ノー残業デーのくりへし「長谷部。」
名前を呼ばれ、ビクリと肩を揺らす。隙の無いロートーンは遠慮なく鼓膜から心臓へ直結し躊躇なく鷲掴みする。顔を上げなくてもわかる。大倶利伽羅だ。きっといつものように腕を組んで立っている。
ゆっくりと声の方へ顔を上げる。ほら、いつものように腕を組む大倶利伽羅。
肩越しに見える柱時計の長針の位置は5。まもなく定時だ。
「…なんだ。」
「このあと、予定は?」
じわりと鼓膜から深く濃く浸潤する声が、まるで心臓をゆっくりと押し潰していくように響く。長谷部は早鐘のように鳴り響く鼓動を必死に抑えながら、震える指でキーボードを叩き続けた。嬉しさと寂しさ、そして苦しさが胸を締め付ける。
「ある。俺は忙しい。」
「そうか。」
大倶利伽羅はそう呟くと窓の外を見やった。葉が色づき始めた街路樹が並び、夕焼けが空を茜色に染め始めている。その先にはまだ少し明るさが残る空が広がり、街の喧騒が静かに遠ざかる。
「…下で待っている。」
「えっ。」
大倶利伽羅の言葉に、長谷部は驚いて手を止めた。混乱が渦を巻き目の前の全てが霞む。
「な、予定があると言っている。おい、待て!」
必死に言葉を紡ぎ出すが、大倶利伽羅の背中は既に遠ざかりつつあった。言葉が空中で霧散し空中分解する。
「どうしろと…。」
長谷部は手をデスクに置き、真っ黒な画面に映った情けない顔を見つめる。胸の奥に重くのしかかる感情に思考は乱れ、何をすべきか、何を言うべきか分からない。
柱時計の短針がたんっと囁く。
17時前のそわそわした喧噪が漂うオフィスの中で、囁くように時を刻む音。その音は微かでありながら、長谷部の心に静かな圧力をかけ続けた。
創立記念日前日の今日は「ノー残業デー」。残業が通常であることが前提の特別扱いの日。会社が定時を設けているのならば、本来定時に退社できるのが当たり前のはずなのだが。そして、今日はその特別感が一層際立つ「木曜日」の「ノー残業デー」。
皆を定時に帰らせるために自分も残業できない。
フロアを見渡し、保管庫の施錠を確認して照明を落とす。その瞬間、心に溜まった疲労が一層深まる。
長谷部は深い溜息をつきながら、重い足取りでエレベーターホールへと向かった。
同期入社の大倶利伽羅とは、時間が合えば仕事帰りに晩飯を一緒にするくらいの仲だ。特別に仲が良いわけではないが、不仲でもない。お互いに程よい距離を保っていた…そう思っていた。
大倶利伽羅を避け始めたのは、何でもない些細な理由。夕焼け染まる窓越しに大倶利伽羅と同僚が笑いながら歩く後ろ姿。…本当に、ただの何でもない光景だった。
穏やかな笑顔の先。そこは俺の場所だ、と。
とめどなく湧き上がる、苦い孤独感。
突然、自覚してしまった戸惑いと沸き上がり続ける感情が胸を締め付け、苦しくてたまらない。同性の同僚に抱いてしまったこの気持ちはあってはならないもの。そう感じるたびに、ますます心が重くなる。無くさなければならないのに、それができない自分が情けなくて、さらに苦しさが増す。
大倶利伽羅の存在が特別な位置を占めている。そのことを自覚してから、毎日が息苦しくてたまらない。
本当に待っているのだろうか。
このまま帰ってしまおうか。
大倶利伽羅との約束があさましくも嬉しい。心の奥底で期待が膨らむたびに、やめろ考えるな行くな、と警告灯を点滅させる。
誰もいないエレベーターホール。エレベーター前で自問自答していると、背後から伸びてきた腕が下向き矢印のボタンを押した。
「終わったのか。」
いつもより低い声に心臓が嫌な音を立てる。
鞄を握り直し、静かに息を吐く。
「俺は、予定がある、と言った。」
エレベーターの扉が開くと、逃げるように乗り込み閉じるボタンを連打する。
「…俺も乗る。」
扉を押さえながらゆっくりと乗り込む大倶利伽羅。
関係が壊れてしまう前に気持ちをなくしてしまいたい。…なくすから、だから、時間をくれ。
扉が開くと同時に早足で帰ろうとする俺の腕を、大倶利伽羅が掴んだ。
「待て、」
長谷部は必死に腕を振りほどこうとするが、大倶利伽羅の握力は強く、逃げることができない。
