寝落ちからの寝落ち『千空ちゃん…』
夢の中のゲンは、とろりとした甘い声で自分を呼ぶ。
熱を帯びた瞳で見つめてくるその顔に触れうと手を伸ばし………いつも、そこで目が覚める。
「~~、またかよ」
千空の手が、ゲンに届いたことはない。
現実で振れる勇気はないくせに、夢の中でなら触れるなんて都合のいいことは起こらないのか。
行き場のない感情から意識を逸らそうと夢のメカニズムについて考えてみるが、すぐあまりの無意味さに溜息が漏れる。
乱暴に頭を掻くと、隣で何かが動いた。
「………ゲン?」
顔を横に向けてそれが何か視認し、驚いて体を起こした。
ゲンが、千空の布団に胸から上だけ乗せ、千空の方に顔を向けて俯せに眠っていた。部屋に入り込む月明かりに照らされて、アシンメトリーの白髪が輝いている。
ついさっき届かなかったその顔が、すぐ近くにある。吸い寄せられるように手を伸ばしかけて、思わず周りを見回した。
煮詰まって書き散らした図案が何枚も床に広がっているだけで、誰もいない。そもそも、千空の自室に勝手に入ってくるのはゲンくらいだ。
そこでふと、布団を敷いた覚えがないことに思い当たった。
半分寝ながらどうにか片付けて自力で敷いて寝ることが多いが、今は紙を避けて部屋の隅に布団が敷いてある。寝落ちている千空を見つけたゲンが、布団を敷いて寝かせてくれたのだ。
それ自体はたまにあることで、翌朝ゲンの小言を聞き流しながら、一緒に朝食を摂るまでがセットだ。
そんなことより、なぜゲンがこんなところで眠っているのだろう。他人の体を心配して布団に寝かせておいて、本人は床で眠りこけるなんておかしな話だ。
ゲンを起こさないようそっと、再び体を横たえる。滑らかそうなその肌に自分の荒れた指で触るのが躊躇われ、手の甲でゲンの頬に触れた。
ゲンの口から「んむ…」と小さく音が漏れるが、起きる気配はない。
しばらく触れていると当然のように物足りなくなり、手を返して手のひらでそっとゲンの頬を包んだ。そろりと撫でると千空の手のひらの感触を嫌ってか、少し眉を寄せる。
無防備な寝顔につい目元が緩む。
起こして自室に帰らせなくては。寒くはないが、床で長時間眠っては体を痛めるかもしれない。
もう少し、やっと手の届いたこの肌を堪能したら。
もう少し、もう少しだけ。
女々しくゲンの顔を見つめていて、ある可能性が浮かんだ。
ゲンも今の自分と同じ事を思ったのではないか。もう少しだけ、と千空の寝顔を見ている間に眠ってしまったのではないか。
自分の希望に全振りした仮説に苦笑し、千空は大きく欠伸をする。
ゲンの規則正しい寝息を感じているうちに、千空の意識は薄れていった。
朝を告げる鳥の声が耳に届き、千空は目を開ける。眩しい世界に頭が覚醒した瞬間、勢いよく体を起こした。すぐ隣にいたはずのゲンの姿は、そこにはない。
夢だったのだろうか。けれど間近で見つめた寝顔も初めて触れた頬の感触も、しっかり覚えている。
「おはよ~千空ちゃん。顔色いいね、よく眠れた?」
外に出ると、顔を洗っていたらしいゲンと遭遇した。作っていることを隠さない作り笑顔と、嫌味の含まれた言葉が飛んでくる。
「おー、おかげさまでな」
「そりゃ何より。俺は最後の大仕事で疲れちゃったな~」
これ見よがしに肩を回して背伸びをするゲンに、ひらひらと手を振る。
「~メンタリスト様は面倒見もよくておありがてぇこった。朝飯食いに行くぞ」
「感謝の気持ちが全くこもってない!!」
背を向けて歩き出すと、ゲンは不満の声を上げつつすぐ後ろをついてくる。
「…なぁ」
「ん?」
「テメーもあの部屋で寝たらどうだ。夜中にわざわざ俺の様子を見に来る手間が省けて効率的だろ」
「…えぇー?俺にさらに面倒見させる気ぃ…?」
嫌そうに顔をしかめたゲンは、何かぶつぶつ言いながら考え込んでいる。
歩きながら振り向くと、顎に手を当てているゲンと目が合った。にやり、と笑ってみせる。
「俺の寝顔も見放題だぞ、悪くねぇだろ」
びたりと立ち止まったゲンの顔が、みるみる赤くなっていく。
「えっ、千空ちゃん、起きて……?」
「ククク。何のことだかわかんねぇな。あとで布団運んどけよ」
「ちょま、ま、待って千空ちゃん」
顔色だけは一瞬でコントロールしたゲンが、慌てて後を追ってくる。
希望に全振りした仮説は、外れていなかったのかもしれない。夢に頼らなくても、その頬に堂々と触れられる日も近そうだ。
そう思うと口角が上がるのを抑えられず、手で口元を覆った。