甘やかして、甘やかされてS級になって忙しい日々でも、ぽっかりと時間が空くときはあるものだ。
昼間からベッドで大の字になり、時計が刻む規則的な音に耳を傾ける。
レベルアップのためにダンジョンへ潜る気にもならず、ぬるい室温と柔らかなマットレスに包まれて息をつく。
(…そういえば、排水溝の掃除を最後にやったのはいつだっけ。テレビ台の下に埃が転がってたような…早いけど、晩飯の仕込みも始めるか)
体と違い頭の方はまったく休む気にならないようで、長年の習慣となった家事の段取りをつらつらと考えてしまう。こういう時に掃除やら料理をしたくなるのは何故なのか。
E級だったころは、朝から晩までダンジョンを駆けずり回ってもたいした報酬を得られなかった。ランクが上がった今では有り余る蓄えがあるので、あくせくと予定を詰める必要もない。それでも時間を無駄にしたくないという、染みついた貧乏性からはそうそう抜け出せないらしい。
まだ母さんの病を治すためにもがく道の途中だ。立ち止まっている暇はない。それでも、ここ最近は変化がありすぎて疲れている自分がいる。プレイヤーになったことに加え、戦いを経るごとに新しい影の兵士も増えつつある。イグリット、タンク、アイアン、キバ…。幹部級の影たちの頼もしい姿を思い浮かべれば、自然と口角が上がった。
ふと、その中でも一番付き合いが長い影の、特異な色がよぎる。
やりたいことが出来た。むっくりと身を起こし、ベッドサイドのチェストを漁る。あった。葵から誕生日プレゼントにもらったばかりのそれ。男にこんな物、と難色を示したが「嬉しくないの?」と笑顔で凄まれれば頭を下げるしかなかった。今は男の人だって清潔感が大事なの!お兄ちゃんはメディアにも出るし!と力説され、そういうもんかと納得してとりあえず放り込んだんだった。片手に持ったそれを、反対の手に打ち付ける。さて、こういうくらだない用事で呼び出していいものだろうか。一拍考え、まあいいかとすぐに結論を出す。
「…イグリット」
呼びかけに床が黒く盛り上がり、その中から騎士が現れる。印象的な紅いプルームをなびかせ、優雅な所作で跪いた。さらりと床に流れるそれを見て、決意を固める。
「イグリット、そこに座れ」
ぴっと床を指す。そのまま指をくるりと回し、ベッドに背を向けるよう促す。
固い床はかわいそうかと一瞬よぎったが、影だし、まあクッションとかいらないだろう。たぶん。
忠実な騎士はわずかに首を傾け、それでも大人しくあぐらをかいた。
ガシャンと鎧が音を立てるが、床を傷つけない丁寧な所作に好感が持てる。
ベッドの端に移動し、足を開いてイグリットを挟むように放り投げた。ぴくり、とイグリットの肩が揺れたが、動かずに命令を守っている。
俺よりもずっと背が高いが、傍に跪くことが多いので、何度か見下ろしたことはある。その度に触ってみたいな、とうずく気持ちがあったのだ。戦場を流れるあの鮮烈な紅は、どんな触り心地なのかと。
(タンクのこともつい撫でちゃうし、俺ってそういうフェチがあるのかな…)
す、と頭頂部から流れるプルームに指を這わす。優しく、驚かせないように引き寄せて撫でる。また肩が揺れたが、乱暴にされるわけではないと理解したからか、わずかに硬くなった雰囲気がほどけた。主をどれだけ凶暴なヤツだと思ってるんだ、こいつは。見た目から布のような質感かと予想したが、案外毛のように細かく分かれていた。
これなら、葵からの贈り物も役に立つだろう。滑らかな木製の持ち手に、まあるく獣毛が生え揃ったこれ。身だしなみの定番、櫛だ。せいぜいプラスチック製の安い櫛しか使ったことがなかった俺は、その見た目に戸惑ったもんだ。
プルームを掌に乗せ、引っ張らないよう少しずつ梳かす。元から傷んでいるようには見えないが、櫛を通せばわずかに艶めくような気がした。
布を引きずるような、小雨が降るような、さやかな音が幾度も鳴り、手は動かしたいが考え事はしたくない、という今の気分にぴったりで心地よい。
