用意し、戻ってきた仔犬の腕を再び注射台に置いて先ほどと同じように処置をする。ガーゼを留めた後は包帯を巻いて覆った。
「こっちも縫わなきゃならないほど深くはなさそうだからこれで様子見て。傷薬とガーゼを何パックか渡しておくから一日数回替えなさいね。足りなくなったらまたあげるから使い惜しみしなくていいわよ」
「はーい。ありがとうございました」
「先生先生先生先生! 運動場来て! 多重事故発生!!」
「はァ? アシュトンは何やってんのよもー! 箒貸して!」
ぺこりとユウが頭を下げて礼を言うのとかぶさるようにしてドカン! と入り口が開くと、運動着の生徒が箒を持って保健室へ転がり込んでくる。即座に応急処置ができる救急セットが詰まった鞄を手に取って、ダルムはひぃはぁと息せき切っている生徒から箒をぶん捕り窓を全開に開いた。そして、ダンッ! と窓枠に足をかける。
「デイヴィス先輩、あとよろしく!」
ちらと一目だけクルーウェルを見てそう言うと、彼は窓の外に飛び出した。箒の上に立ち乗りスタイルで運動場目掛けて一直線に飛んでいく。
「先輩なんですか?」
「あ?」
「ダルム先生。今、クルーウェル先生のことを先輩って呼んでたから」
駆け込んできた生徒に水を飲ませて戻ってきたユウが小首を傾げて訊いてきたので、クルーウェルは軽く頷いて肯定した。
「ああ、あいつは二つ下の後輩だ。寮も同じだったからそれなりに知ってるよ。素が出ると先輩呼びになる」
「へー、そうだったんですね」
開け放たれた窓から運動場の方を見やってバタバタと駆け回っているダルムを仔犬と一緒に眺める。数名の生徒が転がっているので衝突か何かが起きたのだろう。ナイトレイブンカレッジの守護神様は今日も忙しい。
保健室の中へ戻ると、先ほどの生徒の姿はなくなっていた。水を飲んで一息ついたら戻って行ったそうだ。他の先生方への連絡も任されていたらしい。仔犬は扉の内側に掛けられていた不在プレートに『運動場で処置中』とメモを貼り付けて外側のフックに掛けた。続いてダストボックスのペダルを踏んで作業用ワゴンの上に放置されたごみなどを捨てると、膿盆に使用したピンセットなどの器具を纏めて『使用済み未消毒』と書いたメモを覆うようにテープで貼り付ける。その脇に精製水や消毒用アルコール、止血軟膏などを揃えて置いた。「あとは、」と呟くとダルムの執務机の上で指先をうろうろさせ、黒い表紙の帳簿のようなものを引き抜く。彼女が手にしたのは利用者名簿だった。
「なんだ、随分手馴れているな」
「マジフト大会の時にお世話になったので、なんとなく覚えてたんです」
少し癖のある綺麗な字で自分の名前を書き入れ、時刻と怪我の内容をその横に記入する。そして何かに気が付いたかのようにふと顔を上げた。
「どうした?」
「あ、いえ。傷薬とガーゼをもらい損ねたなと思って。……まあでもいいです。処置してもらったし、血が止まりさえすればすぐくっつきますから」
そうだった。多重事故の報告でダルムは仔犬に渡すものを渡さないで飛び出て行ってしまったのだ。優先順位的に仕方ないといえば仕方ないのだが。
「いやダメだろ。あとでちゃんと取りに来なさい」
「……だってめんどくさいんですもん」
「ダメだ。面倒くさくてもちゃんと薬をもらえ。化膿したらどうするんだ」
「切り口が綺麗だからそんな簡単には開かないですよ」
「万が一のことがあるかもしれないだろう」
「だいじょぶですって。先生って心配性なんです?」
あまりにもあっけらかんと笑って済まそうとする彼女に、クルーウェルはカッと頭に血が上ったのを感じた。冷静になって言葉を探す前に口から飛び出ていく。
「だってお前、女の子だろう! 女の子が、こんな、頬や身体に傷を……っ」
「ああ、気にしてたのそこだったんですね」
「気にするだろうよ! というかお前はもっと気にしなさい! 怪我をした時だってそうだ、冷静にもほどがある」
あの時、この仔犬は「うわっ」とも「痛い」とも言わず、泣いたりもせず、ただ粛々と自分で自分の怪我の応急処置を行って、監督責任者に中座を申し出た。周囲が激しく動揺する中、ただひとり、冷静に何をするべきかを把握して行動に移していた。