「俺は忙しいんだ」
「嘘だな」
大倶利伽羅の言葉に、長谷部は一瞬動きを止める。その間にエレベーターの扉が閉まり、二人は狭い空間に閉じ込められてしまった。
逃げ場のない状況に追い詰められたはずなのに、大倶利伽羅のシャツからほのかに漂うコーヒーの香りにうれしくて泣きそうになる。
覚えてしまった‘いつも‘の大倶利伽羅の、香り。
「俺は、忙しいんだ。」
「……避けられている理由を知りたい。」
静かに問う大倶利伽羅の琥珀色の瞳が、まっすぐに長谷部を見つめる。その瞳に囚われた瞬間、長谷部の時間は止まる。心臓が一瞬、鼓動を忘れ、全身がその視線に引き寄せられる。囚われる、逃げられない、よろこび。
「俺は…」
言葉が喉に詰る。大倶利伽羅の手が少し緩んだ瞬間、長谷部は再び逃げ出そうとするが、大倶利伽羅は再び強く腕を掴む。
再びエレベーターの扉が開くと、大倶利伽羅はそのまま長谷部の腕を引いてエレベーターから出る。
「離せ…」
引かれた腕を振りほどけないまま、大倶利伽羅の車へ乗り込む。
「俺は、予定があると言った…。」
ため息混じりに呟いてみたものの、黙ったままの大倶利伽羅はフロントガラスの向こうに目をやったきりこっちに目もくれない。
長谷部の心臓は嫌な音で軋み続けたまま、次第に街の明かりが遠ざかり、静かな山道へと入る。
連れられた所は、もともとだんだん畑だった農場キャンプ場。程よく人の手入れが行き届いて管理されている。湾を囲むように市街地の明かりが遠く灯り、沈む夕日が木々の影を長く伸ばしている。平日だからか、人気がない。
大倶利伽羅の指示でテントを一緒に設営する。大倶利伽羅の手際の良さに見惚れ、すぐに警告音を鳴らす。焚火に照らされた横顔に見惚れては、警告灯を鳴り響かせる。
その度に、こんな状況でも同じ時間を過ごすことに浮かれている自分が嫌になる。どうして、こんなにも簡単に惹かれてしまうのか。関係が壊れることへの恐怖と、胸が締め付けられる幸福感とその罪悪感に苛まれる。自分が情けなくて仕方ない。どうしようもなく嫌になる。
黙々とテントを設営し、焚き火を囲んで座るころにはすっかり日も暮れていた。
大倶利伽羅とふたり、静寂が広がる満天の星空に包まれる。
パチパチと焚火が燃える音が心地よく響く中、エレベーターでの出来事が嘘だったように穏やかな時間が流れる。
緊張と疲労で乾いた喉を潤すために、長谷部は途中コンビニで買い足した缶ビールを次々と開けていく。プルタブを引く音が響くたびに、微かなシュッという音が夜の静寂を切り裂く。
最初の一口を飲み干すと、冷えたビールが喉を通り抜け、体の中に染み渡る。ビールを飲み干すたびに、少しずつ緊張がほぐれていくのを感じる。焚火を見つめ、ビールの缶を傍らに積み重ねていく。
酒量が進むにつれて、焚火の揺らめきが二人の距離を自然に縮めていく。
長谷部の体が少しずつ重くなり、大倶利伽羅の肩に寄りかかる。大倶利伽羅は、長谷部の背中が寄りかかるのを感じながらも、特に何も言わず、ただ静かに受け入れている。
焚火のパチパチという音と、缶を開けるシュッという音が交互に響き、二人の間に心地よい静けさが流れる。長谷部は缶ビールを手に取り、次々と飲み干しながら、大倶利伽羅の肩越しに星空を眺める。
長谷部はふわふわした頭で、間近で動く形の良い唇に釘付けになっていた。
「…言いたいことがあるんじゃないか」
大倶利伽羅の低い声が耳元で囁くように響いた瞬間、長谷部の心臓が一瞬止まった。酔いが醒め、現実に引き戻される。
慌てて視線を逸らそうとしたが、その動きはぎこちなく、視線は大倶利伽羅の唇に戻る。勝手気ままに踊り倒す心臓を無視して、ぐっと視線を横に向け、顔を下げ大倶利伽羅の視線から逃れようとした。
「な、い…」
しどろもどろと答える声が震えた。視線を逸らしながらも、心臓の暴動は収まらず、大倶利伽羅の唇に戻りたがる自分を必死に抑え込む。
「長谷部?」
吐息が再び触れると、全身が震えるような感覚に包まれる。冷たい。
…冷たい?
