アカデミー時代のディノがキースを金で買う話【3】「じゃあ、本当に一方的に暴力を振るわれただけで手を出してないんだな?」
腫れの残った頬を真剣な顔で覗き込まれて、やましいことはないはずなのに居心地の悪さを感じ、思わずキースは目を逸らした。小さな声ではい、と応えれば、案の定横槍が飛んでくる。
「嘘くさいな。おい、本当にこいつの言うことを全部鵜呑みにするつもりか?」
椅子に座っているキースの向かいに立ち、半ば睨みつけるように鋭い視線を向けている青年はアカデミーの上級生で、キースが寝泊まりをしている寮の副寮長だ。先ほどキースに向かって問いかけてきた青年がその辛辣な物言いに、おい、と咎めるような声を上げたが、それに構わず副寮長は続けた。
「バイト先で一方的に絡まれて暴力沙汰なんて都合のいい話信じられるか? そもそもどんな仕事だよ。どうせ真っ当な仕事じゃないんだろ?」
「そんな言い方ないだろう。何でもはなから決めつけるような態度はよくない」
「お前はなんでも甘すぎなんだよ。何か問題が起きたら寮長のお前のせいになるんだぞ」
整えられた黒い髪を神経質そうに撫で付け、苛立ちを隠さない副寮長をキースの向かいに座る寮長はまあまあ、と宥めた。
「すまないな。こいつも責任感からきつい言い方をしてるけど、悪いやつじゃないんだ」
「いえ、別に……」
「話してくれてありがとう。俺は、お前が嘘をついているとは思ってないよ。ただ、これからはトラブルに巻き込まれないように気をつけろよ。お前はその、目をつけられやすいようだから」
ッス、と返事にもなってないような声をあげるキースに、寮長はもう部屋に戻っていいぞと声をかけてくれた。副寮長はいまだに納得のいってない様子だったが、それには気づかないフリをして、キースは部屋を後にする。静まり返った廊下を歩き、自室に戻ろうと階段に足をかけたところで、その姿を見つけた。
「何やってんだディノ。寒いだろ」
踊り場の段のところに、ディノが腰かけていた。
「キースを待ってたんだよ。どうだった?怒られなかった?」
キースの姿を認め、こちらに降りてこようと慌てて立ち上がる。それを手をあげて制して、キースはゆったりと階段を昇り、ディノの隣に立った。
「別に、ちょっと副寮長にはイヤミ言われたけど、怒られなかったし。話も信じて貰えたよ。不思議なこともあるもんだな」
「本当のことをきちんと話したからだろ。キースは手を出してないんだから」
ディノの言葉に、そんなもんかね、と適当に返事をする。壁の手すりに体重を預けるようにすれば、ディノが同じような体勢で、隣に並んできた。壁の細いスリット状の窓から覗く夜空には、白い月が浮かんでいる。
「あの副寮長の人もさ、悪い人じゃないんだよ。ちょっと厳しそうでとっつきにくく見えるけど、ちゃんとやらなきゃって責任感があって、面倒見がいいんだよ。俺も入寮した時勝手がわからなくて色々お世話になったよ」
「へぇ……」
ディノはキースが厳しい物言いをされたことで傷ついたのではと心配しているようだったが、キースは特段腹を立てたりしているわけではなかった。色眼鏡で見られて信用されないのは残念ながらよくあることで、そういったことに対して何か感じるには幸か不幸か感覚が麻痺してしまっている。正直に話したとはいえ、キースの言い分を信じてもらえて大きなお咎めがなかったこと自体が充分運がよかったと言えよう。
「てか、多分お前のおかげだよ。事前に話してくれてたんだろ? こないだのこと」
キースのバイト先での一悶着から一晩たった。殴られた顔の傷はそこまで目立ってはいなかったが、さすがに事情を聞かれるだろうと思っていた矢先に寮長に呼び出しをくらったのだった。
「俺はキースは何も悪くないって事実を話しただけだよ。別に何もしてない」
でもよかった、とディノはいかにも安心した、と言いたげに笑った。
「アカデミーに入るまでは色々あったかもしれないけど、キースはいいやつだから。みんな誤解してるけど、そのうちきっとわかってもらえるよ。そしたらきっと、他の子とも仲良くなれるな」
「んな簡単なもんかね」
「そうだよ! 俺が保証する」
廊下の薄暗い灯りが、ディノの顔を照らし出す。その表情は純粋そのもので、含みもなく本心からの発言であることが伝わってきた。その心底嬉しそうな顔に、キースの胸がほんの少しだけざわついた。
(別に、わかってもらえなくたって)
ディノがいれば。ディノさえ、自分の心に寄り添ってくれるなら。それでいい。
急速にのめり込んでいる自覚はあった。同時に、これまでに培われた警戒心からこれはまずいと直感的に感じている。けれども、キースの心は既に開かれてしまった。とめどなく胸の内に育っていく思いはどうしようもなく、卵から孵った雛鳥が初めて視たものを親と認識してしまうように、花開いたひまわりが太陽の方を向いてしまうように、心はディノを求めてしまうのだった。
ディノが与える安心感は陽だまりのように心地よく、けれどもその心地よさを知ってしまったからこそ、恐ろしい。ふわふわとした多幸感と漠然とした不安感がキースの中で混じり合って、このままでいたいような、一刻も早く離れたいような、不思議な感覚に陥いる。しかしそれも、問題は上手く受け入れられない自分にあって、結局はディノとの関係を上手く消化できない自身の心に不具合があるのだ、とキースは考える。
「そうだ、これ」
部屋着に羽織ったパーカーのポケットからディノがおもむろに取り出したものを見て、キースの思考は現実に引き戻された。
「……おう」
これを受け取るのは、もう何度目になるだろう。一回目の時からは想像もつかなかった程形容し難い気持ちで、金の入った封筒を受け取り握りしめる。
この関係は金で買われたものなのだ。
決して忘れていいことではなかったし、約束をディノが守る度にそれは突きつけられる。二人の関係は所詮は契約上のもの、いびつな関係なのだと。
「ありがとよ」
けれどもしかし、受け取らないという選択肢はキースにはなかった。金がなくて困るのもキース、金を受け取らずディノの傍にいられなくなって苦しむのもまたキースなのだから。キースが自身の心の声さえ無視すれば、何も不都合はないのだった。
複雑な心境を隠して努めて平常心を保つキースをよそに、ディノは嬉しそうだった。キースの生返事にめげることなく、一人で楽しそうに喋っている。
「なぁ、そういえば前に言ってた課題のことなんだけど。明日さ」
不意に、静かな廊下に足音が響いた。
「おいお前ら。そこで何してる?」
少し前に顔を見たばかりの副寮長が、階段の下からこっちを見上げていた。怪訝そうな顔は、階段の上の人影がキースであることを認めると、更に不快そうに歪んだ。
「すみません、廊下でばったり会ったら、ちょっと話が盛り上がっちゃって」
「もう消灯時間は過ぎてるだろう。さっさと部屋に戻れ」