窓から降り注ぐ陽に照らされ、部屋には俺の濃い影が落ちている。ふいにそれが揺れ、ぼうと青く光る目が幾対も浮かんだ。それが時に増えたり減ったり、目まぐるしく明滅する。まるで、かわりばんこにこちらを覗いているようで微笑ましい。
(…もしかして、外に出たいのか)
敵を倒せば諸手を上げ、身を寄せ合って盛り上がる姿を見たことがある。意外と情緒豊かな影たちは、好奇心も旺盛なようだ。戦闘や警戒、護衛以外で影を拘束するのは珍しいし、気になるのかもしれない。
床が抜けると困るので、一般兵と魔法兵それぞれ数体だけに顕現を許可する。音も無く現れた黒い兵達に囲まれ、突っ立たれると圧迫感が酷い。青白い光源はあるが、手元が暗くなったので座るよう指示した。
あぐらだったり、三角座りだったり、正座だったりと思い思いの姿勢に収まった影たちは、じっと俺とイグリットを見つめている。正確には、俺の手つきをか。
すす、とプルームの付け根から中ほどまで櫛を通せば、面白いくらい影たちの首が追うように動く。次に俺の髪にも櫛を通して見せれば、一部の兵が自らの頭を撫で始めた。
もちろん、鎧同士が触れあう金属の音しか響かないが。
「ふ、お前には毛がないだろ…」
ついおかしくて口元を押さえると、沸き立つように影たちが揺れた。それからは、気の済むまでプルームを梳き続けた。イグリットはじっと受け入れている。影の兵士たちは疑いようのない味方で、(物理的に口が利けないだけだが)静かなのも好ましい。それにいざとなれば、俺の剣になって守ってくれるだろう。ここには、俺を脅かすものもが何も無い。春の陽光に包まれ、穏やかな時間が過ぎていく。何が面白いのか、俺の伸びた影が部屋を横切るまで、影たちはじっと見つめ続けていた。
「よし、終わりだ」
良い仕事したな、俺。格段に指通りがよくなったプルームを放り出し、さらさらと流れ落ちるのに満足した。それを見た影たちがパチパチと手を叩くのに、鼻の下をこする。
陽が随分と伸びたとはいえ、もう夕方に差しかかる時間だ。そろそろ晩飯の準備をしないといけない。
「影に戻れ」
指示を出すと、大人しく兵たちが影に沈んでいった。ゆったりと立ち上がったイグリットが俺に頭を下げた。謝意を示す必要は無いけどな。苦笑してベッドから下り、イグリットの肩に掌を乗せる。くだらない暇つぶしに対するねぎらいだ。
「ありがとう、イグリット。お前も戻れ」
聞こえているだろうに、影に戻る様子もなく、じっと見下ろされて眉を寄せる。どうした?と口を開く前に、鎧に覆われた大きな手がこちらに差し出された。
握手…?それはないか。視線を追うと、手に持ったままの櫛を見ているようだった。
「これか?」
特に疑問に思わず渡すと、あっさりと受け取った。サイズが合わずおもちゃのような見た目になったが、存外繊細な手つきでくるりと回し、毛先がこちらに向けられた。
「…ッ」
何を、と思う間もなく視界が黒と青に覆われた。同時に、頭を優しく撫でられる感触がする。髪を梳かれている。頭頂部から毛先にかけて、幾度も撫でおろされる。それは丁寧な手つきで。片方の手は腰に回り、柔く抱き寄せられていた。
さっきまで自分がしていたことなのに、動揺した。もういい大人なのに。髪を梳かれるなんて、幼い頃母にしてもらって以来のことだった。今よりも少し若い母に甘えて、よくねだった記憶がよみがえる。
イグリットからは、俺の頭しか見えないことを願った。きっと顔が真っ赤になっている。じわり、と潤んだ瞳も見られたくなかった。両側に垂れる黒いマントを引き寄せて、胸に顔を寄せた。何を思って、俺の髪を梳いているのかはわからない。忠義に厚い彼のことだ、お返しのつもりかもしれない。ただ自分がされたことを学び、再現しているだけかもしれない。それでも、その手つきからは確かに労りが感じられた。
もう少し、あと少しだけ。薄暗い部屋にイグリットの輪郭が溶けるまで、髪の流れる優しい音と、鼻をすする音が、部屋を満たしていった。