そうして私を越えて往け なんとなく眠れない夜だった。
同室はとっくに寝入っているというのに、もう半刻もごろごろと寝返りをうっては代わり映えのしない天井の板目を眺め続けている。はぁ、と形だけのため息をつく。一度寝れないと自覚したらもう駄目だった。寝れない。
(こうなったら、いっそ外へ出て気分を変えてこようか)
外の空気を吸うだけでも違うかもしれない。音を立てないようそぉっと戸に手をかけて出た廊下は少し肌寒く、寝着のままで出てきてしまったことを少し後悔した。制服に着替えるかとも考えたが、そんな考えは一瞬で頭から消した。ここで着替えたら絶対寝れなくなる。
ましてや、うっかりその状態でまだ鍛練に出ていた先輩方に出くわすなんてことがあったら最悪だ。それこそ朝まで寝れない。疲れ果てたまま明日の授業に出なければならなくなる。
流石に外を散歩する気にもなれなかったので、少しだけ廊下を往復したあと、そのまま池の見える縁側に座った。
鯉すらすでに寝入ったようで、水面には一つも波がたっていない。世界が無音に思える今もきっと鍛練しているものもいれば実習に出ているものもいる。確か今日と明日で五年い組が戦場視察の実習だったはずだ。とすると、この山の先の先では陣が張られているわけだが、ここではそんなことを知る由もないほど何も聞こえてこない。
(なんだかなぁ)
戦乱の世という言葉がどこかにいってしまったようで、かといって平和だというのも少し違う気がする。現実と夢との狭間にいるような、そんな感覚。
さっきまで寝よう寝ようと頭に訴えかけていたせいで、そんなことを思うのかもしれない。
ぼんやりとしたまま足をぷらぷらと揺らし、空を見上げてみた。快晴。星が良く見える夜だ。
「寝れないの?」
一瞬喉が詰まったが、声は出さなかった。ひょっこり星空の端から出てきた雷蔵はそのまま自分の左へと回り込んだ。
「あれ、驚かしちゃった?」
「少しだけ。全然音しなかったから気がつかなかった。ちょっと悔しい」
三郎に勝てた、と雷蔵が笑う。そのまますとんと縁側に腰掛けた。
「だって三郎が物思いに耽ってるみたいだったから、邪魔したら悪いかなって」
「いや、そんなことはないけど……。ごめん、起こした?」
視界に入ってくるまで同室に気がつかなかったのは、半分寝ぼけながらぼーっと座っていた自分が悪い。まだ少しうるさい心臓の音を整える。
「ううん、なんか今日は僕も寝付きが悪くて。眠りも浅かったみたい」
会話が途切れるとまた静寂が流れる。二人してこんな夜更けに縁側に座って、何をしているのだろう。いっそ酒でも貰ってくれば良かった。確かこの間、勘右衛門が学園長からおつかいの褒美として少し酒を分けてもらっていたから、あいつのところに行けば、あぁでも今は実習で留守か。
無意識に目を向けた先の塀は、確か昨日用具委員会が修補していたものだ。その新しい白が月明かりを微かに反射させていた。
(なんだかなぁ)
あれが境界なのだろうか。
あっちと、こっちの。現実と夢との。
乱世と平穏との。
五年生になって今更塀の外が怖いなどと言うつもりはないが、きっと卒業というのは、ただ塀の外へ出るのではなく、その明確な線を越えていくものなのだろう。そして学園での日々を思い出として後ろに置き去りにする。
そうして自分たちは向こうの一部になる。かつての先輩方もそうだったように。
人は未来にしか希望を持てないものだと思っている。過去はすでに決まったもので、未来は不明瞭なものだから、きっとその未来にすら希望を持てなくなったものから死んでいく。人は過去を越えて今を生き、未来に向かう。
過去も未来も現在も、その瞬間は「私」に相違は無いが、過去は「私」の置いてきたものの集積となる。ともすれば「私」も誰かの集積に成り果てることもあるわけで。
思うに、人は我が儘だから、数多の集積物の中に埋もれないよう「私」を「私」として誰かの中に置きたいのだ。自分自身は未来に向かっておきながら、誰かの中にある過去の「私」が埋もれるのは嫌だ、なんて欲張りにも程がある。
ただ、「私」が死んだ時「私」は誰かの過去にしかいない存在になる。未来に向かって生きていくのに行き着く先は過去しかない。そうなった時、一つでも誰かの過去に「私」が残っていれば、例え名前が変わろうと容姿が変わろうと、その肉体が無かろうと、私の死ではない。
ただ、一方で誰かの中にある「私」は誰かの立場で見た「私」でしかないのだから、果たして本当の「私」だと言えるのだろうか。だとすれば、「私」はどこにいくのだろうか。死と共に消えるのだろうか。
そもそも、自分で「私」を完璧に説明出来るわけなどないのだから生きているうちから「私」というものは存在しないのかもしれない。
私は、死ぬのだって怖くはないと思っている。ただ、死ぬのは、この世の理に負けた気がして、ちょっと悔しい。
だから最期に一つ置き土産をしたいと思った。
「ねぇ、雷蔵」
「何、三郎」
月明かりが反射するその顔に、ふっと笑いかけた。
「卒業しても、「私」を忘れないでくれ」
そうすれば、この塀を越えても「私」は生きて往けるから。