無題暑い日、具合が悪くなった高坂(大学3年/20歳)がたまたま通りがかったレトロな喫茶店に入り、店主の雑渡(32)と出会う。
雑渡は高坂の顔を見た瞬間、知らない人間の人生が一気に頭に流れ込んでくる感覚を覚える。
知らない少年の顔、常に自分の傍にいる少年が徐々に年齢を重ねていき、
店の入り口に立つ青年の顔に重なる。
頭の中ではさらに年を重ねた彼と恐らく自分は最期に…。
頭がぐらりと揺れる気がした。
あぁこれが前世の記憶というものなのかと、ありえないことを当たり前のように思った。
だが、目の前の高坂には覚えている気配がない。
気を抜くと体の内という内から何かが溢れてしまいそうだった。
思わずカウンターに手をつく。
一瞬だったのか、数分経ったのか時間の感覚も分からない。
恐らく自分を知らないであろう高坂が不安げな表情で自分を見ている。
高:あ、あの…開いてますか?
雑渡は動揺を悟られないよう「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」と微笑みながら声を掛ける。
席に着いた高坂は辛そうな表情をしている。
雑:もしかして体調悪い?
高:あ…ちょっと気持ち悪くて…少し休ませていただければ大丈夫です…
アイスコーヒーをいただけますか?
雑:それ熱中症じゃない?コーヒーより水がいいよ。はい。
水の入ったコップを差し出す。
高:…ありがとうございます。
雑:救急車呼ぼうか?
高:いえ、本当に少し休めば大丈夫なので…。
雑:…なら、せめてそのソファに寝転んでいいからしっかり休みなさい。
今、氷と濡れタオル持ってくるから。
高:すみません。
氷の入ったビニール袋と濡れタオルを持ってくる雑渡。
雑:はい、氷は脇の下。濡れタオルは自由に使って。
高坂は目を伏せたまま、濡れタオルを額や首に当てている。
あぁ…この顔は変わらないなぁ…と懐かしそうに眺める雑渡。
何度彼の寝顔を見ただろうか。
雑:店じまいするから少しうるさくするけどごめんね。ゆっくりしてっていいから。
高:えっ!なら、出ます!
雑:違う違う。どうせこんな暑さで誰も歩いてないから、そろそろ閉めようと思ってたところなんだよ。君の助けになって良かった
高:…
雑:今日は誰も来なくて寂しかったし、回復したら話し相手にでもなってよ。はい、とりあえずお休み。
と起き上がりかけた高坂をソファに優しく倒して寝かせる。
――――――
高坂が目を覚ますと、店主がカウンターの中でコーヒーを準備している。
雑渡:おはよう。気分はどう?
高坂:あ…だいぶ良くなりました。ありがとうございます。
雑渡;良かった。ちょうどコーヒーを入れるところだったから、飲む?温まるよ。
高坂:ありがとうございます。お願いします。
コーヒーには詳しくない高坂だったが、芳醇な香りと体内をやさしく温めてくれる適度な温度に思わずため息が出る。さっきは体中が熱くて気持ちが悪かったのに、今は体内の温かさが心地良い。
カウンターの中では、店主自身もコーヒーを入れようとしていた。
話相手になってほしいと言っていたものの、今は何も口に出さず店内に溶け込むように存在している。
こちらに気を遣っているのがわかった。
店に入った時は気づかなかったが、かなり高身長で体格がいい。このようなレトロ喫茶にはいささか不釣り合いな気がした。けれども、なぜだか居心地は悪くなかった。
時間をかけてゆっくりとコーヒーを味わい、店主にお金を支払おうと声をかける。
雑:いらないよ。コーヒーは私が飲もうとしてたのをついでに入れただけだし。
高:そんな訳には…!こんなにお世話になってしまって。
雑:それならまたおいで。今度はちゃんとしたコーヒーを出してあげる。
とお金を出そうとしていた手を両手で包まれ押し戻される。
にっこり微笑む店主に思わず言葉に詰まる。
なぜだか強く言えない気がした。