「そこまで!」という関羽の声で劉備は我に返った。
目の前で無名が膝をついて、肩に木刀の刃を乗せている。そしてその木刀の持ち主は劉備だ。
足元に無名が持っていたはずの木刀が転がっている。
荒れた呼吸を整えるのも忘れ、劉備はただただ今の状況に困惑していた。
「あ、れ……?」
「おいおい無名、何やってんだ」
関羽の隣で見ていた張飛が無名を野次ると、野次られた本人は黙ったまま首をふるふると振った。なんとでも言えといった感じだ。
今朝、鍛錬中の関羽、張飛、無名とたまたま遭遇した劉備は、成り行きで無名と木刀を使って模擬戦をすることになった。
無名はこの乱世において、並び立つ者が数える程しか居ない優れた武人だ。猛将と言っていいだろう。対して、劉備は剣に覚えこそあれ、無名と比べてしまえば100人中100人が無名のほうが実力が上であると答えるであろう半端な腕前だ。
実際、無名と劉備はこれまで何度か手合わせをしてきたが、無名の全勝である。
勝敗は勝負が始まる前からついているようなものだったが、それでも劉備は無名と手合わせできることに喜びを感じていた。
太刀筋や立ち回りにはその人の思考が色濃く反映されるもので、無口な無名の代わりにその刃は素直に語りかけてくるのが劉備は好きだった。
義勇軍時代以来の手合わせという事もあり、久しぶりの仕合と言う名の語り合いに劉備はワクワクしていたのだ。
だが、結果はこの通りである。
想定していなかった事態に劉備は大いに困惑していた。
「無名、体調でも悪いのか?それともどこか怪我をしているとか」
「いや」
まずは無名の体調不良を疑った。寡黙な無名のことだ。怪我を隠している可能性だってある。
が、無名はぬるりと立ち上がって両手を広げてみせた。健康体であると主張したいらしい。
「……手加減をしたのか?」
「手元が狂った」
「お前ほどの武芸者が?」
「そういう事もある」
無名の受け答えは相変わらず淡々としている。
模擬戦中の無名の太刀筋は、それは美しかった。まるで踊っているかのような戦い方で、劉備はついていくのがやっとだったのだが、果たして以前もこんな感じだっただろうか。最後に手合わせをしてから、もう何年も経っている。あれから無名も成長して変わっているのかもしれない。だがしかし──
劉備は心の中でモヤモヤと煙が広がっていくような気がした。
「……油断していたとでも?」
「……」
無名はパタパタと服についた土を落とすばかりで、返事をしない。それどころか劉備と目を合わせすらしない。
この沈黙は肯定と受け取ってよいのだろうか。それはそれで、舐めてかかられたようで自尊心が傷つく。
土を払い終わったのか、無名は木刀を拾い上げ、片付けようと劉備に背を向ける。
──真剣に向き合っていたのは、俺だけだったのだろうか
劉備は心の中に広がる苛立ちの煙を全て吐き出すように、大きく息を吸って吐いた。
無名がなんとも答えないのであれば、もう、いい。直接刃のほうに訊いてやる。
「無名。もう一戦、いいだろうか」
務めて己を取り繕おうとしたものの、自分でも驚くほど低い声が出た。
名を呼ばれ静止した無名の肩がぴくりと動く。
「今度は油断も手加減も無しだ。俺は、全力のお前と手合わせしたい」
「あーあ、兄者の負けず嫌いに火が着いちまったぜ。あれは」
無名と劉備のやり取りを木箱に座って見守っていた張飛は、呆れた様子で自分の膝に肘をついてため息をついた。
その隣で関羽も静かに様子を見守っている。
「無名もなんで手ェ抜いたりなんかすっかなぁ。そりゃあ、兄者も怒るってもんよ」
「おぬしには、無名が手を抜いたように見えたのか?」
「は?違うってのかよ」
関羽は張飛を一瞥してふっと笑うと、長く美しい顎髭を数回撫でてみせた。
「ふむ。おぬしにも、まだまだ鍛錬の余地があるということだな」
「……はぁ?」
困惑する張飛を他所に、関羽は模擬戦開始の合図を出した。