はい、と短く返事をしたディノは、また明日、とでも言うようにキースへ目配せすると、足早に階段を上がり、先に部屋へ戻っていった。副寮長は微動だにせずキースを睨め付けており、この場に残る理由もないので、キースもさっさと退散することにした。一挙手一投足も見逃さない、とばかりに自分へ注がれている視線を意識する。握ったままになっている封筒のことに気づいたのは、部屋に戻った後だった。
迂闊だった。あの距離で薄暗闇だ、中身が透けて見えるわけでもなし、封筒と視認できていたかすら怪しい。けれど、先程の寮長の部屋でのやりとりからも彼がキースのことを良く思っていないのは明白で、それ故に疑われるような行動は避けるべきだった。
気が緩んでいたかもしれない。経緯はどうあれ、金の受け渡しだ。ディノにもやりとりする時は人目を避けるよう話そう、そう思いながら、ベッドに入る。
(……そういえば、ディノのやつ、何か言いかけてたな)
意識を手放す直前、別れる前のディノの顔が浮かぶと同時に疑問が頭をよぎったが、眠気と共に霧散してしまった。
次の日、キースはカフェテリアで一人課題と向き合っていた。
(あ~~……全っ然ワケわかんね~~……)
金が貯まっても単位を落としては元も子もないので、このごろのキースは以前よりは真面目にアカデミーの課題に取り組んでいた。しかし、元々勤勉な質でもなく、教養を学ぶ機会にも恵まれなかった為、歴史や古典といった科目が特に苦手で苦戦を強いられている。
(てか、ディノのやつどこほっつき歩いてんだよ)
午後の授業が終わったら、合流して一緒に課題をやる予定だったのだ。ディノも文化的な科目がそう得意というわけでも無かったが、そこは教え合うというよりはお互いに励まし合うといった意味合いが強かった。
『ごめん! 少し遅れるから先に始めてて!』
キースのスマホにメッセージが届いたのは、ちょうどカフェテリアで席に着いた頃だった。
『どうした? 何かあったか?』
送っても返事はなく、キースも机の上にノートやら資料やらを色々広げてしまった後だったから、片付けるのが億劫だったこともあり、そのまま待っている旨返事をしてディノの言葉通り先に課題に取り組むことにした。それから、もう四十分は経つだろうか。
(……なんか、トラブルに巻き込まれた、とか)
自分であるまいし、アカデミーで歩いているだけでディノが何か面倒事に巻き込まれるとは到底思えなかったが、返事がないのがどうにも気になる。トラブルとまでは行かないまでも、何か足止めをくらうような事態になっているか、あるいはキースからのメッセージに気づかない程何かに熱中しているのか。
課題に集中できないこともあり、キースは冷え切ったコーヒーを啜りながらぼんやりと考えていた。あと五分待って音沙汰がなかったら電話しようか、スマホを手に取り考えていると、不意に背後からディノの声が響いた。
「キース! 待たせてごめん」
ほっとして、遅ぇよ、と返事しながら振り向けば、そこに立っていたのは、ディノ一人ではなかった。
「メッセージくれてたんだな、ごめんごめん。すっかり気づかなくて」
笑いながら謝りキースの向かいの席に座るディノの、当然のように隣に座ろうとしている、艶やかな深い色の髪の少年。
「失礼する」
「ブラッド・ビームス……」
キースでも知っている、アカデミーの有名人。ディノが連れてきたのは、予想もしなかった人物だった。
ブラッド・ビームスと言えば、同学年でなくともアカデミーで知らぬ者はいない有名人だろう。成績優秀でスポーツ万能、品行方正で何をやらせてもそつがなく、何よりその整った容姿が人目を引いた。おまけにキースにはよくわからなかったが、実家もかなりの名家であるらしい。
(んなヤツが、なんで……)
当然ながら、キースはこれまで言葉を交わしたことすらなかった。同じ授業をとっていても遠くから顔を見かけるのがせいぜいで、寮では部屋の階が違うし、キースはあまり共有スペースには顔を出さないから一日顔を合わさないこともザラにある。
「こないだ少し話して友だちになったんだ! 今日一緒にやろうって言ってた課題、キースも難しいって言ってただろ。ブラッドに教えてもらおうと思って」
友だち、という言葉が出た時に、ブラッドの形の良い眉がピクリと動いたのをキースは見逃さなかった。なるほど、コイツもディノに強引に言い寄られたクチか。
「この後用事があるから一時間だけだぞ」
「わかってるって! 本当、助かるよ」
ありがとな、とブラッドに笑いかけるディノの顔に、キースの心は引っ掻かれたように微かな不快感を覚えた。
(……なんだこれ)
「あ、キースは話すのは初めてか? ブラッドのことは知ってるよな?」
「……おう」
固まっているキースに気づき、ディノが気を回すが、引っかかっているのはそこではない。
「ブラッド、こっちはキース・マックス……って、ブラッドもキースのことは知ってるんだったな!」
あはは、と何がおかしいのか声を上げて笑うディノに、ブラッドはにこりともせず、「時間がもったいないから始めた方が良いと思うのだが」
と言い放った。身も蓋ない言い方に、わぁ、そうだった! とディノが全く意に介さない様子で慌ててテキストやらを取り出す一方で、キースは大いに憤慨していた。
(なぁんだ、その態度はよ)
思わず睨みつけてしまうが、気づいているのかどうでもいいと思っているのか、ブラッドはキースの視線には全く反応せずディノの開いたテキストを覗き込んだ。その俯いた顔の、伏せられたまつ毛がまた恐ろしいほど長く、並んだ一本一本が艶を放っているかのように美しい。裏社会でけばけばしく着飾った大人は何人も見てきたが、ここまで素材が上玉の人間は見たことがなかった。
ブラッドは、そこにいるだけで何人たりとも無視し得ない存在感を放つ人間だった。ディノとはまた違った意味で、違う人種、キースとは違う世界で生きてきた人間。これまで遠くから見ていることしかなかったブラッドの「本物」たり得る存在感を、キースは初めて目の当たりにしたのだった。
「もうこんな時間か」
腕時計で時間を確認したブラッドが、声を上げた。ちょうど約束した一時間が迫ろうという頃だった。つられたディノも驚いたような声を上げる。
「わ、本当だ。ブラッド、時間大丈夫か?」
「問題ない。すまない、中途半端なところまでしかできなかったな」
「ううん、こちらこそ忙しいのに無理言ってごめんな。この後どこに行くんだ?」
荷物を片付けているブラッドが「生徒会の手伝いに呼ばれている」と答えたことで、ディノがまたええ、と大袈裟な声を上げた。
「生徒会の先輩達にまで声かけられてるのか? ブラッドはすごいなぁ、なぁキース」
何がなぁなんだよ。
必死に平常心を保っていたキースの手元で、シャーペンの芯がいい音を立てて折れた。
「優等生は忙しいこったなぁ」
「こら、キース。教えてもらったのになんて言い方するんだ。お礼は?」
「これくらい、どうということはない」
イヤミにも全く動じず、さらりと返すその言い草も恐ろしく板についている。ふん、と鼻を鳴らしたキースがアリガトウゴザイマス、と言えば、チラリとそれを一瞥したブラッドは、一瞬口を開きかけたが、結局何も言わずに去っていった。
