熱は結局三十八度九分まで上がった。 ざあざあ、ぱちぱち。
雨の音、それから雫がビニールに当たって弾ける音が響く。
本日月末の土曜日。霊とか相談所は休業である。霊幻が風邪を引いた為だ。エクボはいつもの都合のいい男の身体を借りて、霊幻のアパートへ向かうところであった。
自分の事を蔑ろにしがちな所長だとは思っていたが、昨日の土砂降りで茂夫に傘を貸して自分が風邪を引いている霊幻のことを考えると、最早ただの馬鹿だとしか思えない。
自らを大事にしない霊幻に対して苛立ちを覚えながら道を曲がる。そこは霊幻がよく行くコンビニ。そして、店先で真っ赤な顔で雨宿りをしているらしい霊幻の姿。
「……おい。」
「うわっ、エクボか。びっくりした。」
「お前さん、なんでこんな所にいる?馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、床に臥せっている間大人しくも出来ねえ馬鹿だなんてな。」
「いや違うんだよ……。」
「何が違ぇんだ。」
聞けば、朝食を用意しようとしたところで家に何も無いのに気付いたが、身体が怠くこの時間まで買いに来るのを渋っていたらしい。丁度雨が止んだからとの事だが、傘も持ってこないとはほとほと聞いて呆れる。そう考えたところで今は傘を茂夫に貸しているのだった、とエクボは思い出した。
「はァ……お前さんなぁ……。」
「なんだよ、もういいよ。なんとでも言え。」
「とりあえず、何が食いたい?」
「は?奢ってくれんの?」
「まぁな。」
珍し、いいの?と目をぱちぱちさせる霊幻を眺め、その頭に手を伸ばそうとしてやめた。子供扱いすんな、と詰られる未来しか見えない。
霊幻は、暑くなってきて身体もしんどいので冷たいものがいいとリクエストをしてきた。このまま店先でごちゃごちゃ話していたら邪魔になる。スウェット姿の霊幻と並んで自動ドアを潜った。
「ん〜、ゼリーとかか?ここら辺か?」
「あ、俺これがいい。ミルクプリン。」
「おー……ってお前さん、ここぞとばかりに高いもんばっかりカゴに入れてねえか?」
「気のせい気のせい。」
中途半端に甘やかし始めたせいで霊幻が調子に乗っているのは否めないが、たしかに身体は辛いらしく、少し高めの粥やプリン、アイスや液体ゼリーをカゴにぽんぽんと放っていく。
「俺の勘だが、あと二日は熱が引かないだろうな。」
「謎によく当たるお前さんの勘な。ほんとなんなんだよ。つか病院いけ。」
「やだよめんどくさい。俺の自然治癒力舐めんな。」
「そもそも風邪引くようなことしたのお前さんだろうが。」
「それはまあ……。モブが風邪引くよりいいだろ。」
霊幻は気まずそうに顔を逸らすと、あからさまな態度で「喉にホットスナックのチキンがいいらしいから試してみたい。」とその店でいちばん高いチキンを所望してきた。図々しい奴め。
恙無くレジを終え、店先に出て霊幻に傘を差してやる。
「ほら、送ってってやるから入れ。」
「サンキュ、てかなんで居んの?」
「今更すぎるだろ……。風邪引いたってシゲオから聞いたからよ、なんか差し入れしてやろうと思ってよ。」
「エクボってほんと優しいよな。自称上級悪霊のくせに。」
「馬鹿にしてんのか。」
本当にコイツは馬鹿だ。きっと今も、「モブが自分のせいでって落ち込んでるから代わりに行ってきてやるって感じだろうなぁ、優しいなあ。」とか考えているんだろう。そんな顔をしている。最近コイツは、俺様といる時にポーカーフェイスを崩していることを自覚しているのだろうか。
俺様が優しいのは茂夫に対してもそうだと思うが、自ら進んでやりたくてやってる優しさは、お前さんに対してもだと言うのに。
「……なぁ。」
「なんだよ。」
「このまま帰んの?」
「そらそうだ。移されちゃ適わねえからな。」
「ふーん。」となんでもないように相槌をする霊幻は、どこか拗ねているように見えた。
今自分がどんな顔してるのかこいつには分かっているのかいないのか。エクボは小さくため息をつくと、隣に並ぶ肩が少し跳ねた。
