朝は毎日戦場だ。
髪の毛はツヤと手触りの良さが命。前髪は自分で眉下ミリ単位で調整してアホ毛を抑えるステックバームを使う。毎晩美容液を塗って大事に育てている眉毛は小うるさい生徒指導の先生にバレない程度に軽くカールをつけて、目は少しでも大きく見えるように。化粧は元の素材を生かすためになるべく薄くする。でもニキビ跡は消えるように。最後に軽くリップを2度塗りして落ちにくくなったことを確認したら、うん、今日も可愛い私が鏡の中にいた。
私が入学した高校は生徒数がこの地区でも1位、2位を争ういわゆるマンモス校だ。
入学する前はこんな人数がいるなら、私にもかっこいい彼氏ができるはず…!と意気込んでいたのはいいものの、そんな少女漫画のような素敵な出会いがある訳ではなく部活にも興味ない私はニキビと体重が増えてきたことに悩みながら対して面白くもない授業を受けて学校と家を往復する日々を過ごしていた。
結局高校生になったからって、そんなすぐに変化があるとは限らないなと怠惰に過ごしていたある時、彼は彗星の如く現れた。
「今日から教育実習生として3週間来てもらう事になった信一先生です。じゃあ挨拶よろしくね」
「藍信一です。よろしくお願いします」
いつもの朝のホームルーム、一瞬の静寂の中、比喩ではなく私の背筋に電流が流れたようになった。
緩めにカールがかかった髪の毛から少し垂れた目を覗かせ、スッキリと伸びた鼻筋。顎から首のラインと体の半分以上あるのではないかという脚はすっきりとしていて、引き締まって力強さを感じる体格ながらスマートさを醸し出している。
まるで私がよく読んでいる少女漫画から抜け出してきたみたいな、想像する大人の男性そのままだった。
「信一くんは、うちの卒業生でね。こんな立派になるとは思っていなかったよ」
担任の先生の言葉に、クラスの女子たちがざわめく。もちろん、私も例外ではなかった。
「え、待って待って、あの人が先生? 嘘でしょ?」
「絶対モテるじゃん……てか、もうモテてるじゃん……!」
「(え、なにこの人……かっこよすぎない!?)」
そう、顔良し、身長も良し、それでいてぱっと見は優男って感じなのに意外と男女問わず砕けたノリで生徒ウケ良し、他エトセトラ。
そんな彼をただでさえ年上の男の人が否応なしに魅力的に見えてしまう多感な時期の女子たちが放っておくなんて無茶な話だ。瞬く間に学校内の女子の話題を掻っ攫い、人気者になるのに時間はかからなかった。
私の想像通り、信一先生のイケメン具合は噂好きの女子たちに瞬く間に広まっていき、その日から一目でも信一先生を見ようと休み時間には他のクラスの女子たちや先輩たちが、目を輝かせながら入れ替わり立ち代わり外から教室の中を覗き込み始め、廊下には先生目当ての女子達が廊下に溢れるようになっていった。
「せんせ~好きなタイプは?」
「ねえ~信一先生、一緒にパンケーキ食べにいこうよ」
「甘いもの好きだけどな、俺はまだ捕まりたくねーの」
「あ、じゃあせんせ~! 今日の放課後は空いてる?」
「お前ら質問しにきたんじゃないのかよ」
えーっと残念そうな、しかし話してもらってどこか浮ついたテンションで女の子たちが信一先生周りを囲んで黄色い声色で話しかけている。変に真面目でもなく、かといってちゃんと後腐れないように対応する彼は普段からこのように言い寄られることに大変慣れているのだろう。それがまた彼の魅力を際立たせるんだから、まぁたまったものじゃない。
そんな私もアピールしてるかって?私は周りの女の子たちの目が怖いので毎日朝早くメイクをして、取り巻きの女の子たちがまだ登校していない時を狙って何とかアタックをする日々だ。
「信一先生、おはようございます!今日もかっこいいですね!」
「おー、今日も元気だな」と笑いながら軽く肩をすくめた。
最初は「おお…」と私の勢いに少したじろいでいたが、ここ毎日のように同じ勢いで挨拶をしているので向こうも慣れてきたのだろう。相変わらず適当に流されてるのが分かっていつも唇を尖らせながら膨れてしまう。
「先生、私、本気なの!先生のこと好きなの!」
「はいはい、ありがとなー」
「軽い!」
「重くされても困るだろ」
「むむむ……!」
うーん、メイクをいろいろ変えてみたり、髪型を流行りの可愛いアイドルのように巻いてみても、先生にはあまり効いていないみたいだ。
「ねえ、やばくない? もう信一先生、完全にアイドルじゃん」
「ほんとそれ……」