「なぁんであんなカタブツ呼んだんだよ」
大きく息を吐き、椅子の背もたれに大きく背中を預けるキースに、ディノはうん?と首を傾げて返事した。これは、何もわかっていない顔だ。
「ブラッドの説明、すごくわかりやすかっただろ? 俺、前に少しだけ話した時に、今みたいに課題で困ってたところ教えてもらったんだよ」
たしかに、教師が授業で話した部分の大切なところを端的に説明し、キースやディノの理解が及んでない部分は更にかみ砕いて説明していた。本当に理解していなくてはできない芸当だ。ブラッド本人に対する居心地の悪さは置いておいて、終盤の方はキースもつい聞き入ってしまった。
「まぁ……助かったのは事実だな」
渋々認めたキースに、ディノはだろ⁉︎ と嬉しそうな声を上げた。
「途中になっちゃったし、また教えてくれないかなぁ」
「忙しそうにしてるし、もうオレらにかまうことなんかないだろ」
そう吐き捨てると、ディノはブラッドの去った方を見て残念そうな顔をした。そうだ、そうに決まってる。あんな、金持ちで顔も良くて、天から一物どころか二物か三物か四物くらい与えられてるやつ、もう自分達に関わることなんてない。願望も込めて、そうキースはそう強く思い込んだ。
しかしその「また」は意外と早くやってきたのだ。
カフェテリアでの邂逅から三日後。キースはその日、前日バイトが忙しかったこともあり、すやすやと眠っていた。アカデミーは休みだ、何も睡眠を妨げるものはないとばかりにすっかり安心して寝こけていた。
太陽が空の真上まで登った頃、うっすらと覚醒した意識に、微かな音が届いた。ドアをノックする音だ。
「キース、キース……まだ寝てるのか? もういい時間だぞ~?」
(ディノか……)
どうにも起き上がるのが億劫で、キースはベッドの中で瞼を上げては下ろしを繰り返した。せっかく来たディノを追い返すのは忍びないという気持ちもあるが、この心地よいまどろみと別れるつもりにはなれなかった。そのうちに、キイ、と微かな音が響く。
「もうお昼ですよ~……」
「おま……へや、はいるな、よ……」
「キースが入ってきていいって言ったんだぞ~」
キースの枕元に肘をつき、寝顔を覗き込んでくるディノは、今更何に遠慮をしているのか囁くようにキースの寝言モドキに返事をした。
(部屋に入ってきていいとは言ったけど、寝込みを襲うんじゃねえよ……)
目を開けようと必死に試みるが、ままならない様子のキースを見て、ディノは残念そうにつぶやいた。
「キース、お疲れなんだな……一緒にお昼食べようと思ったけど、無理そう」
(悪い、ディノ……他をあたってくれ……)
ベッドの魔力にとうてい打ち勝つことができそうになかったキースは、その言葉を聞いて気を緩ませたが、次の言葉を聞いて目を見開いた。
「よし、夜は一緒にピザパーティーしような! お昼食べれなかった分もピザをたっくさん用意しておくぞ!」
「待て。起きる。今起きた」
友だち契約を結んだばかりの頃、ディノがまだ猫をかぶっていたキースに友だちになった記念のピザパーティーと称してしこたまピザを食わせてきたのはわりとキースにとっては苦い記憶である。
キースが即座に体を起こせば、ディノは大きな目を丸く見開いたが、何が楽しいのか、にひ、と笑った。
「天気もいいし、外で食べようよ!」
そうして寮の外に連れ出された先には、予想外の人物と出くわした。
「起床時間はとっくに過ぎてるはずだが。随分と遅いな」
建物の入口で二人を待っていたのはブラッドだった。キースは肩をすくめ、隣のディノに耳打ちする。
「なんでこいつがいるんだよ」
俺が誘った! という発言に眉を寄せたキースと対照的に、ディノはにこにこと機嫌良さそうに笑っていた。二人を伴い、中庭へと歩き出す。木陰のベンチに座るよう促すと、持ってきた袋から何か取り出し、キースにも一つ渡した。反射的に受け取り、すわモーニングピザかと焦ったキースだったが、手元のそれはコッペパンにハムやらレタスやらを挟んだものだった。
「ブラッドもはい、これ」
ブラッドにも同様のものを手渡したディノは、自身も似たようなものをかじっていたが、それはよく見なくても具がはみ出そうな程ボリュームがあり、トマトやとろけたチーズが今にも溢れそうだった。さながらピザサンドというところだろうか。うげ、と声にならないうめきをあげて、キースは自身に手渡されたハムサンドをかじった。
「談話スペースでたまたまブラッド見かけたから、こないだの続き教えて貰おうと思ったんだけどさ、なんか忙しそうにしてるから、休憩がてら一緒にお昼食べない? って誘ったんだ」
外で食べるのって美味しいし、誰かと一緒に食べるともっと美味しい、ラブアンドピース! といつもの調子ではしゃいでるディノに構わず、隣をちらりと見る。ブラッドは相変わらずにこりともせず、ツナサンドを頬張っていた。
「お前、休みの日もそんなに熱心に勉強してんの?」
ふと思いついて質問してみる。ブラッドに興味があるわけではなかったが、ディノの謎理論を理解することを努めるよりはマシだと思った。
「別に勉強していたわけではない」
いわく、生徒会で頼まれたちょっとした書類整理をしていたら、寮長に声をかけられ、寮の運営に関わる話になり、そちらの話が終わったと思ったら、今度は課題のことで声をかけられ……とのことで引っ張りだこだったらしい。
「人のことで時間とられてばっかりじゃねーか」
「ブラッドは何でもできるし、仕事も早いからみんな頼りにしちゃうんだよな」
なぜか困ったような顔をするディノを尻目に、キースは言い募った。
「めんどくせぇとか、かったるいとか思わねーの? そいつらに頼まれたことだって別に絶対お前じゃないとできないってことばかりでもないだろ」
「頼られるのは嫌いではない」
それしきのこと何でもない、とばかりにすまして答えるブラッドにハァ? と思わず声を上げると、今度はブラッドが付け加えた。
「自分にできることなら、やるべきことをやるだけだ。俺が断って他の誰かを探したりする方が非効率だろう」
キースとは違う意味だがブラッドも良くも悪くも目立つので、陰口を叩かれている場面に遭遇したことがある。いわく、教師相手の点数稼ぎだの、少し顔がいいから調子に乗っているだの、耳を貸すのも馬鹿馬鹿しいやっかみだったが、少し理解できる部分もあるとキースは思っていたのだ。
ブラッドはあまりに完璧すぎる。何をやらせても人並み以上にこなし、他者を顧みるスマートさと余裕まで持ち合わせている。将来を想像すれば、まさに理想のヒーローの卵といったところだろう。だからこそ、とっつきづらいと思われてしまうのだ。例えばディノのような遊び心、例えばキースのような規律にとらわれない自由さ。向き合えばそれなりに見えてくるであろう人間味のある部分が感じられない為、やれお高く止まっているだの凡人を馬鹿にしているだの言われてしまうのだった。要するに、彼らは自分が持っている醜かったりだらしない部分をブラッドは上手いこと隠して完璧であるように見せかけていると考えることで溜飲を下げているのだ。
