深夜、暗く静まり返った廊下に黒い影が揺れていた。
ゆらりゆらりとふらつきつつ、壁に手をつきながら、影──無名はなんの宛もなく長い真っ黒な廊下を這いずるように歩む。
この時間、無名は本来寝室でゆっくりと睡眠をとっているはずであった。しかし、その眠りは過去の記憶を鮮明に再現した悪夢に妨げられてしまった。
これまでも、悪夢に魘され充分に睡眠を取ることが出来ない夜は幾度もあった。しかし、その悪夢がこんなにも鮮明になったのは、あの日、同郷にしてその生き残りの片割れであるもう一人の『鸞』の言葉によって、失っていた記憶を取り戻したからだろう。
夢の中の『紫鸞』は『彼女』をあと一歩のところで救えなかった。その人は、炎に包まれた村の建物の中、紫鸞の腕の中で今まさに息絶えようとしているのに、「私は平気」と涙に暗れる紫鸞を気遣った。孤児だった紫鸞を拾いあげてくれた里を、一際目をかけ、育てあげてくれた姉のような、母のような存在の彼女を、こんな結末にしてしまったのは紫鸞自身だというのに。
嫌だ、行かないでくれ。そんな優しい顔をせず、恨み言の一言でも言ってくれたらいいのに。どうすればよかったのだ。こんな事になるならあの時、あの子供を引き渡していればよかったのか。そう一瞬でも思ってしまう己が憎く悔しい。もっと、もっと俺に力があれば──
紫鸞が後悔と自責の念に駆られている間にも、紫鸞の腕の中にいる彼女の血の気がどんどん引いていく。
「……行って、紫鸞。あなたの道を」
そう囁く彼女の台詞も、やがて眠るように力尽きてしまった彼女の顔も、とても鮮明だった。そして世界が崩れるような音の後、『紫鸞』は現実に引き戻されたのだ。
飛び起きた無名は、呼吸をすることさえ一苦労だった。口は確かに大きく息を吸って吐いているはずなのに、空気が肺に届いている感覚がしない。
しばらく掛け布団を握りしめて蹲っていると、ようやく身体の感覚が戻ってくる。
呼吸を整えながら辺りを見回すと、同室の元化が近くの別の寝台で寝息を立てているのが目に入った。
──よかった。起こさずに済んだらしい。
無名はほっと胸を撫で下ろしたものの、もう一度眠る気にはどうしてもなれなかった。音を立てぬよう寝台から身を起こし、静かに部屋を抜け出した。
無名の足取りは重い。
あの日、あの桃の大木の下で確かに無名は過去の後悔と決別した。それに嘘偽りは無い。
が、心では克服していても、過去がそれを許してくれていないのだと、今夜わからされてしまった。
あの燃え盛る里の記憶は、きっとこれからも一生、無名につきまとうのだろう。無名がそれをどう思おうとも、消えぬ烙印となり身体に刻まれ続ける。
──早く慣れなければならない。
そう思いながら無名が廊下の曲がり角を曲がると、暗闇の先に光が見えた。誰かが戸を開けたままにしているらしく、それは外に繋がっているようだ。
まだ全身がじっとりとした冷や汗をかいているのを感じる。
外に出て夜風に当たれば、この吐き気も収まるだろうか。
無名は身体を引きずるように光へと向かった。
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廊下から外へ出てみると、やや欠けた月はまだ頭上にあり、月明かりが無名を優しく照らした。
数ヶ月前、あれほど騒がしくしていた虫や蛙たちの声は、今やすっかり大人しくなっていて、たまに涼し気な虫のさざめきが聞こえる程度だ。
無名は建物の壁に寄りかかると手を擦り合わせた。
──肌寒い。
季節は冬と言うにはまだ早すぎるが、秋は深まり、木々を彩っていた葉は散り始めている。
日中こそ過ごしやすくとも、夜は冷え込む。無名はもう一枚羽織ってくれば良かったと、そんな余裕もなかった筈なのに、母屋の前にある池に映る月をぼんやりと眺めながら考えていた。
ふと、池のほとりにある亭子に人影がある事に無名は気がついた。
──こんな時間に、見張り以外の者が起きているのか。いったい誰が。
無名は体重を預けていた壁から背中を剥がすと、ゆらりと亭子へ向かった。