私も、日に日に増えるギャラリーを遠目で見ながら小さくため息をついた。ギャラリーの中には学年で一番かわいいと評判の子もいる。あの子三日前までサッカー部の先輩と付き合ってなかったっけ。
「え、もしかしてあんた、毎日好き好き言ってるのってマジだったの?」
「え、逆に嘘だと思ってたの?」次の作戦はどうしようかと机に突っ伏して悩んでいた私はその言葉を聞いてバッと起き上がる。
「そりゃバカみたいに好きって言ってたら冗談だと思われるでしょ」苺牛乳のパックを吸いながらしらけたように先生を取り囲む女の子たちを見ながら隣の席のマユが、呆れたように言う。
「やめときなよ。どうせ実習期間の間だけなんだから、遠くで見てるのがいいよこういうのって」
そんなやりとりを繰り返すうちに放課後になり、今日はよく見るYouTuberがおすすめしていた参考書を買いにショッピングモールに向かっていた。もう少しで小テストがあり、信一先生が担当の数学の小テストもあるのでちょっとでもいい点を取って褒めてもらおうという魂胆で誰にも内緒で小テストに向けて勉強を始めていた。
ただ調べるとその参考書は学校から離れたショッピングモールの中にある大きい本屋にしかないようで、ネットで買えばいいものの、高校生が買うには少し高い物なのできちんと中身をみて買おうと思い、向かっていた時だった。
──ブゥゥゥン……!
近くで乾いたエンジン音が耳に響く。通り道にコンビニがあるからそこでたむろしている人がいるのだろうかと思い、音の方向を見ると、そこにいたのは青いバイクにまたがっていた信一先生だった。
「えっ……?」
思わず立ち止まる。先生はコンビニの脇の少し奥まったところでバイクに跨ったまま煙草を吸っている。すれ違う時にコロンの香りとは別に煙草の苦い香りはするなと思っていたけど、学校が禁煙ということをあって喫煙姿を見ることはなかった。長い手足をもてあそぶかのようにバイクに跨り、スマホをいじりながら煙草を吸う姿は、いつも見る「先生」とは違い、どこか海外のモデルのようないで立ちをしていた。
──しかも先生って、バイク乗るんだ!?
どうしよう、めちゃくちゃかっこいい。いつものフランクな雰囲気とは違ってどこか色っぽくって、見ているだけなのに、首元が熱くなってきた。
少し俯いてスマホをいじっていた先生がふと顔を上げる。その瞬間、私と目が合った。
「……お?」
先生の表情が一瞬固まる。私は慌てて口を開いた。
「先生、それ……バイク通勤ですか?」
「……違う」
「ウソついた!」
先生は少し困ったように目を逸らし、私でもわかる嘘をつくと煙草をポケットから取り出した携帯灰皿の中に捨てて居心地が悪そうに髪をかき上げた。
「誰にも言うなよ。教育実習生が煙草吸ってる上にバイク通勤って、あんまり印象よろしくないからな」
「へぇー……」
誰にも言うなよ──
その言葉が私の中でむくむくと膨らんでいく。それはいわゆるあのいつも周りにいる女子達も、全員誰も知らないということで、誰も知らない先生の「秘密」を知ってしまった喜びが胸の中にふわっと広がる。
「じゃあ、私と先生だけの秘密ですね?」
頬を緩ませながら上目遣いで少しわざとらしくと笑ってみせると、先生はいつものように少し呆れた表情で「まあ、そういうことになるな」と苦笑しながら、先生は軽く私の額を指で弾いた。
「いたっ!」
私はおでこを押さえながら先生を睨む。
「なにするんですか! せっかく可愛くアピールしてるのに!」
「そういうとこだよ、あんまり教師をからかうなって」
「えー、からかってないですよ。てかまだ教師じゃないのに」
「はいはい、そういうことにしといてやる」
先生は適当に流すように言いながら、ペットボトルの水をひと口飲んだ。その何気ない仕草すらかっこいいのがずるい。
「……でも、本当はちょっとドキッとしました?」
「しないね」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そう言いながらも、先生はいつもより少しだけ優しい笑顔を見せてくれた。
──先生の秘密を知ってしまった。
それだけで、あの甘い砂糖菓子みたいな声で先生にアピールする子たちや、学年で一番かわいい女の子たちよりずっとずっと先生に近づけた気がする。口がにやけて思わずバックを口元にもっていって隠した。やっぱり勉強はまた明日。すぐ帰って上目遣いが可愛く見えるメイクを練習しよう。