しかし、そうではない。少なくとも、キースはさっきの言葉に不自然に取り繕ったものを感じはしなかった。目の前の彼の持つ価値観は、年頃の同じ少年と並ぶとあまりにも異質すぎて際立ってしまうのだ。
「なぁ、食べ終わったら、キャッチボールしようよ!ブラッドも、少しは体を動かした方がきっとリフレッシュできるぞ」
「ハァ? なんで」
言いかけた声は、ブラッドのいいだろう、という返事に遮られた。
「適度な運動は必要だからな。貴様もこの時間まで寝ていたんだろう。多少体を動かさないと今日一日いつまでもぼんやりとしたまま終わってしまうぞ」
「お前、忙しいんじゃなかったのかよ」
「無駄なことをする時間は持ち合わせてないだけだ。合理的な行動であれば付き合う」
合理性のバケモンかよ、と呟いたキースの声は、ブラッドの鋭い視線によってかき消された。その上ラブアンドピース星人と挟まれてしまっては、キースになす術はない。
それ以降、ディノは度々キースとブラッドを引き合わせるようになった。登校中。昼休み。放課後。就寝前。ディノがブラッドと仲良くしたいなら二人でいればいいのに、必ずそこにキースを引っ張ってきた。その理由について聞いてみると、
「俺、キースとブラッドは絶対仲良くできると思う!」
「ハァ?」
突拍子もない答えが返ってきて、今度はキースが大声を上げた。
「何言ってんのお前。あんな優等生がオレなんかと仲良くするわけないだろ」
「ええ、そうかな? たしかに全然タイプは違うかもだけど、結構気が合うと思うんだけど」
大きな目をキラキラさせて、心底真面目な顔で言うディノに大きくため息をついて、キースは天を仰いだ。
「キースもブラッドも、優しくてとっても頼りになるから、きっと仲良くなれるよ。俺は、二人と仲良くなれたら嬉しい。三人で仲良くできたら、もっと嬉しい!」
屈託なく笑うディノの言葉に、いつか感じた微かな胸の違和感が、明確に痛みとなって襲ってくる。
ディノの言う通り、ブラッドはいいやつだった。表情が固いからわかりづらいが、優しくて、強くて、そして高潔な心の持ち主だった。いつだって、ピンと背筋を伸ばして誰よりもまっすぐ立っている、そういう誇り高い心根の持ち主だった。皆がブラッドに期待を寄せて、そういう姿勢を求めている。いつだったか、しんどくねぇの、と思わず聞いてしまったことがあった。
「辛くないことが全くなかったと言えば嘘になるし、今でもそう思うことが全然ないわけではない。それに、」
求められることには慣れている。
そう言った彼の顔には、特に悲哀や苦しみといったものは感じられなかったし、紛れもない本心なのだとキースは感じた。
「なんつーか、優等生のレッテル貼られるのも大変なんだな。勝手に色々期待されてよ」
「そうでもない。貴様からすれば面倒事ばかり請け負っているようにみえるかもしれないが、積み重ねた信頼や日頃の行いというものはここぞという時に役に立つ」
「まあ、オレには縁のない話だな」
そう返したキースに、ブラッドは意外だとでも言いたげに眉を上げた。
「他人から過剰にレッテルを貼られるのは貴様も身に覚えがあるものと思ったが」
「…………」
キースがブラッドの本質を徐々に理解していっているように、ブラッドもまたキース自身に日々触れることで、噂に左右されない人物像を理解しつつある。出会った当初はともかく、今は色眼鏡抜きでキースという人間に向き合い、公正な目でキースを見ている。
ディノがブラッドを慕っているのは傍目にも明らかだった。気持ちはよくわかる。こんなに立派でどこに出しても恥ずかしくないような相手の隣に友だちとして立てたら鼻が高いだろう。それに比べて自分はどうだ。犯罪者もどきの貧乏人だ。しかも、キースとディノは金で繋がった友だち関係なのだ。
ブラッドの事を好ましく感じる度に、同時にどうしようもない何とも言えない気持ちが胸の内に湧き上がってくる。
悶々としたものを抱えながらもしかし、キースは相変わらず、ディノから金を受け取りながら日々を過ごしていた。
その日、キースは真剣な顔で自室の机に向かっていた。アカデミーの課題ではない。金勘定をつけている個人的なメモ書きだ。しかし、キースは本来事細かに帳簿をつける程マメでもない。大まかな計算が終わるとすぐに飽きがきて、考え事に耽り出した。
(明日、晴れっかな)
ここのところ寒い日が続いているが、明日は久々に街へ繰り出す。ディノと買い物へ行こうと前から約束していた日だった。ディノが望むなら晴れていようが雪だろうが出かけるつもりではあったが、できるなら足元は悪くない方が喜ばしい。
その時、机の上に置いてあったスマホが震えた。もうすぐ着く、とディノからのメッセージを知らせる通知だ。程なくしてノックされたドアに向かって返事を返すと、ディノと続けてブラッドが部屋に入ってきたので、キースはにわかにバタバタと慌てて机の上を片付ける羽目になった。最近のディノの行動から予想できなかったわけではないので、気が緩んでいたとしか言いようがなかった。
「……貴重品の管理には気をつけろ」
無防備に広げていた通帳や封筒に入った金を見ても、ブラッドは一言そういっただけで、特に訝しげな目をすることはなかった。その様子に内心胸を撫でおろし、ディノを見やれば、キースの視線に無邪気に首を傾げている。どうも気の抜ける反応にため息をついてスマホを見れば、ディノのメッセージにはちゃんとブラッドを連れていくことが書かれている。右往左往しているのはキースだけだった。
(しかしなんでこいつまで連れてくんだよ……)
キースの内心など知る由もないディノは、最近事あるごとにブラッドと行動を共にしている。すなわち、キースとブラッドが一緒にいる時間も増えている。ブラッドが最初にイメージしていたようなやつではないことは充分わかったが、だからといってキースは心を許したわけではない。
そんなキースの葛藤に構わず、ディノは勝手知ったるとばかりに、持ってきたピザを早速広げていた。新装開店したピザ屋に寄ったら帰りにブラッドに会って、その流れでピザパーティーしようと誘ったのだと聞いてもいないのに教えてくれたが、それで着いてくるブラッドもどうかと思うし、そもそもキースとしては勝手に人の部屋をピザパーティーの会場にするなと言いたい。
「なあ、もうすぐクリスマスだけどブラッドの家は毎年どうしてた?」
うちは、おじいちゃんとおばあちゃんがたくさんピザを焼いてくれてプレゼントを交換するんだ、と想像通りの内容を話すディノに、ブラッドは控え目に口を開けてピザをかじりながらふむ、と呟いた。
「概ね似たようなものだな。うちは少し年の離れた弟がいるから、毎年サンタクロースの正体がバレないように親や使用人が苦労していた」
成長してここ数年は特に厳しく疑うようになったから去年は大変だった、と話すブラッドの顔は、いつもより優しげだった。弟や実家のことを思い出しているのだろう。
(それにしても……使用人?)