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「劉備」
「無名……?」
亭子に居たのは無名の主である劉備だった。
いつもは結わえている髪を下ろし、平服の上に更に一枚上着を羽織って、亭子に備え付けられた長椅子に腰掛けて寛いでいる。
「何をしているんだ」
「何って……少し茶でも飲もうかと思ってな」
そう言うと劉備は片手に持っていた茶杯を掲げてみせた。よく見れば、劉備の傍らに茶器一式が盆ごと置かれている。
劉備は無名と目が合うと、少し戸惑った後、にっこりと笑ってみせた。
「……よければ、お前も飲んでいかないか?俺の話し相手になってくれ」
呆然と亭子の入口に突っ立っていた無名は、冴えない頭のまま、劉備の手招きにつられて亭子に踏み込んだ。
劉備が座る辺りに丁度月明かりが差し込んでおり、劉備の肌を白くぼんやりと照らしている。
無名は立ったまま、まるで陶磁器みたいだと眺めていると、劉備が長椅子の空いている方を手でトントンと叩いた。
「どうしたんだ?座らないのか?」
「あ、ああ……」
言われるまま、無名は劉備の隣に座ると、劉備は茶壷から茶海へ茶を移し、それを空いていた茶杯へ注いだ。
「ほら。先程入れたばかりだから、まだ熱々だ。そんな格好では寒いだろう?これで少しは暖かくなる」
そう言って差し出された茶杯を無名は両手で受け取ると、おずおずと口をつけた。
「……熱い」
「ふふ。だが身体は温まる」
「…………」
無名は両手で茶杯をそっと包み込んだ。茶の熱が茶杯を通してじんわりと無名の手を温める。
ほうっと無名が息を吐くと、茶の湯気と同じく白い息が出た。先程までは白い息など出なかったのに、茶を飲んだからだろうか。
互いにしばらく茶を味わった後、劉備は静かに切り出した。
「眠れなかったのか?」
無名は目を伏せ、茶杯を包む両手にぎゅっと力を込めた。
「言い難いなら言わなくていい。ただ、お前があまりに辛そうな顔をしていたから。何か俺が力になれたならばと、そう思っただけだ」
劉備の申し出は有難かったが、無名は口を噤んだ。
あの辛い記憶を共有してもいい。そうすれば、少しは心が軽くなるかもしれない。そう思う気持ちはある一方、主君であり友でもある劉備に気を使わせるのは忍びない気持ちもある。
少し悩んだ後、無名は事実を暈して部分的に劉備に打ちあけることにした。
「悪い夢を見た」
「悪い夢……?」
「昔、とても後悔したことを夢に見た」
「そうか……」
無名はぐい、と茶杯に残った茶を全て飲み込んだ。少し冷めたもののまだ熱い茶が、喉から食道を伝わって胃に落ち、無名の身体を芯から温める。
それを見た劉備が茶壷を掲げて無言でおかわりを勧めてきたので、無名も黙って茶杯を差し出した。
とぼとぼと注がれる茶を見ながら、無名は続ける。
「克服したと思っていた。だが、気持ちで乗り越えたとしても、事実が変わることはない。それを思い知ってしまった」
「元化殿によれば、お前は記憶を取り戻したのだったな」
そう言いながら劉備が差し出した茶を、無名は頷きながら受け取った。
ふわっと駆け抜けた冷たい夜風に、無名は身震いする。
「全てを思い出した時は、少し前に進めた気がしていた。……なのに、今になって、記憶が後ろ髪を引いてきた」
受け取った茶杯の水面に映る己の影を覗き込みながら、呻く。
「……俺は、こんなにも、弱く、情けない」
無名は項垂れた。
一度したはずの覚悟を、ただの悪夢に揺さぶられてしまった。己の意志とは裏腹にぐらつく弱い心を無名は恥じた。
そもそも、大切な人の記憶を忘れてしまっていたことが悔しい。もし、何もかもしっかりと覚えていたならば、次期里長であった彼とだって、こんな関係ではなかったかもしれないのに。
先程までは心地よかったはずの秋の虫たちのさざめきが、今の無名には耳を劈くほど大きく聞こえる。
続ける言葉が見つからず、縮こまる無名の頬にそっと劉備の手が添えられた。
無名は驚いて顔を上げる。