「あ、のさ。」
「あ?」
「雨つえーじゃん。」
「そうだな。」
「俺ん家で……雨宿り、してけよ。」
隣をちらと見遣ると、うろうろする視線とかち合った。眦はほんのり赤く、緊張しているようでもあった。
「お前さんがそれでいいなら。」
「……まじ?」
「自分で誘っといてなんで結局疑うんだよ。」
「いや、断られると思って。」
「……そうかい。」
もう何も言うまい。そう決め込んで、無言で霊幻の持っている袋をひったくってやる。
「え。」
「……。」
「あ、ありがと。」
俺様が自覚してるんだから、お前さんもはやく自覚しろよ。なぁ、霊幻。
*
ふぅ、とひとつため息が溢れ、かちゃりと金属音が続いた。
「もう腹いっぱい……。」
「寝てろ。片付けしといてやるから。」
「ん……。帰んの?」
「身体返しに行かなきゃだろ。」
熱も引かず、朝から何も食べずにようやく満たされた腹を擦りながら霊幻はエクボを眺めた。
「眠いんだろ。寝ろ。」
「でも。」
「あんだよ。」
「帰らないで、欲しい。」
瞠目する。そんな態度、あからさまにするような奴だっただろうか。スーツの裾が控えめに引かれ、エクボは動きを止めた。
「……誤解がないように言うが、」
「……おう。」
「………………。」
「なんなんだよ。」
「……す、きだ。……から、今はそばにいて欲しい。」
「……。」
「だ、黙んなよッ!」
びっくりして心臓が止まるかと思った。霊幻は熱で赤い顔をさらに真っ赤にして震え、声もか細く、いつもの堂々と、飄々としている姿とは似ても似つかない。
「熱、何度だ。」
「は、」
「測れ。寝ろ。」
「ちが、その……!誤解すんなってば!」
「分かってるっての。」
「は?」
今度は霊幻が瞠目する番だった。何が分かっているのか、と。
「霊幻、お前さんが俺様を好きなことくらい、前から知ってる。」
「はあ!?」
「そしてそれを自覚してなかったことも。」
「ゔッ。」
「熱に浮かされてる間に意識朦朧として告白なんて、嫌だろ。霊幻。大人しく寝ろ。」
「だから、そんなんじゃない。」
「……本当か?」
「モブの為だけじゃないってことくらい、俺にもわかる。」
ああ、見透かしていると思っていたら、見透かされていたらしい。
「お前が……エクボが、あんまりにも俺の事をだいじにするもんだから、俺も、気付いちまった。」
はは、と霊幻ははにかむ。照れたような、嬉しいような、くすぐったそうな。そんな表情。
「……病人のくせに煽るな。」
「煽ったつもりねえけど!?」
さっき諦めた頭をぐしゃりと掻き撫ぜ、抱き寄せる。
「分かってんのか。」
「なにが。」
「俺様は上級悪霊だぞ。」
「分かってるよ。そして優しいってことも。」
「離してやれねぇぞ。」
「じゃあ優しくすんなよ。自覚させんな。」
「……それは無理な話だな。」
「だろ。」
勝ち誇るようににんまりと笑って見せた霊幻に、唇を寄せる。
「……ん、」
「全部。お前さんの全部、俺様にくれ。」
「……いいよ。じゃあ、引き換えにエクボの全部も俺にちょうだい。」
返事をするように、もう一度口を塞いだ。
「なぁ、ほんとに帰んの?」
「気が変わった。」
「移されちゃ適わねえって言ってたろ。」
「望むところだ。」
「お前の身体じゃねえ癖に。」
生意気に屁理屈を捏ねる霊幻の額を弾く。「イテッ、」と恨めしそうに見てくるが、今のは霊幻が悪い。
「な、もう一回。」
「止まれなくなるぞ。お前さん熱あるんだろ。」
「俺の勘だが、あと二日は動けなくなる予定だ。」
「さっきも聞いた。」
「さっきは、"熱が引かないだろうな"って言ったんだ。」
「……。」
「で、よく当たる俺の勘に従い、事務所のホームページを更新してある。」
「なんて。」
「来週は臨時休業です、と。」
ドヤ顔でそう宣う霊幻に、どうやらこの詐欺師の掌の上だったらしいことを悟った悪霊は、病人だからと配慮することを諦めることとなった。