寒い夜 月が高くなり始めた頃、紙に筆を滑らせていた勘右衛門が、しまった、と声を上げた。
「三郎から資料もらうことになってたんだった」
「資料が無いと出来上がらないの?」
布団が擦れる音がして、同室の兵助が振り返ったのを背で感じながら勘右衛門は静かに筆を置いた。
「うーん、ちょっとね、新しく調べるのに時間がかかりそうなやつだから……」
明日までに仕上げたいんだよなと言いながら手元の硯と筆を整えると、小さく息を吐いた。こんな夜遅くに三郎が起きているかは分からないがひとまず部屋の前まで行ってみようと立ち上がる。そして同室に一声かけてから、かた、と部屋の戸を開けた。
「さむっ」
勘右衛門がぶるりと身震いした。ほんの少し開けただけで一気に部屋に入りこんだ冷たい風に、室内にいた兵助も咄嗟に全身を布団に突っ込んだ。まだ起きていた兵助は手元に本を抱えていた。いつもは机に向かって本を読む兵助だったが、今日はあまりの寒さに布団の横に灯りを持ってきており、布団に潜り込んだまま紙を繰っていた。
そろそろを半纏を着るになったかと思いながら冷えた廊下板の上を足早に進むと三郎と雷蔵の部屋から灯りが漏れているのに気がついた。と同時に鼻先を覚えのある匂いが掠める。勘右衛門は駆け出した。
「二人とも! 鍋やってるな!?」
「馬鹿! 寒いから早く戸を閉めろ!」
声をあげたのは部屋にいないはずの八左ヱ門だった。八左ヱ門と部屋の主である二人との真ん中には勘右衛門を呼び寄せた元凶の鍋が煮えており、雷蔵がちょうど器にうどんをよそっているところだった。
「ろ組だけずるいぞ。俺にもちょっと分けてよ」
「勿論。野菜の具は少ないけど、うどんをいっぱい茹でてあるから」
「やった! それにしても、こんなにたくさんどうしたの」
勘右衛門は床に広げてあるうどんの束を指差した。鍋の中にある量と合わせると八人前以上はありそうで、いくら育ち盛りの彼らでもこんな時間、しかも三人では到底食べきれそうにない。三郎は眉を下げて答えた。
「夕方、雷蔵と町に行ってたんだが、帰りにちょっと粗暴者に絡まれてる人に出くわして、まぁ、助けに入ったんだ」
雷蔵が、と指を差す。差された本人はうどんを啜っていた。
「で、その助けた人がうどん屋の店主さんで、今日はもう店閉めちゃうからって御礼代わりに余ってるうどんをいっぱい持たせてくれて」
「で、俺はうどん抱えて門をくぐってくる二人に出くわしたってわけ」
「最近寒くなってきたし、鍋するのにもちょうどいい頃かなって思ってね」
自分の分を食べ終わった雷蔵が新しい器を二つ取り出して鍋の側に置いた。かなり前から食べ始めていたようで、他の二人はすでに箸が止まっていた。そろそろお開きにするようだ。折角だから兵助にも持っていってよ、と鍋の中に残っていたうどんを二つの器に取り分けていく。渡された勘右衛門はお礼を言うと、両手に器を持ったまま足で戸を開けた。
「うどんありがとう! 今度鍋やる時は俺達にも声かけてよ?」
「分かった分かった。分かったから早く戸を閉めてくれ」
「ごめん、上手く足で閉められないから後は頼む!」
三郎が呼ぶ声を背に廊下を早歩きで進み、自室の戸をまた足でがらりと開けた。
「兵助! ろ組からうどん貰ったけど食べる?」
「うどん? この時間にろ組は鍋でもしてたのか?」
「ばっちり鍋してた。流石にそろそろ寝るっぽかったけど」
「だよね。でも寒かったからうどんはありがたいな」
「ほんと、生き返るー!」
「ところで勘右衛門、三郎から資料、貰ってきたの?」
早速うどんをすすっていた勘右衛門はぴたりと動きを止めた。
「……完全に忘れてた」