「お前は情けなくなんか、ない」
無名の目元を劉備の親指の腹が優しく撫でる。その動きにやや突っかかりがあり、初めて無名は己の頬に涙の跡があるのだと気がついた。
「ましてや、弱くもない。お前は立派だよ、無名」
優しい声色でそう言うと、劉備は無名を諭すように微笑みかけた。
「記憶を失くしてしまうほどの出来事だったんだ。俺には想像もつかないが、余程辛い思い出だったのだろう」
涙の跡を拭っていた劉備の手が、無名の耳の上の髪をさらっと撫でる。
「だが、お前はそれと向き合って前に進もうとした。一度忘れて、無かったことに出来たはずなのに、そうしなかった。今だって、苦しく思いながらもそれを受け止めようと一生懸命だ。そうなんだろう?」
そう言いながら首を傾げてみせる劉備の瞳は慈愛に満ちていた。
「それを褒めこそすれ、責める者など、この世にありはしない。……だから、無名。胸を張ってくれ」
熱いものが込み上げてくるような気がして、無名は思わずそれを隠すように俯いた。
両の眼に留めきれなかった涙が、ぽたぽたと長椅子の木板に落ちる。
無名の頭を撫でていた劉備の手が肩をゆっくりと摩る。その温かさが、今の無名にはただ有難かった。
すん、と鼻をすすると、無名は掠れた声で呟く。
「劉備は、他人の事なら、そうやって前向きに考えられるんだな」
肩を摩っていた劉備の手が止まり、一拍置いてから「あはは」という愉快そうな笑い声が聞こえてきた。
「ははっ!少しはいつもの調子が戻ってきたみたいじゃないか」
劉備は無名を元気づけるかのように愉快そうに笑うと、茶杯をぐいと仰いだ。
無名もつられて杯の茶を啜る。爽やかな香りと茶独特の苦味が合わさり、なんとも香ばしい味わいが口の中に広がったのち、少ししょっぱい味がした。
劉備が新たに茶を注ごうとして「おや」と声をあげた。どうやら茶壷の中身がきれてしまったらしい。
それを見て、無名がまた少し俯く。
「……すまない」
「なんでお前が謝るんだ」
「……元々、劉備が自分のために作ってきた茶だったんだろう。横取りしてしまった」
申し訳なさそうに視線を逸らす無名に、劉備は数度瞬きした後、くつくつと笑った。
「ふっふ。そんな事、お前は気にしなくていいんだ。そもそも、お前を茶に誘ったのは俺だぞ?……ああ、そうだ」
劉備は何かを思いついたらしく、二人の間にあった茶器を脇に避けると、無名に向かって両手を広げてみせた。
「おいで、無名」
無名は固まった。その姿勢でおいで、とはつまり、劉備に抱き留められよ、という事か。
戸惑いを隠しきれずにいる無名に劉備は苦笑いすると、改めてずい、と無名のほうへ腕を伸ばす。
「遠慮するな。俺はいつもお前に甘えさせて貰っているんだ。こんな時くらい、俺に甘えてくれよ」
「……いつも、と言われても。俺はただ、劉備の話を聞いているだけだ」
「それを甘える、と言うのだが……」
ほら、と言いながら劉備は両手をもう一度伸ばす。無名は戸惑いつつも、そっと劉備に身を寄せた。その身体を劉備の腕が優しく包み込み、やがて身体と身体が触れ合った。
「こうすれば、茶がなくても暖かいだろ?」
無名と触れ合っている劉備の身体は、確かに暖かい。だが、それ以上に耳元でする劉備の声に身体がぼっと熱くなったような気がした。密着しているからか、劉備の鼓動の音が聞こえてくる気さえする。
まだ、どうしたらいいのかわからないと落ち着かない様子の無名の背中を、劉備の手があやすように撫でる。
「なんだか、劉備を独り占めしてしまっている気がする」
「あはは。なんだ、それは」
二人が黙ってしまえば、あとは自然が鳴らす音しか聞こえない。そんな中、いつもは多くの仲間たちに囲まれている劉備が、今は無名だけを想って、話を聴き、慰め、抱きしめてくれている。
これを独り占めと言わずなんと言うのだろうか。
ようやくこの状況に慣れてきた無名は、劉備の肩に頭を預けながらふと口を開く。
「劉備は、なぜこんな時間にここに居たんだ」
無名の背中を撫でていた手が止まる。