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結局、無名と劉備はあれから三戦続けて模擬戦を行ったが、結果は全て無名の圧勝であった。
三戦目が終わりようやく満足したのか、劉備は手短に感謝を述べるとさっさと片付けをしてその場を去ってしまった。
──あれは完全に怒っている。
劉備は恐らく隠しているつもりだろうが、付き合いがそれなりに長くなってきた無名にはバレバレである。
さて、どうしたものか。
濡らした布で汗を拭いながら、鍛錬場の隅でぼうっと腰を下ろしていると、いきなり張飛が肩を組んできた。
「で、結局どうなんだよ」
「どう、とは」
「兄者に負けた敗因だよ。お前ほどのヤツが"たまたま"負けるはずはねぇだろ?」
張飛がイタズラ心に溢れた笑みを作ってみせる。
無名は口には出さないものの、精一杯「面倒くさいな」という顔を作って張飛に向けた。
しばらく睨んでみたのだが、張飛は一向に譲る気が無いようでなかなか肩組を外してくれず、遂に無名は折れることにした。
「……劉備には絶対に言わない、と約束できるか」
「ぉ、おう!この燕人・張飛様、男と男の約束を違えたりはしねぇ!」
一瞬吃ったのが気になったものの、一旦張飛を信じることにした無名は、一呼吸置いてから口を開いた。
「…………格好つけようとした」
「………………は?」
「劉備に、いいところを見せようとした」
「……で、負けたのか?」
無名はこくりと頷いた。
「あ、あはははははは!!」
「笑うな」
「い、いや、おめぇ。笑うなってほうが無理だろ!!」
大声で笑い転げる張飛に背中を手でバシバシと叩かれながら、無名は真実を告げたことを後悔していた。
なんとも恥ずかしい話である。
劉備の太刀筋は、劉備の印象とは真逆で荒々しいが、その中に品の良さも感じられる。しっかりとした型が基礎としてあり、その上に劉備が実際に戦場で戦ってみて得た技術が上乗せされている。きっと良い師が居たのだろう。
だが、久しぶりに手合わせをしてみて、無名はその中に以前は無かった鋭さを感じていた。以前は乱雑に散らばっていた劉備の立ち回りが、一つの理論に則り纏まって、鋭い刃となり無名を襲ったのだ。
ここ数年の間で、劉備もまた成長していた。
そんな劉備の剣を受け止めているうちに、つい、『華麗に仕留めたい』という欲が出てしまった。
今思えば、久しぶりに手合わせ出来ることは勿論、劉備が以前より格段に強くなっていたことが嬉しく、柄にもなくはしゃいでいたのかもしれない。
実戦の中では絶対に湧いてこない、純粋に戦闘を楽しめるこの状況だから、昔馴染みの劉備相手だからこそ湧いた傲慢な心に無名の理性はあっさり負けてしまい、挙句の果てに勝負にも負けた。
きっと劉備には舐めた態度だと思われたに違いない。いや、実際のところ似たようなものなのだが。
「けどよ、あの様子だと、兄者はまだ怒ってそうだったぜ」
「張飛にもそう見えたか」
「どうすんだ?おめぇもわかってると思うけどよ、劉備の兄者は相当頑固だぞ」
ひとしきり笑い終えた張飛が、それでもまだ頬を引き攣らせながら無名に問いかけてきた。
一戦目の後、すぐに劉備の内心を察した無名は、甘んじて残りの試合を全て引き受た。そして全てで劉備を叩きのめしてやったのだが、劉備はまだ納得していない様子だった。
「張飛が間を取り持ってくれないか」
「えぇ、嫌だよ。何でこの俺が……」
張飛と小付き合いをしていると、鍛錬を終えた関羽がやってきた。
どうやら素振りをしつつこちらの話も聞こえていたようだ。
「無名、素直に兄者に申し開かれよ。兄者も鬼ではごさらん。由を聞けば、納得してくださるであろう」
諭すような関羽の物言いに、無名は苦虫を噛み潰したような顔をした。
元はと言えば、自分がつまらない自尊心を捨て、素直に劉備に何故負けたのかを言っていれば、こうはなっていなかったことは無名にもわかっていたのだ。
無名は大きくため息をつくと、小さな声で返事をした。
「……善処しよう」