ブラッドはサラリと話したが、生活水準の高さがうかがえる。使用人が身の周りにいる生活など、キースには一生無縁だろう。
「あとは、クリスマスではないが、毎年ニューイヤーコンサートに家族で行ったりしていたな。帰りにイルミネーションを見に行ったりしていた」
「わぁ、いいなあ」
盛り上がる二人をよそに、キースは無言でピザをわしわしと頬張っていた。クリスマスに人に聞かせられるようなロクな思い出がないこともあるし、なぜ自分の部屋で金持ちの金持ち自慢を聞かされないといけないのかという思いもあった。わかっている。別にブラッドにはそんな意図はないし、キースの事情なぞ知る由もない。逆に何か配慮されるような仕草をされたらそれはそれできっと不快になるだろう。勝手に暗い気持ちになっているのはキースの勝手で、僻みだった。早くこの話題終わんねぇかな、そう思っていた時、ディノが突如としてそうだ! と声を上げた。
「なあブラッド、俺明日キースと一緒に街へクリスマスプレゼントを選びに行くんだけど、一緒にどう?」
(は?)
いいアイディアだ、とばかりに話すディノの顔はキラキラと輝いていた。一方で、キースは声にこそ出さなかったが開いた口が塞がらなかった。
(おいおい、それは元々オレとの約束だろうが)
かなり前に、ディノと放課後街をブラブラしていた時に、クリスマスシーズンになったら一緒にプレゼントを買いに行こうと話していたのだ。ディノに声をかけられたその時もキースは生返事をしていたが、スケジュールアプリにいれてバイトのシフトを避ける程度には、大切にしていた予定だったというのに。急速にキースの内心にもやもやとしたものが広がる。しかしそれを押しとどめることはできても、解消と現状を打破する術をキースは知らない。
「俺、何買うかまだ何も決めてなくてさ。お店で色々見ながら決めようと思ってたけど、ブラッドも一緒ならいいアドバイス貰えそうだし! いいお店とかも教えてよ」
「…………」
幸か不幸か、ブラッドは即答しなかった。何か考えあぐねているように瞳が揺れる。その視線が一瞬こちらを捉えて、キースはギクリとした。
(なんでこっち見るんだよ)
来てほしくない、と思ったことを見透かされたようでキースは肝が冷えた。ブラッドの視線を追うように、ディノが今度はこちらへ話を振ってくる。
「な、キース。キースもブラッドと一緒に出かけたいよな!」
(何がキースも、だ)
ブラッドと並んで街を歩くだなんて想像するだけで嫌だ。放課後ならともかく、休みの日に私服で並んで歩くなど、ますます自分との差異が強調されるだけで、考えるだけで居心地が悪い。ディノにはそんな感覚は全くないのだろう。
街を歩いているところを想像して、自分と歩くディノよりも、ブラッドと歩くディノの方がよほど輝いてみえるような気がした。効率を重要視しながらもなんだかんだで優しくてスマートなブラッドのことだ、ディノの無茶な行動も適度におさめて、ディノは持ち前の好奇心でブラッドを退屈させることなく楽しく街を歩いて……自分の入り込む余地が、キースには全く想像できなかった。
しかし、誰がここで「ブラッドと出かけるのは嫌だ」等と言えるだろうか。ましてや理由が理由だ。いい歳して空気を読まずに小さい子供のような仲間外れを求めるような発言などできるはずもない。
結局、ブラッドは用事があるからとディノの誘いを断った。それにホッとしている自分、ブラッドを自分とディノの間にいれたくない自分、それに気づいてしまったことが、何よりキースの気を重くさせた。
ディノが並んで隣を歩いている。いつものように、何が楽しいのか、楽しそうな顔でキースに話しかけてくる。話している間にコロコロと表情が変わるその生き生きとした様子が、騒がしくて鬱陶しくて、でもキースは好きだった。そのうちにディノが前方に何かを見つける。それまでよりももっと楽しそうなものを見つけた、というような顔になって、ディノは走り出した。キースを置いて。
――おい、待てよ。
『キースもおいでよ!』
ディノの走っていった先には、ブラッドがいた。簡単に、あっけなく追いついたディノはブラッドの肩を叩き、振り返ったブラッドもディノに笑顔を浮かべる。
――待てって。
こっちを振り向いたディノは、必死に追いつこうとしているキースへ思いもよらない言葉をかけた。
『もうキースはいいよ』
言葉の意味が理解できなくて、足が止まる。ディノは、恐ろしいほどいつも通りだった。いつも通りの笑顔を浮かべて、残酷にキースを切り捨てる言葉を口にした。
『友だちにするなら、ブラッドの方がキースよりずっとずっといいもん。もうキースはいらない』
――なんだよそれ。
二人が並んで歩きだして、あっという間に遠ざかって行ってしまう。
『大体キースなんて、俺がお金を払わないと友だちでもなんでもないんだし』
――待て、待ってくれ!