「ひゃあッ」
いつの間にか長谷部の手をすり抜けた缶ビールが膝の上で広がり、シュワシュワと音を立てる泡。慌てて缶を拾い上げ、大倶利伽羅から手渡されたタオルで泡を抑える。わたわたと膝を拭きながら、見上げた大倶利伽羅の肩が震えているのに気づく。焚火に照らされたその表情は、どこか楽しそうで。
酔っ払いに揶揄われたのか、それとも…。
心の中の警告灯はいつまでも鳴りやまない。
パチパチと音が聞こえ、焚火の匂いが漂う中、薄らと目を開ける。見慣れない低い天井と身動きができない体に一瞬だけ戸惑う。しかし、すぐに自身を包む大倶利伽羅の匂いで落ち着く。あれから寝落ちしてしまったのか、モゾモゾと寝袋から這い出し、テントから顔を覗かせる。
「!!」
夜明け前の冷気が素肌を刺す。白い息を残し、慌てて首をテントに引っ込め天井に吊るした半乾きのズボンを履き、パチパチと音が鳴る焚火台へ近づく。
「おはよう」
「ああ、」
長谷部の方へ少しだけ振り向くと、大倶利伽羅は側に積んだ杉の枯れ木をひとつ残して端に寄せた。
長谷部は残された枯れ木を椅子代わりに隣に座る。促されるまま座ったものの、大倶利伽羅の肩が触れて、慌てて座り直す。あいかわらずこの心臓はいうことを聞かない。
大倶利伽羅はチラリと一瞥するが、何も言わずに再びカタカタと湯気が上がるケトルを見つめる。焚火がふたりを柔らかく照らし、夜明け前の冷気を忘れさせる。
温泉宿のロゴが入った薄いタオルをミトン代わりに平べったいケトルを持ち上げると、少しの湯気が柔らかく上がり、ゆっくりと滴る湯がフィルターを満たしていく。
焚火のパチパチという音と、コーヒーを淹れる音が混ざり合い、静寂がゆっくりと流れていく。
香ばしい湯気がほのかに立ち上る中で、長谷部は幸せをかみしめた。
…もういいか、俺には贅沢すぎる時間だった。
長谷部は片思いを終わらせる決意をした。
「長谷部」
大倶利伽羅の声が、静かな夜の中で響く。焚火の灯りに照らされた横顔は優しい表情を浮かべている。
「もうすぐだ」
「もうすぐ?」
空へ視線を向ける大倶利伽羅。
「ああ、もうすぐ」
長谷部は大倶利伽羅の目線の先を辿る。
星あかりが薄い空に浮かび、山の裾野が深い青色から橙色に変わり、ゆっくりと雲を金紫に染めていく。
二人はただ黙って透明で清浄な朝を迎えた。
静寂が二人を包む。
徐々に木々の影が濃く長く伸び、鳥たちが目を覚まし、さえずりが聞こえ始めた。朝露が葉から零れ落ちその滴が地面を濡らしていく。そして、大倶利伽羅は嬉しそうに口元を緩ませた。
「あんたに見せたかった」
「え、」
「あんたと見たかった」
「俺、と」
「ああ」
大倶利伽羅はふっと笑い、優しく言葉を続ける。
「一日の始まりはいつもあんたと迎えたい」
「え、」
「好きだ」
「は、」
大倶利伽羅の手が長谷部の頬を撫でる。その温もりが夢ではないことを知らせる。
「長谷部が、好きだ」
「…」
長谷部は大倶利伽羅を見つめる。心臓が激しく鼓動し、言葉が出ない。
「返事は?」
確かめるように、大倶利伽羅は問いかける。
僅かに震えた手が再び長谷部の頬を撫で、二人の距離が一層近づく。
「あんたも俺が好きだろう」