「……これからの事を考えていたら、寝損ねてしまったんだ」
少し、無名を抱いている腕に力が入ったような気がした。劉備の頬が、無名の肩口に寄せられる。
先日、手を組んでいた袁紹が没したとの報せが入ったばかりだった。目まぐるしい戦況の変化についていけず、劉備軍は次の一手を考えあぐねていた。
激動の時代とは、正に今のことを指すのだろうと、あまりその手のことに詳しくない無名でも日々感じている。
そんな中、寄る辺の無い一派をどうにか導こうと四苦八苦する劉備の姿はこれまでも散々見てきたのだが、ここへ来てそれが行き詰まってしまったようだった。
無名はそっと劉備の背中に腕を回すと、劉備と同じようにその身体を抱き寄せた。
「劉備のことは、俺が守る。だから、劉備はしたいようにやればいい」
ぽつり、と無名が呟くと、耳元で困ったような笑い声が聞こえた。
「ふふ。頼もしい限りだ。信じているぞ、無名」
さっきよりも身体がより近づいたせいか、今は劉備の少し早い鼓動がしっかりと感じられる。
無名は、劉備を抱いていたその腕にぎゅっと力を込め、劉備が着ている平服をかき寄せる。
「……だから。劉備は、居なくならないでくれ」
無名が殆ど囁くように紡いだその言葉は、最早祈りだった。
今度こそ、見つけた己の道を守ってみせる。それが約束であり、彼女──『朱和』にできる償いだから。
「ああ。俺はお前が離れない限り、お前と共にある」
──お前が離れない限り。
「俺は、劉備の元を離れるつもりはない」
無名はすぐさま言葉を返した。
「ずっと味方でいてくれよ」と以前戦場で劉備に声をかけられたことを思い出す。
劉備はいつもそうだ。士官するように誘いに来た時でさえ、よく考えろ、お前が嫌ならそれでいい、といった態度であった。あくまで無名の主導権は無名にあるという姿勢だ。
心地よい距離感ではあるが、どこか寂しい。
傲慢な考えかもしれないが、無名には劉備が己を切に必要としているのはわかっている。それなのに、劉備は命令で無名を縛り付けるということをしない。──ならば、自分で劉備にしがみついてやろう。
先程より少し、腕の中の劉備の体温が上がった気がした。
無名の肩に顔を埋めた劉備が照れくさそうに笑う。
「はは。どうやら、俺たちは相思相愛ということらしいな」
「今更気がついたのか?」
また、劉備の身体が一際火照った気がした。
一際強い夜風が吹いたものの、二人にはもうその寒さは感じられなかった。
無名の背中にあった劉備の手が、無名の着物を握りしめる。
「ありがとう、無名」
小さな声だったが、無名が確かにその声を聞き届けると、突然どっと眠気が襲ってきた。
程よい人肌の温かさと、安心感がそうさせたのだろうか。
僅かに残った理性が、ここで寝てはいけない。劉備に迷惑をかける。と訴えかけるが、手が動かない。それどころか、無名の背中を優しく叩く劉備の手つきが眠気を加速させている。
やがて、無名は眠気に抵抗するのを諦め、それに身を任せることにした。
劉備の肩で静かに寝息を立て始めた無名に、劉備はしばらくしてようやく気づいた。
「ん……んん?こら、無名。こんなところで寝るな。風邪をひくぞ」
無名、起きろ。寝るなら部屋に戻ろう。と少し肩を揺さぶってみるが、無名は目を覚ます気配がない。
それどころか、段々と脱力してきた無名の体重が劉備の身体にのしかかる。
無名の見た目の細さからは想像もつかないその重さに、ついに劉備は長椅子に押し倒される形になってしまった。
「あはは……。参ったな……」
無名に押しつぶされながら、しかし劉備はその重さに確かな充足感を得ていた。
無名は、どちらかといえば警戒心の強い方である。そんな無名が、他人にこのような無防備な寝姿を晒すということは、それだけ信頼されているという事ではないだろうか。
仕方がないなぁ、と劉備は苦笑しながら無名の背中を数度撫でたのち、打って変わって険しい顔で空を見上げた。
──この信頼に、俺は応えねばならない。
亭子の窓から見える傾いた月を眺めながら、劉備は一人決意を新たにした。