目を覚ますと、寝ている間にかいたであろう汗でシャツが体に貼り付いて、ひどく不快だった。枕元のスマホで時間を確認ると、もう夜は過ぎていたが、まだ起き出すにはかなり早い時間だった。
ひどい気分ではあったが、夢であったことにキースは安堵した。確認するまでもない、ディノがあんなことを言うはずはなかったが、それでも現実で置いて行かれたわけではないことを認識し、心底安心した。
到底寝なおす気分にはなれず、手元のスマホの画面を確認する。真っ暗な部屋の中、目に痛いほどまぶしい画面には、ディノからのメッセージが届いたことが表示されていた。送られたのは昨日の夜。キースは早々にベッドに入ってしまったが、まだ起きていても不思議ではない時間だ。何も考えずにディノからのメッセージを開いて、キースは一瞬呼吸を忘れた。
『キース、あの後もう一度ブラッドに聞いてみたんだけど、14時までなら一緒に行ってもいいって返事くれた! 明日は三人ででかけような!』
なんともいえない、苦々しいものがキースの胸の内に広がった。まるで、さっきまで見ていた夢が別パターンで再生されたものを見ているような気分だった。筆舌に尽くしがたいその不快感を直視できず、キースは衝動的にメッセージを送った。
『悪い。今日バイト入った。出かけるの無理』
スマホの電源を切ってベッドを抜け出し、適当な服に着替える。もちろんバイトが入ったなんて嘘で、行くあてなんてどこにもない。けれども、キースはディノともブラッドとも顔を合わせたくはなかった。直接言葉を交わせば、嘘をつきとおすことはおろか、今度こそ不快感を露わにして本人らへぶつけてしまいそうだった。そしてそれが、ディノのせいでもブラッドのせいでもないことをキースはよくわかっていた。最低限の持ち物を手に、キースは寮の自室を後にした。
ブラッドがもっと、嫌なヤツだったらよかった。家柄や自分の容姿や才能を鼻にかけて、教師や周囲の目におもねるような嫌なヤツだったら。あるいは、他のアカデミー生のようにキースを遠巻きにして鼻つまみ者の犯罪者として差別するようなヤツだったら。そうしたら、もっと簡単に嫌いになれた。こんな風に焦りや罪悪感を感じなくて済むのに。
消灯時間ギリギリになって、ようやくキースは寮へ戻ってきた。どこかで夜を過ごすことを考えなかったわけではないが、明日はアカデミーへ登校しないといけないし、必死で金を稼いでいた頃ならいざ知らず、特に目的もないのに日付をまたいで外出するのはさすがにリスキーだった。そっと足音を殺し、自室へ戻る。なんとなく灯りを点ける気になれずにいると、すぐにドアがノックされ、キースは飛び上がった。
居留守を使うことも可能だが、相手はキースが帰ってくるのを待ち構えていたに違いなかった。さてはあの神経質な副寮長か、そう覚悟してドアを開いたキースの前に現れたのは、ディノだった。
「……キース、おかえり。遅かったね」
「あーその……悪かったな、今日は」
時間帯を考慮しても、ディノの言葉にはいつもより張りがなかった。おまけに、出かけるのに連れていってもらえなかった犬のように元気がなく、視線も下を向いている。
「俺、何度も連絡したんだけど、見なかった?」
スマホの電源は切ったままだった。気づいて、電源をいれる。メッセージも着信も何回も入っていた。
「その……忙しかったんだよ。気づかなくて悪い」
「…………」
「ディノ?」
ディノは怒っているような、拗ねているようななんともいえない顔をして押し黙っていた。しばらく沈黙が二人の間を支配する。直前で約束を反故にしたのはたしかにキースの落ち度だが、帰って来たところに早々に部屋に押しかけてきて無言の圧をかけるのはさすがにあんまりではないだろうか。黙ったままでいるディノにしびれを切らして、キースが口を開こうとしたその時、ディノが絞り出すような声で話し出した。
「昼間。キースのバイト先、行ったよ。今日は入ってもらってないし、そんな連絡もしてないって言ってた」
「……それは」
「あんな朝早く、バイトが入ったなんて嘘だよね」
「ディノ」
「なんで嘘ついたんだ?」
そんなに、出かけるの、嫌だった?
ディノの大きな目には、言葉に詰まったキースの顔が映し出されていた。ディノは、怒りをぶつけるよりも何よりも、キースの真意に向き合いたくて部屋に来たのだ。
「……悪い、オレ」
「謝ってほしいんじゃないよ。俺、キースに何か嫌な思いさせてた? キースはいつだって、俺に言いたいことちゃんと言ってくれたよね」
違う、ディノが悪いわけじゃない。今にもキースは叫びたかった。
何も失いたくない。何にも置いていかれたくない。ディノはきっとそんなことはしないのに、ディノが大切にしてくれる自分のことを信じられない。キースの臆病のせいだ。けれども、この気持ちをどう伝えていいのかわからない。ディノにどこにも行ってほしくない、ディノの隣にいるのは自分だけでいい。そんな、剥きだしの欲求をそのままぶつけるなんて、あってはならない。だってディノとキースはただの友だちで、いや、金を貰って友だちをやっているだけで――
自分の中の感情が噴き出すのを必死に抑えるのと、目の前のディノに当たり障りなく伝える言葉を探すことにいっぱいになり、キースは混乱していた。それを、話したくなくて口ごもっているのだと勘違いしたディノが更に口を開いたが、次の言葉を聞いたその瞬間、キースの理性は蒸発した。
「ブラッドも心配してたよ、どうしてキースは」
「ブラッドブラッドうるせぇよ」
静かだったがたしかに響いた声に、ディノが言葉を失ったのがわかった。
「そんなにあいつが好きなら、あいつと二人でいればいいだろ。オレを巻き込むなよ」
この期に及んで、ディノの口からブラッドの名前が出たことが我慢ならなかった。そもそも、最初はディノとキースの間の約束だったはずだ。ディノが勝手にブラッドを巻き込んだせいで、キースは嘘までついて約束を破らなければならなかったのだ。それなのに、ディノはキースのことよりも、キースを心配するブラッドのことを気にかけている。少なくとも、キースはそう感じた。
「オレは、あんな金持ちでイヤミったらしいヤツとは仲良くできねぇよ。お前が言うからしょうがなく一緒にいただけだ。いい歳してなんでもかんでもみんなで仲良くとか勘弁しろよ」
キースの唐突な告白に呆然としていたディノから、そんな、と力なく言葉が漏れた。キースの告白に驚かされ、そして自分がキースに我慢を強いていたことに対する落胆だった。
「金貰ってても、オレの都合を優先していいって話だったよな? だから言葉通りにさせてもらっただけだ。お前がつまんないこと聞かなけりゃこっちだってお前の仲良しごっこに付き合ってやってたのに」
キースの言葉が、矢のようにディノの心に容赦なく突き刺さっているのがわかった。わかってはいたが、止められない。けれど、もうキースは我慢できなかった。子供のように癇癪を起こしてみっともないという冷静に自分の行いをたしなめるキースもたしかにいたが、今はディノが自分の感情よりもブラッドの気持ちを優先したのが悪いという非難めいた怒りがキースを支配していた。
「……もういい? オレ寝るから」