「いやだって、みんなが自分の分まで驚いたり叫んだりしてくれちゃったから、やることなくなっちゃって」
「そういう問題かよ……大体血だってあんなに出たんだぞ、痛がったり怖がったりするだろ、普通」
「んー、毎月あれ以上の血を流しているので特には? 破片、めちゃくちゃ鋭利だったみたいで綺麗にスパッといったから痛みはそこまででもないんですよね。むしろ圧迫止血してた時の方が痛かったし」
「毎月!? 毎月ってお前なんでそんな怪我、って…………ああ、そうか」
女の子だもんな、とクルーウェルは思い当ったように呟いて納得する。女性には一定周期で来る生理現象があった。第二次性徴期をとうに迎えているだろうこの仔犬にも、もちろんそれは該当するはずだ。
「そうです、それです。だからあれくらいじゃ死にませんし、痛みにも慣れてます。男性の方がこういうの狼狽えるって本当だったんですね、先生の動揺っぷりがすごい」
からからと笑う仔犬にクルーウェルははあ、と溜息を吐くしかなかった。
「女性ってのは本当、すげーな……尊敬する」
「えっと、ありがとうございます?」
「なんで疑問形なんだよ、ちゃんと褒めているぞ? それはともかく、生理と怪我は違うんだ。ちゃんとこまめに清潔にして、傷薬をもらって塗っておけ。他に何か必要なものはあるか?」
「あー、あの、皮膚に貼れる防水フィルムってありますかね。これだとお風呂もシャワーも濡れちゃうんで、困るなって」
なければないでビニール袋でも巻いて何とかするので大丈夫です、とこれまた自分で対応策を考えながら申告する仔犬は、困ると言いつつたいして困った様子でもなくクルーウェルに問う。次善策を考えてあるのは素晴らしいとは思うが、なんだかもやもやするものを彼は感じていた。
「それなら防水魔法をかけておいてやる。十二時間ぐらいで効果が切れるから明日の朝にかけ直しだ。今日は俺の家においで。その手じゃ色々不便だろ」
「え、大丈夫ですよたぶん。利き手じゃないですし、手のひらや指でもないので、お風呂以外はさほど──っ痛」
問題ないことをアピールしようと、ぶんぶん手を振ってみせた仔犬は少し腕を捩じるとわずかに呻き声をあげる。閉じかけた傷口が縒れてまた開いたのだろう。言わんこっちゃない、とクルーウェルは呆れた溜息を洩らした。
「ほらみろ。大人しく言うことを聞きなさい」
「ぬう……でも嫌です」
「じゃあ俺がそっちへ行く。改装したんだからまともに使える空き部屋の一つや二つあるだろう」
「えええ、なんでそうなるんです?」
「あのな、」
強情で我儘な仔犬の態度に少々の苛立ちと腹立たしさを覚えながら眦を決する。
「俺の受け持ちの仔犬を俺が心配することの何がおかしい? お前がしっかりしていることはわかっている。それでも心配ぐらいさせてくれ。顔に傷が残ったらどうするんだ」
クルーウェルの声音が思っていたのの十倍ぐらいは悲痛に聞こえて、ここで「別にどうもしませんよ」などと本心をそのまま言ったら本気で怒られそうだなとユウは思った。そしてどう答えればいいのか考える。
「んー、飛び込んで来た学園長に責任を取ってもらう、とか?」
「まあ順当だな。そして授業を行っていた俺にも監督責任がある。だからせめて頬と腕の傷が癒えるまで俺に世話を焼かれてくれ」
「……結局そこに戻るんじゃないですか、もー」
まあな、と笑うクルーウェルに彼女は観念して白旗を上げた。
「じゃあ今日だけお世話になります」
「ダメ、治るまで」
「どうせすぐくっつきますよ」
「じゃあちゃんとくっつくまでな。さっきみたいに動かして傷が開いたらやり直しだからちゃんと大人しくしてろよ」
「先生、過保護すぎません?」
「お前のような手のかからない仔犬は過保護ぐらいで丁度いいんだよ」
ユウがオンボロ寮に戻ったのは三日後で、その後ちょくちょく様子を見にクルーウェルが寮へ来るようになって、面倒だからと空き部屋を自分用に占拠するのはもう少し後の話だし、結局うっすらと残ってしまった頬と腕の傷跡を彼が唇でなぞるようになるのはさらに数年後の話である。