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「過労、睡眠不足、不規則な生活習慣。こちら、前回からの改善は見られません。そして栄養不足による体重減少、軽い貧血によるめまい。そのせいで危うく教材と一緒に階段から落ちるところでした。今回は一段と酷いですね、先生。何かわたしに言うことはありますか?」
突如襲われた眩暈ののち意識が途切れ、重い瞼を開くと映るのは先程まで目を通していた文献ではなく、ヒアンシーの泣き出しそうな顔だった。何事かと目線だけを動かし、彼女越しに見えた天井は樹庭に設けられている医務室の見慣れたもので、少々の頭痛に眉を寄せ嘆息を吐いた───そこまでは時折あるやり取りなのだが。
「………特には」
「ここが弁論大会の場にならなくて良かったです。分かっているとは思いますけど、今日は一日安静にしていてもらいますから」
「ところで私が持っていた書類は、」
「先生」
「……………」
今日のヒアンシーには言葉へやけに棘があり、普段の柔らかな話し方や振る舞いなどは影もなく…端的に言うのなら、私に対し怒っているようだ。遮るなと言うよりも口を噤ませる方を無意識に選んでしまわせるほどに。
(並べ立てられた原因、意識を失う直前の場所……はあ。流石に数日間寝ずの実験は堪えましたか。彼女は大袈裟ですが、完全に私の落ち度が招いた結果…今は回復に努めるほかなさそうです)
道具をまとめ棚へ片付けに向かうヒアンシーの背を一瞥し、手持ち無沙汰に左手を動かそうとすれば、ちくりと痛む。見遣ると手套は無く、晒された左腕の静脈に刺さる細い針。その針が抜けない程度のきつさで薄布により固定され、寝台脇の器具と管で繋がっていた。栄養不足と診断されたため、静脈を通じて栄養補給に用いられる投与する医療技術を施されているのだろう。
器具に下がっている栄養輸液はまだたっぷりと入っており、全て補給されるまでにはおよそ数時間。それまでただ横になっていろと言うのだから、私にとっては時間の無駄でしかないのだが───
「先生、動いたら針が外れちゃいますよ〜。外れてしまったらやり直さないといけませんし、先生も痛い思いと無駄に時間をかけることはしたくないですよね?」
何を察してか、棚の方からヒアンシーがわざとらしく咎める声を掛けてくる。
(仕方ない。終わる頃に起きれば良いでしょう)
無言で左腕を戻し、私は瞼を閉じることにした。
視界を閉ざしたかわりに他の感覚が鋭くなる。ヒアンシーが器具を片付ける小気味良い音、医薬品のにおい、柔らかな寝具…微睡み始めた意識に届く全てが心地良く私を包む。
(こうして、休息に時間を割いたのは…随分と久しい…)
──実験は最終段階に入る。急ぎ材料を揃えなければ。そして先程見つけた記録と研究内容との比較、分析、検証…やるべきことはいくらでもあり、休んでいる暇などない。
だが、逸る心をこうも鎮められてしまえば、如何に私と言えど微睡みに身を任せる他なかった。
「あ。良かった、先生眠ってます…」
そうしていると、静かな足音が近付く。寝台の傍で止まり、穏やかな声と共に影が降ってきた。普段なら覗き見られたことに対し苦言を呈するところだが、今は瞼を開く方が億劫に感じている。
それもこれもこの状況に抵抗感が薄れているせいであり───
───あったのだが。
カタン、と近くに──椅子だろうか──道具を置く音が加わる。次いで、それに掛けたヒアンシーが、まるで子供をあやすように寝具越しに私の胸元に手を添えてくるものだから。
「……余計な世話を焼く必要はないでしょう」
重たい頭をヒアンシーの方──瞼を開け彼女を捉える──へと傾け呟いた。
「起こしてしまいましたか?」
「そもそも寝ていませんから。…ヒアンシー。同じことを二度言わせないでください」
驚いた様子もなく、ヒアンシーは小さく微笑んでいた。
──とん、とん。私の様子を意にも介さず、彼女は一定の間隔で軽く胸元に手を落とす。
鼓動と重なり、掌から体温が伝わってくる。じわりと、この空虚な身体に沁み込むように。
「わたしがこうするのは、余計なことなんかじゃないんですよ」
穏やかに話し始める彼女の声音が、子守唄のように聞こえる。
「先生がゆっくり休めますように、良くなりますように。わたしの想いが伝わって、先生がもう無茶をしませんように……。そんなたくさんの想いを込めて、今、わたしはそばでこうしているんです」
「………そんな、医療行為は…聞いたことが、ありませんね…」
とん、とん…
あたたかな感覚が話し声と相俟って、再び私を微睡みが誘う。
「はい、初めて言いました。だって……」
とん…とん…
ヒアンシーの唇が言葉を紡いだ。けれど聞き取れない。ヒアンシーの手が私へ優しく落ちる。何度目だろうか。鼓動と重なり合い、私の身体の一部になったようだ。
全て曖昧になり、意識が完全に私から離れていこうとする───しかし、その前に。眠りへ就いてしまう前に紡がれた言葉は、一体何だったのだろうか───
*
「おやすみなさい、アナイクス先生」
規則正しい寝息が聞こえ始めた。ちゃんと眠りに就いてくれて初めて、わたしは安心感から緊張を解いた。
「上手く出来たみたいで、良かった…」
自分の鼓動を感じながら先生に添えた手は、想像以上に優しい効果をもたらしてくれた。
とん、とん。急がないように、でも遅すぎないように。合わせて…重ねて。
こうして貴方が目覚めるまでの暫くを。紡いで…触れて。
本当は少し手が震えていただなんて、先生には内緒です。
「だって……"先生にだけ、ですから"」
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