キースの言葉に、言葉を失ってただただ立ち尽くしていたディノは、ようやく我に返ったようだった。それを見届けて、返事を待たずにドアを閉める。完全に扉が閉まる前、暗い部屋からわずかに見えたディノは、キース、と小さく名前を呼んだ。それに気づかないフリをして閉めたドアを背に、キースは立ち尽くす。ややあって、ディノが立ち去った足音を耳にして、ずるずるとそのまま座り込んだ。
次の日、キースはなるようになれと思っていたが、意外にも事態はあっさり解決した。朝、通学路で声をかけてきたディノが、開口一番キースへ謝罪したのだ。
「ごめん。俺、キースの気持ち、何も考えてなかったよな」
「…………」
「キースは優しいから、俺の言うこと何でも許してくれて、それに甘えちゃってた。許してほしい」
「……もういいって。オレも、言い過ぎたし」
正直、これで友だち契約を切られてもしょうがないものと思っていたが、ディノはキースの気持ちを無視したという部分に自分の落ち度があると深く反省したらしい。キースとしても、気まずくはあったがディノから離れたいわけではなかったので、すぐにディノの言葉を受け入れた。
その日から、ディノはキースと過ごす時にブラッドを連れてくることはなかった。ブラッドにどう説明したものかキースが窺い知るところではなかったが、あちらが声をかけてくることはなかった。ただ、時々ブラッドからこちらへ視線を感じる時があったが、キースは意図的にそれを無視した。今更、どんな顔をすればいいというのか。
ここしばらくのもやもやとした気持ちが嘘のように、日々は日常を取り戻した。ひとつ変わったことがあるとしたら、ディノはブラッドとの付き合いを続けているところだった。キースと一緒にいる時間が半減し、アカデミーにいる時はキースと全く一緒にいない日もあった。それでも、そういう日は必ず放課後はキースの部屋を訪れ、キースがバイトに入っている時はそちらへ顔を出した。ディノはキースと同じくらい、ブラッドのことを大切に扱っている。真意は不明だがそう感じた。
何も変わらないはずが、一人になった時間が増えたせいで、キースは考え込むことが増えた。ブラッドのことはもういい。ほんの少し前まで一緒にいた者が決裂するなど、多感な年頃の少年少女が集まる学校生活ではよくある話だ。どこか胸に残るわだかまりについて、キースは深く考えることを避けた。今考えることは、第二、第三のブラッドが現れた時のことだ。
あれだけ明るくて快活なディノだ、いつ、同じような事態が起こるかわからない。その時、果たしてディノはキースのことを選ぶだろうか。今度こそあっさりとキースを捨て、新しくできた他の友だちの手をとって行ってしまうのではないか、そういう恐れがキースには常につきまとった。他にもっと魅力的な相手がいたら、ブラッドはともかく所詮は金で買われた自分は捨てられてしまうのではないか。それを避けるためには、どうしたらいいのか。最近のキースはずっとそんなことを考えていて、そしてひとつの結論にたどり着いた。
付加価値が必要だ。
ディノがどんな気まぐれを起こして自分と友だちになりたがったのかはいまだに不明だが、いつまでも金を払って買われているような立場ではだめだ。自分にしかないオンリーワン、ディノが、自分から離れがたくなってしまうような何か。組織でも、誰にでもできる仕事しかできないヤツは使い捨てだったが、組織の重鎮に気に入られるか、何か能力が秀でている者は簡単には切り捨てられなかった。そいつらには付加価値があったからだ、とキースは考える。ただの友だちではなく、プラスアルファでキースの価値を高めるような何か。できれば、ブラッドにはなくてキースにだけあるようなものなら尚いい。ディノがブラッドとの付き合いをやめない以上、また天秤にかけられて捨てられるようなことがないとは言い切れないのだから。
しかしそんなものは簡単には見つからず、そうしているうちに数日が過ぎ――キースとディノの間にあったどこか気まずい、ギクシャクしていた雰囲気は、いつのまにかすっかり消え去って行った。
風の冷たい日だった。キースの部屋で課題を終わらせたディノはコミックスを数冊取り出し、キースにも勧めてきた。最近流行っている、面白いよと言われて読み始めたものの、キースはここのところ暇さえあれば例の付加価値について考えていたので、頭に内容が全く入っていかなかった。
(どうしたら、コイツの中でオレは唯一無二になれるんだろうな……)
キースのベッドに我が物顔であがり、座って真剣な顔で本を読むディノをこっそり見ながら考える。色々と考えたが、どうしてもこれだというものが思いつかない。金も、勉強も、キースがディノに施すどころか施される側だ。プロ級に美味いピザを作れればあるいは、と考えたがそれすら安価で美味いピザ屋がそこら中にゴロゴロしており、とても現実的とは思えなかった。
もっとシンプルな何か、ディノの心をつかんで離さないようなもの。
考えれば考える程答えは見つからず、疲れきってキースは考えるのをやめた。そうして、キースはディノがじっとこちらを見ていることにようやく気付いた。
「キース」
「……何? もしかして、また腹減った?」
どこか言いにくそうにもじもじと言い淀むような姿に先回りすれば、違うよ! と心外だとばかりに勢いよく元気な返事がかえってきた。
「じゃあ何」
「えっと……その、キースは、誰かとキスしたことあるか?」
「ハア?」
突拍子もない質問に、今度はキースが大きな声を上げた。
眉根を寄せたキースの視線にしどろもどろになりつつも、ディノは話し出した。
「あー……えっと、俺、その……今日、お昼休みに友だちが女の子に呼び出されてたところを、たまたま見ちゃって。それで、その女の子は、告白したんだけど、フラれて……」
「はぁ……」
「女の子は断られて泣きそうな顔になってたんだけど、最後に相手の男の子に言ったんだよ。思い出にキスしてほしいって。そうしたら、諦めがつくからって」
「そんでお前、のぞき見してたのかよ。他人がキスするとこ」
対照的に冷静なキースのツッコミに、ディノは大げさに違うよ! とまた過敏に反応した。
「ちが、違う、俺は見てない! さすがにそれは、見たらダメなやつだと思って、そっと逃げたんだけど」
「じゃあ、そいつらがキスしたかどうかは知らねーってことか」
「そう、それで……なんか、落ち着いたら急に、みんな、普通にキスとかしたことあるのかなって、気になってきて」
「ふーん……」
きっと友だちとやらはブラッドなのだろうが、あれほど顔がよければフラれてもキスしてもらっただけでそれなりにいい思い出になるのだろう。果たして、あの潔癖なカタブツがそんな女心を理解したかどうかは怪しいが。それよりも、キースが気になるのはディノの反応の方だった。ディノは可哀そうなくらい顔を赤くしている。田舎育ちのことだ、きっとそういったことに疎いのだろう。けれど、興味がないわけではない。年頃の少年なら当然のことだ。しかしなぜか、キースはディノにもそういった感情があることをすっかり忘れていた。そういった話題をディノとしてこなかったこともあるが、なぜかそういう欲に溺れるディノというのが想像できなかった。
(……欲)
「なぁ、キースはキスしたことある……?」
普段の快活な様子はすっかり鳴りを潜め、なぜか小声で、ディノはとても重大な秘密を聞くようにキースに尋ねた。その必死な様子にサラリと、なんでもないことのように答える。
「あるぞ」
「えっ 嘘 いつ、誰と」
キースの答えに目を丸くして、驚くディノ。この分では間違いなくディノは未経験で、そういった行為に耐性がないことが察せられた。
「秘密。つーか、皆そんなもんさっさと済ましてんだろ」
「え、ええ……」
すげないキースの言葉に、ディノがあからさまに落胆する。ややあって、皆もうとっくに経験してるのかな、等とぶつぶつと独り言のようにボソボソと一人でしゃべっている。
キースはそのディノの様子をみて、ふとあることを思いついた。一度頭に浮かんだそれは、みるみるリアルな像を結び、キースにそれが現実的なアイディアであることを伝えてきた。
「気になる?」
「え、そりゃ気になるよ……皆とか言われたら、俺以外は経験済みなのかなって思うし」
ひとりで狼狽えているディノを見て、冷静に、キースはこれはチャンスだ、と考えていた。ディノを絡めとる鎖。キースにつく付加価値。なぜ今まで気づかなかったのだろう。
ディノが既に持っているもので与えられないなら、まだ知らないもので夢中にさせてしまえばいい。大なり小なり、年頃の少年なら必ずといっていいほど持ち合わせている、シンプルな欲求。性欲。
「そうだよなぁ、この歳でキスもしたことないなんて、ちょっと問題あるよな」
大げさに言えば、ディノが不安げな目をしてこちらを見てくる。余りにもその顔が無防備で隙だらけで、キースは密かに唇を舐めた。
「俺、変かな……」
「変ってこたぁないけど、なぁ?」
言外に遅れてる、とでも言いたげなニュアンスを含めば、ディノはうう、と小さく唸った。いたぶられる小動物のようだった。
あと一押し、キースは小さく息を吐いた。
ディノがキースから離れそうなら、離れられないようにしてしまえばいい。肉欲に抗えずに身を滅ぼす人間を、キースは何人も見てきた。それくらい、大の大人でも性の欲求には抗いがたい。ましてや思春期の少年、同性なら異性よりもむしろ、簡単に気持ちいいことを教え込むことができる。籠絡するのはたやすいことのはずだった。
(ブラッドにはできない芸当だ)
あのカタブツは、やろうとしてもこんなことはできないだろう。そもそも、そんな考えすら湧かないだろう。当たり前だ、そんなことしなくても、ディノはブラッドから離れることなどきっとないのだから。
「俺も早くした方がいいのかなあ、でもキスは相手がいないとできないし」
暗い思考に浸り始めたキースを、ディノの声が引き戻した。今は、ブラッドの事など考えている場合ではない。慎重に事を進めなければ。
「相手がいたらするのかよ」
「そりゃ、したいよ。でも俺、彼女とかいないし」
「……じゃあ、してみるか」
え、と間の抜けた声をあげると同時に、ディノの目がまんまるに見開かれる。狭いベッドの上で素早く距離を詰め、言葉の意味を飲み込めていないことが察せられるその顔を両手で包み込み、そっと唇に唇で触れた。
柔らかい。
重ねたそれはふにふにと頼りなさげな感触で、ほんの少し前まで食べていたピザの油っけのせいか、滑らかだった。
すぐ離して間近のディノの顔を見れば、そこにはただただ驚きしかなかった。嫌悪や恐怖といった感情が浮かんでいないのを伺ったキースはしめた、と再度顔を近づける。今度は顔を傾けて、より深くキスした。
「キース、」
触れる直前にディノがあげた声は、キースの唇に飲み込まれた。押し付けては離し、微妙に角度を変えて何度も口づける。やがて、無防備に薄く開かれたディノの唇をキースの舌がくすぐってぬるりと入り込むと、ディノの肩は大袈裟に跳ねた。
キースのものよりも高い体温。いつかの夜に繋いだ手のひらよりも、もっと深い部分。歯列をなぞり、奥に縮こまっていた舌に舌で触れれば、濡れた粘膜が触れ合った感触にやがて境目は消えてしまうのではないかと思わされた。
は、と浅い吐息の合間に伏せていた目を薄く開き、そっと様子を伺う。ほんの少し前まで固まっていたはずのディノは、いつしか顔を真っ赤にして、目をとろんとさせて与えられるキスにされるがままになっていた。
ぶわり、と体温が上がったのが自分でもわかった。
初めて見る顔だった。キース以外の誰も、きっとブラッドにだって見せたことがない顔。それを暴いて、こうやって晒させていることにキースの深いところが疼いた。何も考えられず、衝動のままに舌を吸って、唇を食む。
ディノを籠絡してやろうと思っていたのに、いつの間にか夢中になっていたのはキースの方だった。薄っぺらい企みは頭から蒸発し、熱に浮かされたようにキースはディノの唇を貪った。
体を支えていられなくなったのか、体勢を崩したディノは後ろに倒れかけ、ベッドに肘を突き半身を支えていた。それに、逃さないとでも言うようにキースがのしかかり、一度離れた唇を再度押しつける。同時に伸ばした手はディノの腰の辺り、アカデミーの制服の裾を捉え、するりと中に入り込んだ。
「!」
明確に、ディノの体が強張ったのがわかった。わかったが、それを捉えてどうこう考えを巡らせる程の余裕はもはやキースにはなかった。指先で触れる、滑らかな肌の感触。手のひらをペタリとくっつけると、そこにある生きた体の生々しい温度が直に伝わってきていよいよ頭が沸き立ちそうだった。もっと、もっと。そうして、欲望の赴くままにディノの体に手を這わせ――
「や、やだっ……!」
衝撃と共にキースは後ろ手をついた。一拍置いて、ディノに突き飛ばされたのだと気づいてようやく我に返った。目の前のディノは、体を起こして上半身を守るように丸め、息を荒げたままこっちを見ている。キースを見つめるその顔に、一瞬で血の気が引いた。
「そのっ、キースのことは……嫌いじゃないけど、……こういう風には、したくない!」
声も出せないキースをよそに、ディノはベッドから降りたかと思うと、バタバタと音を立てて部屋を出て行った。残されたのは、静かになった部屋と、さっきの興奮が嘘のように引いたキースだけだった。
(オレ、何して)
キースを拒んだ、ディノの顔。悲しそうな怒っているようなあれは、深く傷ついた顔だった。
(なんで)
どんな目にあってもキースを信じてくれたディノ。向けられた心にまた、キースもディノに心を開いた。泥沼から抜けてなお厳しい人生の中で見つけた、真実美しいもの。誰にも侵されない、かけがえのない大切なものだったはずだ。
それを、汚した。壊した。どうしようもない最低な形で。他でもない、キース自身の手で。
自分のしでかしたことにキースはただただ呆然とするしかなかった。唇に残る感触が、手に残る体温が、さっきの一連の出来事が現実なのだといやでも伝えてくる。
何が付加価値だ。何が籠絡だ。どうしようもなく子供っぽい、けれどどうしようもない独占欲で、キースはディノをとられたくなかっただけだった。自分からディノが離れていくのに耐えられなかった。それだけだ。
初めて、自分の中にあるディノへの特別な感情に気づく。けれどもそれは、気づいたと同時にキースに深い喪失感をもたらした。
傾いた陽が部屋の中に差し込んで、ベッドに座るキースに影を落とす。もう、以前のようには戻れない程、取り返しのつかないことをしてしまった。後悔の念だけが、キースの胸に渦巻いていた。